第17章:「本当に痛む会話」
木曜日。
週末が静かに近づいている。
それは、ホルモンに支配された少女たちに追い回されている明海(あけみ)にとって、非常に珍しいことだった。
女子との些細なやりとりが三日ほどしかない──それは、彼にとってはもう日常だった。
この木曜日は、何の事件も起きなかった。
それだけで、すでに十分奇妙だった。
女子が廊下で抱きついてくることもなく、
ロッカーに香水の匂いがする手紙が入っていることもなく、
怒った男子に遠回しな脅しをされることもなかった。
ただ、授業と、ぬるい空気と、天井のファンの音だけがあった。
明海は、窓の外をぼんやりと見ていた。
教師が微分方程式について話していたが、彼の心はそこにはなかった。
「金曜日、もう少しで殴られかけた。
美羽(みう)は俺の上で服を脱ごうとしたし、
梨花(りか)は温室で俺を追い詰めた。
そして有紗(ありさ)は──まるで、ゲームの結末をすでに知っているみたいに、俺を見てくる。
でも彼女は……夢(ゆめ)は、違った。」
明海はため息をつき、ノートを見下ろした。
そこには、たった一言だけが書かれていた。
「夢」
―――
休み時間。
友人たちが週末の予定について話している中、
明海は何も言わずに立ち上がった。
「どこ行くんだよ?」と陽翔(はると)が聞いた。
「誰かに会いに。」
「誰かって、またクラブの女の子か?」
「いや。唯一、そこにいない子。」
海翔(かいと)はニヤリと笑いながら頷いた。
「追放された子か? もう遊ぶ気がないってフリしてる子だろ?」
明海は肩をすくめた。
「よく分からない。ただ……
演技してない人と話したいだけだ。」
―――
温室エリア。
昼の太陽がコンクリートを照らしていた。
園芸部の植木鉢が、赤と白の花で通路を彩っている。
その奥、木陰のベンチに、夢が座っていた。
いつもの制服姿で、セーターは腰に巻かれていた。
肩にかかる髪はゆるやかに揺れ、耳にはイヤホン。
流れていたのは、ジャズの音楽だった。
数メートル手前で、明海は立ち止まった。
彼女は彼に気づいた。
「……え? 私のこと、探しに来たの?」
「うん。」
夢はイヤホンを片方外し、好奇心と諦めが混じった表情で彼を見た。
「どうしたの? ついに気づいたの?
ここはサーカスで、私は仮面をかぶっていない唯一のピエロってこと。」
「……まあ、そんなところだな。」
明海は彼女の隣に腰を下ろした。
少しだけ、距離をあけて。
夢はしばらく何も言わず、ちらりと彼を横目で見た。
「もう私とは話さないと思ってた。
あの温室の件の後……混乱してたよね。」
「してた。今もまだ。
でも君だけが……俺を賞品や挑戦みたいに扱わなかった。」
夢は首をかしげた。
「だって、あなたはそうじゃないから。
少なくとも、私にとっては。」
明海は彼女をじっと見つめた。
「君もあのクラブの一員だったんだよね?」
「うん。」
夢は小さくため息をついた。
「一年前ね。
興味本位で入って、それから“選ばれる側”のスリルにハマって、
でもいつの間にか、自分が“嘘”になっていくのに気づいて……
好きになった相手が、私そのものを見てたのか、ただゲームをしてたのか分からなくなった。」
「それでやめたのか?」
「それもあるし……有紗もね。」
夢の眉が少しだけ曇った。
「彼女が仕切り始めると、全部が病的な競争になる。」
明海は前を見つめたまま、ぽつりと聞いた。
「今は、何してるの?」
「何も。観察して、勉強して、
たまに植物に土をかけて、化学の単位をどうにか取って、
そして……
あなたが嵐の中心に立ってるのを、黙って見てる。」
沈黙。
空を鳥が数羽、横切った。
一輪の花が、風に吹かれて鉢から落ちた。
明海は目を伏せた。
「なんでこんなことになったんだろう。
ただの地味な男だったはずなのに。
今じゃ、女子が俺の膝に座ってきて、男子が体育で俺を埋めたがってる。」
夢はくすりと笑った。
「で、あなたは……何が欲しいの?」
「……わからない。」
彼女は真剣な目で、少し声を落として言った。
「“わからない”って言わないで。
誰だって、何かを欲しがってる。
あなたは、本当は何を望んでるの?」
明海は黙り込んだ。
そして、かすかに呟いた。
「……本当に、俺を好きになってくれる人が欲しい。」
夢は瞬きをした。
意外だったらしい。
「その中の誰かが……そうしてくれると思う?」
「思わない。だから、君のところに来た。」
彼女は視線をそらし、唇を噛んだ。
「私がそばにいたら……有紗に潰される。
でも、離れたら……あなたはまた一人になる。」
明海は、かすかに笑った。
「もともと、一人だったよ。」
夢は視線を落とし、拳をぎゅっと握りしめた。
「それに慣れないで。」
明海は彼女を見た。
優しく言った。
「また……会いに来てもいい?」
「見張られても?」
「うん。君といると、閉じ込められてる感じがしないから。」
夢は小さく──恥ずかしそうに──うなずいた。
「じゃあ……いいよ。
花の話でも、何も話さなくても。
来て。」
そうして、しばらくの間、言葉はなかった。
ただ、一緒にいた。
そして、久しぶりに──
明海は「逃げなきゃ」と思わなかった。
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