ガラスの檻のなかで。。
ねこピー
第1話
「その薬を打ったら、もう人間の感情は消えるんだ」
医師の佐伯は、冷たい目で言い切った。
「怒りも、悲しみも、もちろん愛も」
ガラス越しに見つめるのは、被検体番号00482。
私の恋人、玲奈だ。
二年前、世界は「感情制御法」を施行した。
感情を抑えることで、争いも犯罪も激減し、社会は静かに平穏になった。
だが、その代償は大きかった。笑い声も、涙も、愛の告白も姿を消した。
「……やめろ、玲奈にそんな薬、打つな!」
「彼女はもう決めたんだよ。あとは感情除去剤を投与するだけだ」
玲奈は、無表情でただ座っていた。
けれど、その瞳の奥には、かすかな揺らぎが見えた。
「高城……わたしは……」
「玲奈!」
「わたしは、感情を捨てて、国家公務員になるの」
「そんなの、間違ってる!」
「元気とユーモアのない社会に、明るい未来はやって来ないって……あなたはそう言ってたよね。でも、それは幻想だよ」
玲奈は、乾いた声で呟いた。
「もう、この世界に“愛”は許されないんだよ」
⸻
私たちの出会いは、法改正の前だった。
同じ大学で、同じ演劇部。
玲奈は天才的なコメディエンヌで、私も舞台脚本を書いていた。
「こんなに笑ったの久しぶり!」
玲奈がよく言っていた。
だが、感情制御法ができてから、喜劇も廃れ、舞台もなくなった。
次第に、玲奈の笑顔も消えた。
「このままだと、わたし、生きていけない……」
そう言って、彼女は国家プログラムに志願した。
感情を切り離せば、もっと楽に生きられるからと。
「でも、それって……生きてるって言えるのか?」
私は、何度も説得した。
けれど玲奈は、少しだけ微笑んで、言った。
「愛してるよ、高城。でも……愛なんて、いまの時代、ただのノイズなんだよ」
⸻
ガラスの檻の中で、玲奈は静かに座っている。
私は、最後の手紙をポケットから出した。
『笑ってくれ。泣いてくれ。怒ってくれ。
元気とユーモアのない社会に、明るい未来はやって来ない。
俺は、君と一緒にバカみたいに笑っていたいんだ。
高城 蓮』
震える手で、玲奈はその手紙を受け取った。
無表情のまま、ゆっくりと封を開ける。
すると、彼女の目から、ぽろりと一滴の涙がこぼれた。
「……わたし……笑いたい」
その瞬間、彼女の心拍数が急激に上昇した。
モニターが警告音を鳴らす。
「除去剤投与中止!感情復帰反応が出ています!」
医師たちが慌てて叫ぶが、私は構わずガラスに手を当てた。
「玲奈!」
「……高城……」
玲奈は、泣きながら笑った。
「やっぱり、あなたのバカみたいな言葉が好き」
「俺も……俺もだ」
⸻
二人は檻を壊し、禁断の愛を選んだ。
国家プログラムからは逃亡者扱いされたけれど、それでも構わなかった。
「ねえ、高城」
「なんだ?」
「わたしたち、きっとこのまま滅びるかもね」
「いいよ、それでも」
「……うん。
だって、元気とユーモアのない社会に、明るい未来はやって来ないもんね」
彼女は泣きながら、笑った。
私も、泣きながら、笑った。
二人でバカみたいに。
世界はまだ、こんなにも美しかった。
ガラスの檻のなかで。。 ねこピー @neco-pi
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