第2話

 教室に入ると、周囲の生徒たちが談笑する声が耳に届いた。

 そのどれもが、蓮にとっては細心の注意を払うべき情報だった。

 人間特有の感情の機微、言葉の裏に隠された意味、そして何気ない仕草。すべてが「人間」として振る舞うためのヒントであり、同時にミスを犯せば即座に命取りとなる危険信号だ。


「おはよう!」


 元気に挨拶しながらクラスに入る心遥。その周りには、すぐに女子たちが集まる。


「心遥、おはよう! ねえ、昨日のテレビ見た? 香奈さんが出てるやつ」


「香奈さんて、三年生のマドンナの? テレビは見てないな。勉強してた」


「心遥ってホント真面目だよね〜」


 ハハッと笑う女子たちの中に、心遥は軽やかに混ざっていく。


 蓮は席に着くと、再び鞄の中の手紙に意識を向けた。

 この学園で、心遥以外に手紙を出し合うような人間関係を築いた覚えはない。

 もしや、人外の世界から誰かが送り込んだ刺客か、あるいは……

 最も恐れる事態――正体がバレた可能性を捨てきれない。


 本当にただのラブレターならいいのだが、これまで女性とまともに会話した記憶すら蓮にはなかった。

 心遥を女性とするなら別だが、彼女はどちらかと言えば男友達のようである。



「蓮、顔が険しいぞ。もしかして本当に恋文で、相手が恐ろしいとか?」


 いつの間にか隣にいた心遥が、からかうように覗き込んできた。

 彼女の涼やかな瞳は、蓮のわずかな心の揺れすら見逃さない。

 蓮は慌てて表情を繕った。


「まさか。ただ、差出人に心当たりがないだけだ」


「ふうん。ま、放課後になれば分かるだろ」


 あっさりと言い放つ心遥に、蓮は拍子抜けした。

 彼女は本当に何も感じないのか。

 それとも、俺に探りを入れているのか。

 どちらにせよ、彼女の存在が蓮にとって厄介なことに変わりはなかった。


 キーンコーンカーンコーンと、鐘が鳴り、心遥は真面目に席に座り直すと、前を見る。

 教室に教師が入って来ると、心遥の意識はそちらに持っていかれた様子だ。

 蓮め文の事は一旦忘れ、真剣に朝のホームルームを聞くことにした。

 



 午前中の授業は、蓮にとって退屈なものだった。

 体育では、人外としての身体能力を隠すため、意図的に力をセーブしなければならない。

 国語では、人間の文化や感情を理解しているふりをして相槌を打つ。

 その全てが演技であり、その演技が完璧であればあるほど、彼は人間世界での「勝ち組」に近づくのだ。



 やがて、待ちに待った昼休み。

 生徒たちが一斉に学食へと押し寄せる中、蓮は心遥と共にカレーの列に並んだ。

 食欲旺盛な心遥は、早くも期待に胸を膨らませている。


「やっとカレーが食えるな。途中からカレーの匂いで腹が鳴って大変だった」


 無邪気に笑う心遥の横顔を見つめながら、蓮は胸の奥で複雑な感情が渦巻くのを感じていた。

 吸血鬼である自分は、本当の食事を人間と同じように楽しむことはできない。

 空気中に漂う人間の精気を嗜む程度で我慢しているが、時折、無性に血が吸いたくなる時もある。

 吸血鬼用輸血パックを手配して食しているが、吸血鬼の本能的には、やはり生身の生きた人間の柔らかい肉に牙を突き立てて、直接飲みたくなるものだ。

 それをグッと我慢している。

 蓮はカレーを食べ、何事もないように振る舞わなければいけなかった。

 特に美味しいとも不味いとも感じないのに、心遥に合わせて「美味しい美味しい」と言って食べなければならないのは、蓮にとってストレス以外の何ものでもないのだ。



 食事が終わり、午後の授業が始まると、蓮の意識は、既に放課後の美術室へと向いていた。

 手紙の差出人は誰なのか。そして、その手紙が何を意味するのか。






 放課後、蓮は重い足取りで美術室へ向かった。

 胸中では、手紙の差出人への警戒と、正体がバレる恐怖が渦巻いている。


 その道のり、彼の背後には密かに尾行する人影があった。

 小守心遥だ。蓮の様子が朝からどこかおかしい。

 普段はクールを装っているが、今日の彼は明らかに動揺していた。

 そんな蓮を見て、心遥の胸には理由の分からないざわつきがあった。

 まるで、大切なものが失われてしまうかのような漠然とした不安。

 それを確かめるかのように、彼女は蓮の後をつけていた。



 美術室の扉は、わずかに開いていた。

 蓮はゆっくりと扉を押し開ける。薄暗い室内に、窓から差し込む夕日が絵の具の匂いと混じり合い、神秘的な光景を作り出していた。その中で、一人の少女が立っていた。


「宵闇くん……」


 透き通るような声。そこにいたのは、新星学園のマドンナと名高い三年生の小川香奈(おがわ かな)先輩だった。

 彼女は雑誌モデルをしており、男子はおろか女子からも大人気の憧れの的だ。

 その美貌と優雅さで常に注目を集めている。  

 蓮は、この先輩に面識こそあれど、個人的な会話を交わしたことはないはずだと首を傾げた。


 香奈は蓮を見つめ、少し頬を染める。


「あの……実は、ずっと宵闇くんのこと、見ていました。その……一目惚れ、なんです。もしよかったら、私と付き合ってくれませんか?」


 予想だにしない展開に、蓮の思考は停止した。


 告白? しかも学園どころか日本中のマドンナから?


 蓮は力をセーブしていたため気づいていなかったが、一般的に見ればスポーツ万能であり、頭脳明晰。そして吸血鬼族特有の美形だった。

 蓮の人間に紛れるための演技は完璧だが、図らずも周囲の注目を集めてしまう。


 だが、「付き合う」とは、一体どうすればいいのか。


 吸血鬼である蓮にとって、人間との「恋愛」は最終試験の範疇にはない、想定外の事態だった。

 相手は美人な女性であるし、血を吸う衝動を抑えられるだろうか。

 もしこの関係が深まれば、いつか本性が露呈するかもしれない。

 それは即ち、失格と強制送還を意味する。

 しかし、人間として「断る」理由が見つからなかった。

 相手は人気者の憧れの的である。普通なら、誰もが喜んで受け入れるだろう。


「……少し、考えさせてください」


 蓮は絞り出すようにそう答えた。

 告白を保留にするという、精一杯の「人間らしい」返答だった。

 先輩は少し寂しそうにしながらも、「はい……待っています」と頷いた。


 恥ずかしそうに走り去る先輩を見送り、蓮は頭をかいた。

 

 どうしたものか。




 美術室の扉の影から、その一部始終を見ていた心遥の胸が、ぎゅっと締め付けられた。

 なぜこんなにも苦しいのだろう?

 理由が分からないまま、心遥はその場をそっと離れた。

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