禍憑きの家

ビビりちゃん

第1話 日常のひび割れ

午前二時。スマートフォンの画面が、ぼんやりと天井を照らしていた。SNSのタイムラインを無意味にスクロールする指が止まる。ふと目に入ったのは、知り合いのアカウントが拡散していた、地元に関する怪談まとめサイトのリンクだった。


「――〇〇町に、入ってはいけない家があるらしい」


その一文が、妙に引っかかった。〇〇町。僕が生まれ育った、この静かで平凡な住宅街のことだ。特に心霊スポットと噂されるような場所はなかったはずなのに。好奇心に抗えず、リンクをタップした。


まとめサイトのトップページには、禍々しい赤黒い文字で『闇に葬られた町の記録』と書かれていた。スクロールすると、いくつかの怪談が写真付きで紹介されている。その中に、見覚えのある風景があった。


僕の家から、徒歩十分ほどの距離にある古い洋館。通称「赤煉瓦の家」。


子供の頃から、あそこには誰も住んでいないと聞いていた。鬱蒼と茂る庭木に囲まれ、いつもひっそりとしていて、夕暮れ時には窓ガラスが不気味に光って見えた。僕たちは勝手に「幽霊屋敷」と呼んで、肝試しに使う度胸もなかった。ただの古い空き家。それ以上でも以下でもない。そう思っていた。


サイトの記述は、僕の認識をあっさりと覆した。


『あの洋館では、半世紀ほど前、一家惨殺事件が起きたと言われている。犯人は捕まらず、未解決事件のまま迷宮入り。以来、あの家に入った者は、全員が奇妙な死を遂げているという。』


一家惨殺。未解決。奇妙な死。

そんな物騒な話、聞いたことがない。もし本当なら、地元の人間なら誰でも知っているはずだ。作り話だろうと、半信半疑で読み進める。


『特に、ある特定の品物に触れた者は、その日のうちから奇妙な「痣」が現れ始め、やがて全身を覆い尽くし、最期には発狂して自ら命を絶つか、あるいは……』


写真が添えられていた。モノクロで、ブレた画像だったが、確かに赤煉瓦の家の前に立つ、不気味な形の人影が写っている。そして、その人影の腕には、ぞっとするような「痣」が浮かび上がっているように見えた。まるで、血管が黒く浮き出たような、おぞましい模様。


「まさか……」


僕は思わず声を漏らした。数日前から、僕の左手首に、覚えのない薄い痣が浮かび上がっているのだ。最初は、どこかにぶつけたのだろうと気にしなかった。薄い青色で、ごく小さなものだったから。だが、昨日から少しだけ色が濃くなり、わずかに痒みを感じるようになっていた。


サイトの記事は、さらに不気味な言葉で締めくくられていた。


『その「痣」は、呪いの印である。触れたが最後、逃れる術はない。』


心臓がドクン、と大きく跳ねた。冗談じゃない。僕が「赤煉瓦の家」に最後に近づいたのは、一週間ほど前だ。散歩の途中、道端に落ちていた子供のサッカーボールを、誤ってあの家の庭に入れてしまった。仕方なく、少しだけ敷地内に足を踏み入れ、ボールを拾ったのだ。その際、門のそばに古びた石像が置いてあり、そこにわずかに触れてしまった気がする。


いや、気のせいだ。そんな簡単に呪われるなんて、馬鹿げている。これは単なる偶然だ。痣だって、ただの打ち身だ。


そう自分に言い聞かせたが、一度芽生えた不安は、じわじわと心の奥底に広がる。寝返りを打つたび、左手首の痣が気になった。痒みが増しているような気がする。気のせい? それとも――


その夜、夢を見た。


暗闇の中、僕は見覚えのある赤煉瓦の家の前に立っていた。家の中から、すすり泣くような声が聞こえる。引き寄せられるように扉を開けると、そこは無限に続く廊下だった。壁には、血のように赤黒い模様がびっしりと描かれていて、それがゆっくりと蠢いている。


「おいで……」


背後から、囁き声が聞こえた。振り向くと、そこにいたのは、顔全体が黒い痣で覆われた女だった。その目が、僕をじっと見つめている。僕は恐怖で声も出せず、ただ立ち尽くすしかなかった。女は、ゆっくりと右手を上げ、僕の左手首を指差した。


その瞬間、激しい痛みが左手首を襲った。熱い液体が流れるような感覚に、僕は飛び起きた。


息が荒い。心臓がうるさく鳴っている。汗が全身から噴き出し、パジャマが肌に張り付いていた。悪夢だ。ただの悪夢。


だが、左手首を確認して、僕は凍りついた。


薄い青色だった痣が、明らかに濃くなっている。そして、血管が浮き出るように、黒い線が数本、不気味に伸びていた。夢で見た、あの女の痣に、そっくりだった。


「嘘だろ……」


僕は小さく呟いた。完全に気のせいだと思っていた日常のひび割れが、今、確かな形を持って僕の前に現れた。僕の日常は、あの「赤煉瓦の家」によって、確実に侵食され始めていた。


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