薄明の足音

@naka3h

第1章 日常

1話

 けたたましいアラームの音に、俺は思わずベッドの上で身をよじった。「休講…だったかも」 半分寝ぼけた頭に、そんな都合のいい妄想が浮かんが、スヌーズが三度、執拗に俺の鼓膜を揺らすうちに、それがただの甘い幻想だと観念した。

 家を出ると、ひんやりとした空気が肌を包み込んだ。あくびを噛み殺し、駅までのゆるい上り坂を歩く。土と枯葉の香りが混ざり合った秋の匂いが漂う中、細長い脚が自然とリズムを刻み、歩幅も少しずつ伸びていく。

 駅から続く並木道を抜け、キャンパスの中心にある大きな校舎へ向かった。校舎のコンクリートの壁には、古びた蔦がところどころ絡みついている。三階の窓からは講堂のざわめきがかすかに聞こえてくる。

 俺の名前は青山 峻(あおやま しゅん)。 大学三年で、特に何かに秀でているわけでもない普通の学生だ。

 就活も面倒くさくて先延ばし。軽音楽サークルでは幽霊部員。講義とバイトのルーティンに埋もれる日々を送っている。

 今日の講義は『現代社会論』。就活に役立つとか言われているけど、正直ピンときていない。

 講堂の扉を押し開けると、半分ほどの学生が席についていた。階段状の座席は整然としていて、俺は窓際の席に座った。隣にはいつも通り、スマホをいじっている友人の姿があった。

 講堂の扉が開き、少し年季の入ったスーツ姿の男が入ってきた。白髪混じりの髪はきちんと整えられていて、教壇へとゆっくり歩いていく。

「講義を始めます。」

 教授がマイクを手に取り、淡々とした声が講堂に響いた。

 講義の内容は、将来の職業選択や、社会における価値判断をどう考えるか、そんなテーマらしいが、内容はだいたい曖昧で掴みどころがない

 そんな教授の話が続く中、たいていの学生は寝ているかスマホをいじっているという有様。かくいう自分のその一人だ。

 ふと気まぐれに顔を上げると、教授は黒板に「選択」「決断」「結果」といった単語を書き並べている。そのチョークの音が、講堂の静けさに響き、なぜかわからないが、俺の心をとらえた。

 黒板を見つめていたその時、一瞬「選択」の字が、揺らいだ様に見えた。瞬きをし、もう一度目を凝らしてみたが、何もおかしいところはなかった。幻覚だろう。きっと朝飯を抜いてきたせいだ。ちょうどその時腹の虫が鳴いた。

 講義が終わり、友人の春川が声をかけてきた。

「…お前、また朝飯抜いただろ」

 どうやら、友人にも聞こえていたらしい。春川は笑って席を立つ。彼は経済学部で、内定も決まっている。地元の信用金庫。

 堅実すぎてお前らしくないな、と言ったら、

「俺って元々そういう感じだろ?」と返されて、なぜか言い返せなかった。

「飯、行くか」

「おう」

 駅前のいつもの定食屋へ。味はそこそこだが安くて量が多い、何と言ってもこれが学生にはありがたい。

 春川と他愛もない話をしながら、いつもの唐揚げ定食を頼む。

講義中のチョークの音と「選択」という字の揺らぎが、頭の片隅に残っていたが、それについて考える気にはなれなかった。

 こんな日は、しっかり飯を食って、バイトに行くだけだ。

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