第13話 すいりょく〜Jade

南西に向かって本格的に歩みを進める前に、この山を登りきったところにあると聞いた、おばあ、と呼ばれていためくらの老婆の住まいに立ち寄る事を決めていた。


カサカサカサカサと、乾いた落ち葉が互いに擦れ合う音がする。


それは以前、つまり青の鬼として目覚める前とは大幅に異なった周波数をもってわたしの鼓膜をくすぐるように刺激する。


しかし、いい加減わたしの耳も慣れてきたのであろう。

そういうものにいちいち戸惑う事は少なくなっていた。


それよりも、その音に合わせ、目の前で踊るようにぴょんぴょんと跳ねる、三つ編みで後ろひとつに束ねられた黒髪の動きに引き寄せられ、不思議な心持ちでそれを眺める。


わざと音が鳴るように、大股で地面を蹴り上げ、赤や黄色の葉をそこいら中にまき散らしながら嬉しそう歩く仕草、クスクスという笑い声とともに左右に振れる小さな背中は、わたしの ……今は優臣として生きる、わたしの良く知るシン・ハユンの姿、そのものだからだ。


ややもすると、火事の起きた夜から今日までの青く爛れた日々こそが夢の中の出来事だったのではないか、と見紛う程だ。


狐がわたしに魅せる、と言っていた、束の間の夢。

いつかは覚めて消えてなくなる泡沫うたかたのようなとき。

ふと、わずか数日間であっても、こうしてそれにい続ける事に、少しの戸惑いと、幾ばくかの怖さを覚える。


しかし、それを撥ね除ける事はできなかった。

心の奥底で、絶望的なほどの孤独を抱える「優臣」には。


ハユンという名の少女の残像に……。

この世界への危うい誘いに抗えなかった「わたし」と同じように。


◇◇◇


勾配のきつい最後の坂を上りきると、四方に生えた針葉樹が深黄緑色の要塞のように周りを囲う、影った小屋がすぐに目に入った。


何年も葺き替えを怠った茅の屋根は、腐食によるへこみを翠々とした苔がびっしりと浸食している。


周りを覆う土壁も所々剥がれ落ち、むきだしの竹小舞が露出している様が、まるで肉が朽ちて骨の覗く死体のようで、少々気味が悪い。


大体、立地からして、年を数えれば百を超えていてもおかしくない風貌の、視力を失った老人が住む場所とはとても思えなかった。


シャーマンとしてヒトに紛れて生きるあの老婆は、わたしと同じ種族の中でも何か特別な力を備えているのだろうという事は想像するに難しくない。


「ごめんください」


至る所から隙間風の入りそうな立て付けの悪い戸を叩き、その度にそこに耳を押し付けて返事を待つが、うんともすんとも返ってこない。


何度かそれを繰り返し、ついにあきらめて背を向けたところで、狐が首を傾げながらわたしに向かって尋ねた。


「お留守みたいだけど…ねえ、どうしても会わなきゃならないの?その人に」


その口調もポーズも、ぎょっとするほどにハユンを思わせる。


「あ、ああ。ひとつだけ、確かめたかったことが……」


あの老婆は、過去……ひょっとすると未来でさえも、すべて見切っているのかもしれない。


しかし、それを知ってしまえば、生きていく理由というものを失ってしまう気がした。


だから、尋ねるのはひとつだけだ。


何がどうであれ……。

その道が多少歪んでいたとしても、わたしは前へ進む事を決めたのだから。





「誰もいないみたい。 ここで少し待とうか?」


「……いいや、いい。もう行こう」


そう言って狐の肩に手を置いた、その時だった。


『ま……て……』


微かな……本当に微かな、掠れた声が耳に届いた。


『入れ。ただし、おまいさん独りでな』


空耳ではないだろう。

確かにこの戸の向こうから、わたしを呼ぶ声がする。


「どうしたの?優臣」


「悪い。しばらくここで待ってて」


その言葉に、狐は聞き分けよく小さく頷いた。



中から鍵のかかった扉を蹴破るとすぐ、一段高いところにある部屋の中央に敷かれた厚みの少ない布団に横たわる、年老いた女の姿があった。

微かに右の指を動かし、わたしを手招く。


……何という事だろう。


老婆に、ひと月前出会った時の面影はまるで無かった。


色を失った顔は天井を向いたまま、ひとりではからだの向きを変える事すら難しいほどに衰弱している。


わたしはあわてて枕元に駆け寄った。


「一体どうしたんだ……大丈夫ですか?」


『風邪を拗らせてな。 あっという間にこのザマだ。肺がとうとう駄目になってしもうた。

アタシにもようやく迎えが来たようだ』


その声は、今のわたしでさえ聞き逃してしまいそうにか細い。

長すぎた一生がようやく終わるよと、もう声とは呼べないくらいの小さな声で囁く。


『ユジン。間に合ったようだな……』


(ユジンだって?)


「あ、いいや、俺は」


皺皺でカサカサの指が、わたしの頬に触れ、そこを力なく撫でる。


『イ・ユジン。

それが……アタシがおまえに付けた名だ。

孫息子、イ・ソンジュの血を引くもの』


涙の雫がゆっくりと、あるはずのない眼窩がんかの奥から滲み出すように、深い皺の谷を目尻へと伝った。


『この事だろう?知りたかったのは』


それは、数々の矛盾と疑問符を孕み、わたしの知る事だけでは到底辿ることのできない真実だ、けれど。


『ソンジュもアタシも、お前を待っていた。

お前がいつか王として目覚め、アタシらの抉られた瞳を取り返してくれる事を』


告げられる真実が、不思議なくらいに腹にすとん、と落ちる。


青い鬼としての自分の姿と向き合ってから、胸の奥底でくすぶり続けていた得体の知れない何かの正体が、ようやく明かされたような気がした。


しかし、名前すら知らず、ほとんど言葉を交わした事もない死にかけた老人が、自分の曾祖母だったという事実には、不思議なほど心が動かない。


それよりも、この身に背負わされた途方もない真実のほうが、遥かに重くのしかかっていた。


もしかすると、最後の同族を失うかもしれないというのに、実感がまるで湧かないのだ。


だから、わたしは目の前で少しずつ弱っていく老人を見つめながら、頭の中で、イ・ソンジュについての記憶を辿らせていた。


どこを見ているのかよくわからない、不思議な煌めきをたたえた瞳。

向こう側まで透けて見えそうなくらいに明るい、吸い込まれるような鳶色の瞳……。


それがわたしに刷り込まれた、どんな顔をしていたかさえ曖昧にしか思い出せないあの男についての記憶だった。


あれも、恐らくまがい物の瞳。

青の種族が背負う、悲しい運命が、血液のようにからだを巡る。


わたしをあの土地に呼び寄せた張本人、イ・ソンジュ。

彼もまた数少ない青の種族の末裔であり、彼こそがわたしの父親だったのだ。


そして、時折夢に見る、あの瞳のような色をした古びた映像の中で、常に途切れてしまっていた言葉の続きをその時ようやく思い出した。


ーーだって君は……。


その後はこうだ。


ーー侵略者達からあの地を取り戻すための、最後の砦なのだから。






日が暮れるのを待たずに、老婆はわたしの目の前で眠るように穏やかに息を引き取った。


「天国に召されますように」


狐は、老人の亡骸を埋めたばかりのふかふかの土壌の上に、ちょっと地味だけど我慢してよね、などという独り言を口にしながら、自分で編んだ蔦の草冠を乗せると、そっと手を合わせる。


そして、隣に居るわたしを見て、静かに言った。


「優臣……。今、とっても悲しいのね」


「ああ、よくわかるな」


「あんたの目……凄く奇麗だもの。まるで青い宝石みたい」


「そうだ、面白いこと聞いた。

これ、観賞用としてとても高い値が付くそうだよ。

昔は、盗賊に襲われ両眼を抉られた青鬼の屍体が、あの桜の木に吊るされてるのを見かける事が時々あったんだって。

俺が死んだら、これでひと財産作るといいよ」


わたしはわざと自虐的な笑みを頬に貼付ける。


ソンジュの母親もまた、彼が生まれて間もなく、同じようにして逝ったそうだ。

そんな事を聞いてしまえば、せめて顔だけでも笑っていないととてもやりきれない。


「やだ……やめてよ、優臣、そんな怖い話は」


"ハユン" は眉間に皺を寄せ、顔を顰めて嫌がった。


それを見れば少しは心が和むのだから、おかしなものだ。






「俺はあんたたちの期待には答えられそうにない。

あの土地を捨て、すべて忘れてやり直す事に決めたんだ」


『そうか……それはいい。

それなら……アタシもやっと、重い荷物を下ろせる』


そう蚊の鳴くような声で呟いたのが、彼女の最期の言葉となった。


ーーあの桜の木は、百年に一度、冬に花をつける周期がやってくる。


それを知っていたシャーマンは、生まれたばかりの自分の曾孫に、それと同時に覚醒するよう暗示をかけた。


デソンがあれ程怯えていた天変地異は、わたしが起こすはずだったのだ。



【つづく】

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