映画の感想って難しい

弥生紗和

映画「国宝」を観た感想を書いてみた

 映画の感想を書くのは苦手だ。

 それでも時々、自分の中からあふれ出る感情の行き場を探してしまうことがある。

 どこかに吐き出さなければ、自分の体の中にいつまでも残り続けて気持ちが悪い。

 なので、ここに書いてみることにした。連載方式にはしているけど、ひょっとしたらこれっきり書かないかもしれない。感想を書きたい、と思わせる映画ってそれほど多くない。だから更新も不定期ということにしてください。


 感想を書こうと思ったきっかけは映画「国宝」だ。映画を観てから約一週間、未だに国宝のことを考える時間が多く、ネットの感想などを読み漁っていた。


 映画「国宝」は原作吉田修一、監督李相日。原作は未読なのでこの感想はあくまで映画版のものだ。原作とは違う解釈があるかもしれないので、その辺りはご容赦ください。記憶を辿りながら書いているので、順番などあべこべになっているところがあったり、思い違いがあったりするかもしれません。あとこの感想は鑑賞済みの方向けです。ネタバレがありますので、見たくない方はこのまま戻ってくださいね。




 簡単なあらすじを書くと、任侠一家に生まれた「喜久雄(吉沢亮)」が歌舞伎役者の「花井半二郎(渡辺謙)」に才能を見いだされて歌舞伎の道へ進み、半二郎の息子「俊介(横浜流星)」と共に歌舞伎の世界を生きていく物語だ。


 喜久雄はいわゆる「外の人」で俊介は「歌舞伎界の御曹司」という正反対の二人だけど、一緒に学校に通い、毎日稽古に励む。この二人の関係がとにかくいいのだ。喜久雄から見ると俊介はいわゆるぼんぼんで、俊介から見ると喜久雄は突然父親が連れてきて、どうやら父親が気に入っているらしい才能あふれる子。どちらも多分、相手に思う所があったはずだ。だけど二人は毎日毎日、ひたすら稽古に励む中でお互いに認め合っているのが伝わる。喜久雄は歌舞伎の魅力に取りつかれ、どんなに厳しい稽古でも食らいついているし、俊介もそんな喜久雄にいい刺激を受けているように見えるのだ。


 喜久雄はやがて才能を開花させていくのだが、それができたのは間違いなく俊介が一緒にいたからだと思う。喜久雄と俊介は生まれも育ちも全く違い、本来なら出会うことのなかった二人だ。それでも二人はお互いに認め合っているのが分かる。二人が制服姿で、河原で稽古しているシーンはとても印象的だ。朝から晩まで歌舞伎の稽古に邁進している姿は胸を打つ。


 その関係が壊れるきっかけとなった出来事。父の半二郎が出られなくなった舞台の代役として指名されたのが、息子の俊介ではなく喜久雄だったこと。

 私はどうして半二郎は喜久雄を指名したのだろうと今でも思う。この映画は終始「血」と「才」のぶつかり合いを描いている。歌舞伎界のことは、私は正直言ってよく知らない。長い伝統は「血」で守られているということくらいは知っている。歌舞伎界の外から入って活躍されている役者もいるが、それは稀なケースのようだ。歌舞伎の家に生まれるということは、家の名を継いで歌舞伎界で生きていくことを宿命づけられる。そして彼らは、その宿命を受け入れて生きているように見える。


 半二郎がその宿命の意味を知らないはずがない。俊介の母が「俊ぼんがやるのが筋やろ!」と怒鳴るシーンがあるが、母の怒りは当然だと思う。俊介から舞台に上がる機会を奪うということは、俊介の人生を奪うことになるからだ。

 原作を読めばその辺りがよく分かるかもしれない。半二郎は喜久雄との出会いのシーンで、既に喜久雄に心を奪われているように見えた。自分の息子よりも「才」があると感じたのだろうか。それでも息子の人生を奪うかもしれない決断をした半二郎にとって、歌舞伎は「血」より「才」だったのだろうか?


 喜久雄の「才」は周囲の人々を狂わせている。喜久雄は「この世ならざる美しさ」を持つ男という設定のようだ。彼を演じたのが吉沢亮というのが素晴らしい。私は彼のことを、顔がいいだけではなく演技も上手く器用な俳優、という印象で見ていたが、国宝での彼の演技は想像以上だった。喜久雄を完全に理解して演じている吉沢亮の、凄みのようなものを感じた。


 喜久雄は顔だけでなく素晴らしい「才」もあり、ひたすら歌舞伎が上手くなることだけを願い続けた。その狂気ともいえるのめり込み方は、喜久雄の少年時代に女形の人間国宝である「小野川万菊(田中泯)」から言われた言葉が影響しているかもしれない。万菊は若き喜久雄に「綺麗なお顔だこと、でも芸をするには邪魔。その顔に自分が喰われちまいますからね」と話す。

 喜久雄は顔に自分が喰われないよう、芸を磨いていったのだろう。この世ならざる美しい顔を持っていても、それはあくまで喜久雄が持っている多くの顔の一つでしかない。ただ一つの顔にこだわっていては、様々な役を演じられない。万菊の言葉についての解釈は、他の方がネットで色々と書いているので、私の解釈は間違っているかもしれない。ただ偶然だろうけど、万菊の「顔に喰われる」という言葉が演じた吉沢さん自身にも何かリンクするのを感じた。彼は、顔に喰われることはないだろう。


 喜久雄は俊介の代わりに半二郎の代役となり、大役を務めることになるのだが、ここで視点が俊介に代わる。俊介を演じる横浜流星の演技もまた素晴らしかった。私の印象では、彼はどちらかというと野性味があるというか、尖ったものがある役を演じるのが似合う人というイメージだ。実際にインタビューを読むと、俊介は自分とは正反対だと横浜さんは語っている。俊介は愛されて育ったところからくる人の良さが見える。ちょっと甘えたところとか、怒ってもそれをぶつけ切れないところとか。


 俊介は大舞台に立つ喜久雄を客席から観ていた。その時、私は俊介の絶望が伝わり、それまでは喜久雄視点で感情移入していたのが、すっと俊介に感情が動いた。私は喜久雄の境遇に共感していたし、俊介は育ちのいいお坊ちゃんで、これからも苦労せずに舞台に立ち続ける人だという目で見ていた。喜久雄に役を取られた時、俊介は喜久雄に「何もかも盗っていくんか」と言うシーンがあった。その時は冗談ぽくごまかしたが、喜久雄に背を向けた時の俊介の目は本当に辛そうだった。

 でも本番では俊介は震える喜久雄を笑って励ます。ここが彼の人の良さが現れたいいシーンだと思う。だが舞台に立つ喜久雄を見た俊介は、耐えられずに客席から出て行ってしまう。俊介は明るく、気遣いができる優しい人だ。喜久雄の「才」を信じ、応援していたのは本当だろう。だからこそ、圧倒的な喜久雄の「才」を目の当たりにするのは辛かったに違いない。


 この映画の素晴らしいところは、喜久雄と俊介、どちらにも共感できるところだと思う。私は喜久雄側の人間で、生まれが違っていればと人生を呪うことは何度もあった。だからこそ喜久雄に共感し、のめり込んでいたわけだけど、恵まれた生まれの俊介の気持ちも、何故か痛いほど分かるのである。


 ここで喜久雄と俊介、二人の人生に大きく関わる女性のことを書きたい。喜久雄の幼馴染で恋人だった「福田春江(高畑充希)」は俊介が喜久雄の舞台を見ることができずに客席から逃げ出した時、彼を追いかけて結局そのまま俊介と一緒に出て行ってしまう。

 原作を読んでないと、春江の行動はあまり理解できない。私は女なので、やっぱり女性目線から彼女の行動を見てしまうので、正直に言えば春江という人は「上手く乗り換えたな」と思ってしまう。

 原作では春江にも色々あったらしいが、映画ではあまり描かれていないのでどうしても春江の行動がよく分からず、ふわふわと蝶々のように二人の男を渡り歩いているように見えるのだ。よくよく思い返してみれば、一度俊介が雨の日に春江を訪ねてきていたので、俊介が春江を好きだったことは分かる。春江はずっとふわふわとしていて、鈴の鳴るような声で二人を励ましている。でも俊介が客席から逃げ出した時、春江は自分の意思で俊介を選ぶ。

 そう言えば、喜久雄に「結婚しよか」と言われた時に春江はうんと言わなかった。朝になり喜久雄が一人家を出ていく時、春江は布団を頭からかぶっていた。二人の関係はとっくに終わっていたけど、春江はそれを言い出せなかっただけなのかもしれない。映画では、春江と俊介が出て行ったことを知った喜久雄のことは描かれていないが、喜久雄も薄々それに気づいていたのだろう。


 喜久雄と関わる女性は他にも何人か出てくる。芸妓の藤駒とは子供まで作っているが、結婚はしていない。

 自分の娘に喜久雄が会いにいくシーンがあるが、この時の喜久雄の目が怖い。笑顔で娘を抱き上げ、優しく話しかけているがそこに愛情を感じないのだ。ここで喜久雄は「歌舞伎が上手くなるなら他になんもいらんと悪魔にお願いをした」と娘に話すのだが、喜久雄はとっくに悪魔に魂を売っているように見える。娘に笑顔を見せる喜久雄の目が本当に怖い(二回目)その後、人力車に乗って観衆に笑顔で応える喜久雄のシーンがあるのだが、娘が「おとうさん」と喜久雄を追いかけるのだ。その時の喜久雄の目が本当に本当に怖い(三回目)彼にとって娘と言うのはどういう存在だったのだろう。欲しくないなら作るなよ、と思うのだが、もしかすると「娘」というのが気に入らなかった、なんてことはあるのだろうか?


 一方の俊介は、春江と逃げた後も諦めずに芸を磨き続け、春江との間に「息子」が生まれている。この「息子」というのが歌舞伎界ではとても重要らしい。歌舞伎界では女性に跡を継ぐ権利はなく、あくまで男性のみ。つまり息子がいれば、家出していた放蕩息子だろうと、出自の分からない女が生んだ子だろうと、男であれば全てがひっくり返る。俊介の母は春江を受け入れ、孫も大事にしている姿からそれが分かる。


 半二郎が亡くなったことをきっかけに、ようやく戻って来た俊介が息子を連れていた、この事実だけで喜久雄の絶望が伝わってくる。いなくなった俊介の代わりに家を支え、半二郎から名を継いだ喜久雄はこれでようやく自分の体に根が生えたような気持ちだったかもしれない。でもやはり「血」には勝てないことを喜久雄は痛感しただろう。


 俊介が戻り、世間は俊介をもてはやす。喜久雄の人生は大きく狂い始め、ヤクザの息子であったことや隠し子がいることが暴かれ、舞台にも立てなくなる。ここでもう一人の女性「彰子(森七菜)」が出てくる。彰子は歌舞伎役者の娘だ。天真爛漫なお嬢様で、喜久雄のことを慕っている。喜久雄は父親に取り入る為に彰子を利用しようと考え、彼女を誘惑する。


 当然彰子のことを愛していない喜久雄は、終始彰子を見ていない。なんなら彼女を抱いている時ですら、どこか別のところを彼は見ている。ここが本当に怖くて、やっぱり女性目線で見てしまうのだけど、彰子は恋した相手に抱かれるのが嬉しくて、彼が自分を見ていないことに気づいていないのだ。喜久雄は彰子を利用して役をもらおうとしたようだけど、これで息子でもできれば歌舞伎界と「血」の結びつきが生まれると考えたのかもしれない。喜久雄が欲しくてたまらなかった「血」が手に入るのだ。

 のちに喜久雄は俊介に「結局血か」と言うシーンがある。彼が半二郎の代役で舞台に上がる時、俊介に「血が欲しい」と話すシーンがある。喜久雄が何よりも血の結びつきを求めていたのは明らかで、それはいかに歌舞伎界にとって血が大事かということを痛感させられる。実際、母親役の寺島しのぶさんのインタビューによると、血の繋がった子がいるのに外の子が跡継ぎになることはないのだという。そうやって歌舞伎界は守られてきたのだと思うと、中の人の言葉には重みがある。


 結局喜久雄の目論見は外れ、激怒した彰子の父親に怒鳴りこまれる。彰子は喜久雄を庇い、自分は喜久雄と出ていくと父に宣言するのだが、喜久雄が彰子を見る「変なこと言うんじゃねえよ」と言いたげな目が恐ろしい。喜久雄にとっては完全にあてが外れたわけである。彰子は父に反対されて逆に燃えているのだが、喜久雄は彰子と生きていくつもりなどさらさらないのだ。でももう流れには逆らえず、喜久雄は彰子と出ていくことになる。喜久雄と俊介が殴り合いの喧嘩をしていたのを見ていた彰子の、この道は間違っているかもしれないけど、もう後戻りはできないとでも言いたげな表情が切なかった。


 彰子と喜久雄はドサ回り(この表現は適切じゃないかも)しながら芝居を続けている。ここでも二人が見つめ合うシーンはない。一緒に行動しているけど、喜久雄には彰子が見えていないかのようだ。喜久雄は宴会場のようなところでも手を抜かずに芝居をしている。俊介の華々しい活躍をテレビで見ながら、喜久雄はドライブインのような店でまずそうなご飯を食べている。あまりにも落ちぶれた彼の姿に胸が痛い。映画を観ている私は、喜久雄がどれだけ凄い才能がある歌舞伎役者なのかということを知っているだけに、喜久雄が落ちぶれた姿が悲しい。


 ある宴席で舞う喜久雄はとても美しく、彼に魅了された男がじっと喜久雄を見ているシーンは色んな意味で怖かった。とうとう喜久雄の目の前までやってきて、舞台中だというのに喜久雄をガン見しているのだ。少し話がずれるけど、魅力的な人は常にこの「嫌な視線」に晒されているのでその恐怖がうまく描かれていたなと思う。その後喜久雄が一人で廊下みたいな場所で着替えているシーンに移るのだが、私は心の中で「一人でいたら危ないよ……!」と叫んでしまった。喜久雄は男だけど、女性で舞台に立つ人なんかは色々危ない思いをしたんだろうなあなどと、つい余計なことを思ってしまった。

 案の定、その変な男が仲間を連れて着替え中の喜久雄の所にやってくるのだ。男は喜久雄を女だと思っていて「男かよ!」と絡むのだが、喜久雄は任侠の血があるので男らに凄む。でも多勢に無勢なので、結局喜久雄は彼らにボコボコにされてしまうのだけど。

 

 この後が、この映画屈指の名シーンである。喜久雄が屋上で、白塗りの顔に目元の化粧が崩れた顔で一人舞う。色んなところで「ジョーカーのよう」と言われている、喜久雄の絶望が表現された素晴らしいシーンだと思う。この後、彰子は映画に出てこなくなる。彼女とはどうなったのか分からない。原作では結婚していたらしいとか見たけど、未読なので分からない。映画ではこの後彰子の姿はないし、恐らく別れたのかな。喜久雄にとって彰子はなんだったのだろうと思う。喜久雄に何も影響を与えず、まるでマネージャーのように影で付き添っていただけにしか見えない。ここも原作を読むとまた印象が違うのかもしれない。


 その後、喜久雄は万菊に呼び戻され、歌舞伎界に戻ってくる。喜久雄と俊介のコンビも復活するのだが、その俊介は病魔に侵されていたという辛い展開だ。糖尿病で足が壊死していた俊介は、足を切らなければならないという現実を受け入れ、あくまで前向きだった。俊介は何があっても希望を失わない、強い人だ。

 足を切って義足になっても舞台に立つことを選んだ俊介と一緒に舞台に立ち「曽根埼心中」を演じると決めた喜久雄と、倒れても最後まで演じると決めた俊介の覚悟は胸に迫るものがあった。


 当然、これはお芝居であり現実ではない。だが映画を観ていた私は、完全に「喜久雄と俊介」の舞台を見ている観客の一人になっていた。この映画は三時間くらいあり、とても長い。喜久雄の少年時代から順を追うように彼の人生を体感する映画だ。私は映画の中に喜久雄が生きていると感じた。それは監督、撮影監督、役者など、全てのスタッフが力を尽くして作り上げた世界だからこそ感じるリアリティだった。


 ラストシーンは敢えてここには書かない。喜久雄の最後のセリフは、ぜひ劇場で聞いて欲しい。ラストシーンの美しさと余韻が凄くて、私は未だに国宝の世界を引きずっている。


 最初に私は「ネタバレがあるので見たくない方は戻って」と書いた。でも私は面白い映画というのは、ネタバレを見ても面白いと思ってる。人間、見た数だけ感想があるわけで、こいつはこんなとんちんかんなことを書いてるのか、自分はそうは思わない、などと思うことはよくあるのだ。私の感想など星の数ほどある感想の一つでしかない。


 だから、また国宝を観てない人、ぜひ劇場に行って観て欲しい。多分私の感想を見た後でも、新鮮な気持ちで観ることができるはずだ。


 私も時間があればもう一度観にいきたい。序盤の喜久雄と俊介が河原で稽古しているシーンで、私は泣いてしまうかもしれないと思う。

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映画の感想って難しい 弥生紗和 @yayoisawa

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