夜道を歩く靴
靴を捕まえてほしい、との依頼を受けた。
××市にある遊歩道では、深夜になると靴だけが歩いているらしい。
その靴を捕まえると幸せになれるのだそうだ。それなりに足が速いため、中々捕まえられないらしい。
今回の依頼人は、例の、池袋で占い師をやっているおばさんだった。マカロン磯山さんというのだが、当然偽名である。所属している占い館で活動する際につけた名前だそうだ。マカロンは、亡くなった愛犬の名前なんだとか。
『貴方、もう少し幸せってものについて考えてみた方がいいわね』
死ぬために生きるなんて馬鹿らしい、とマカ山さんは言った。この世には憎たらしい存在が無数に存在しているのだから、そんな奴らよりも先に死んでやるなんてまっぴらごめんよ、と言っていた。
登美さんを川に突き落とした奴らは、何事もなく生きているそうだ。何処にいるのかを尋ねたが、彼女が答えてくれることはなかった。
人を害するような人間に思考を割くなんて時間の損失でしかないのだから、自分自身がもっと幸せになることが何よりの復讐だろう、というのがマカ山さんの主張だった。
もちろん、俺は反論した。
それは、幸せになる力を持つ人間の考える復讐方法である。加害者よりも能力があり、正常な判断が可能で、なおかつそのように生きられる環境が揃っている人間が取る復讐という名の昇華である。
そもそも。仮に自分が幸せになれたとしても、大切なものを害してきたような相手には、それ以上に不幸になってほしいに決まっている。
何もしていなかった登美さんから命まで奪っておいて、当の本人たちは何も奪われないでいるなんて、おかしな話だ。理屈が通らない。
何より。登美さんを助けることも出来なかった俺が、俺だけが幸せになるなんて許しがたい。下手したら、殺人を犯すよりも罪深いことのように思える。
マカ山さんは俺の話を聞いた後、頬杖をつきながら淡々と、やや呆れたように口にした。
『幸せって別に褒美のために与えられるものじゃないのよ。不幸が罰のために与えられるものではないのと同じでね』
とにかく。俺は深夜にてこてこと呑気な音を立てて走る靴を捕まえようとしている。
革靴だった。学生用のローファーが、跳ねるように道を進んでいる。聞いた通り、足が速い。足音はどこまでも呑気なくせに。
必死になって追ったものの、途中で息が切れて追いつけないまま終わった。
聞いた話によると、あくまでも靴を捕まえた人間が幸せになるのであって、譲渡には価値はないらしい。だから、マカ山さんの依頼は彼女にとっては何の意味もないものだった。そして、本来ならば俺にも意味はない。
だが。
マカ山さんは、靴を捕まえられたら、あいつらの居場所を占ってあげる、と言った。
それが俺に『幸せ』を掴ませるための方便だったとしても、間違いなく、約束をした。
マカロン磯山は本物の占い師である。彼女の元には、ごく一般的な相談の他に、『行方不明者の捜索』という依頼が入る。界隈では有名な話で、マカ山さんには間違いなく、居場所の不明な人間を探し当てる能力があった。
だから俺は、夜道で必死に靴を追いかけている。
何も考えずに走っていると、全てがどうでも良くなる瞬間がある。身体的に追い込まれると思考が単純化して、その時の動きにしか集中出来なくなる。
何処ぞへと消えた靴を見失い、道に座り込んで息を整える間、俺は確かに呼吸をすることしか考えていなかった。
運動には思考を前向きにする効果があるらしい。ストレスを軽減するホルモンが出るのだそうだ。マカ山さんがこの依頼を持ってきたのも、そういう効果を狙ってのことなのかもしれない。
まあ、結局、落ち着いた後には思考の全てが降り掛かってくるだけだったが。
俺は日を跨いで何度か挑戦し、最終的に七度目に靴を捕まえた。
ひっ捕まえた靴は釣り上げられた魚のようにバタついたのち、丸切り命を失ったかのように動かなくなった。
深夜の遊歩道で、革靴を抱えたまま息を整える。不審者以外の何者でもなかったが、幸いにもその場には他に誰もいなかった。
幸せを捕まえられるのだから、もっといてもおかしくはないような気がするが。要するに、これを『幸せ』と呼んだのはそうすることで捕まえさせようという触れ込みであって、本当はそうではないのかもしれない。
ともかく、目的を果たした俺は、くたびれた靴を持って池袋の占い館を訪ねた。
「本当に持って来たの?」
マカ山さんはちょっと面倒くさそうな顔をして、幸せの死骸を受け取った。少しの間の後に部屋の隅に転がされたそれは、どう見ても擦り切れた傷だらけの古い靴でしかない。
明かりを薄く落とした室内で、マカ山さんは頬杖をついたまま靴の死体をしばらく見つめて、そう、とだけ言った。
それから、心底うんざりした顔をして、俺に三人の男の名前を教えてくれた。
【虚験】 寝舟はやせ @nhn_hys
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