ニューヨークマフィア創世記~チーズ泥棒の夜明け~

藤山アサヒ

プロローグ


──1901年、イタリア南部のシチリア島。

新世紀を迎えたばかりの海辺の小さな村で、人々は代々同じように、海とともに暮らしていた。

その村の片隅に、小さな家族が静かに日々を紡いでいる。


ある日の夕暮れ時、柔らかなオレンジ色の光が窓から差し込み、

小さな家の中を優しく包んでいた。


マンチーニ家の母のエレナは、粗末なテーブルにわずかなパンと煮込み料理を並べ、

子どもたちは疲れた様子で席につく。

十二歳の少年、ルカも弟妹とともに、静かに食事を始めた。


「今日も魚はあまりとれなかったんだ」

父マルコがぽつりと呟く。

「明日は、いっぱい食べさせてやるからな」


エレナは微笑みながら、そっとマルコの手を握る。

「みんなで一緒にいられるだけで幸せよ」


家族の間には、言葉にしなくても伝わる温かさが流れていた。

夜の空気はどこかひんやりとして、遠い波の音が微かに聞こえていた。


――夜明け前の海辺。

まだ空が薄明るくなり始めたばかりの時間、マルコは古びた漁船の舳先に立っていた。

冷たい海風が顔を撫で、波の音が耳に響く。


「今日は何としても魚を獲らなければ」

彼の目は強い決意に燃えていた。


船は沖へ進み、マルコは網を投げ入れる。

だが、手応えは鈍く、網を引いても魚はほとんど入っていない。

それでも諦めるわけにはいかなかった。


「もう一度……」


だがそのとき、風が急に冷たくなり、海が低いうねりをあげ始めた。

雲が空を覆い、太陽の輪郭が消える。波が高くなり、船体が軋む。


マルコが網を手繰ろうとした瞬間、突如として海が吠えた。

大きな波が、容赦なく船の横腹を叩く。


「っ……!」


マルコは網とロープを掴んだまま、バランスを崩した。

足元が滑り、視界が一気に傾く。体が船から放り出され、冷たい海に呑まれた。


荒れ狂う水面に、叫びも手も届かない。

誰もいない海原で、小さな漁船がゆっくりと翻弄されていった。

波がすべてを飲み込んでいった。


―――それから数日、港に立つルカの肩を冷たい風がなでていく。

父の船は、いまだ戻らなかった。


ルカは今日も、港の端に立ち尽くしていた。

潮の匂いが濃く、空は晴れているのに、どこか沈んで見えた。


「父さんは……帰ってくるよな?」

ルカは小さな声で言ったが、応える声はどこにもなかった。


それからというもの、ルカは毎日のように港の近くまで歩いていた。

変わらないはずの浜辺に、その日――見覚えのある影が転がっていた。


近づいてみると、それは――

父マルコがいつもかぶっていた、あの帽子だった。

潮に濡れて、砂にまみれ、色も形も崩れていたが、ルカにはすぐにわかった。


手に取った帽子の内側に、かすれかけた刺繍が残っていた。

《L.M.》――ルカ・マンチーニ。


父がある日、ふと笑って言っていたのを思い出す。

「お前が生まれた時に入れたんだ。記念の帽子だな」


その声には、あたたかさが込められていた。


今、その帽子は冷たく濡れて、海から静かに返されたように、波打ち際に横たわっていた。

ルカはそれを胸に抱きしめ、目を閉じた。


その夜。

ルカが水を汲みに裏口へ出ると、かすかにすすり泣く声が台所から漏れてきた。

母のエレナだった。

いつも穏やかに笑っていた母が、誰もいない場所で、声を押し殺して泣いていた。


ルカは扉の前で立ち尽くした。

引き返すことも、声をかけることもできなかった。


夜の静けさを引きずるように、朝が始まった。

港には風の音しかなかった。

ルカは、海を真正面から見つめていた。


父の姿はどこにもなかった。そして、はっきりとわかった。


「もう、帰ってこないんだな」


しばらく海を見つめたあと、彼は拳を握った。

胸の奥に、静かに、しかし確かに灯るものがあった。


「……父さん、後のことは任せてくれ」


ルカの顔に悲しみに満ちた顔は消えていた。

いなくなった父を待つ代わりに、ルカは決意とともに歩き出した。

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