われらは種ではない
ポチョムキン卿
前編 第一章:「わたし」という種
朝の光が静かに地平線を染める。風はまだ凪ぎ、空気は張り詰めていた。遠くの大地は薄い霧に包まれており、世界が目覚めるその瞬間を待っているかのようだった。
わたしは、いつもと同じ場所にいた。だが、心は違った。胸の奥が微かに疼き、これまで感じたことのない不安が忍び寄る。
「もうすぐだ」レリオの声が頭の中で響いた。師はいつも静かに、しかし確かな力でわたしを導く存在だった。
「分裂の儀式は、恐れるものではない。お前の中にある記憶は、ふたつに分かれても失われない。だが、新しいお前は古いお前とは異なるだろう」
わたしはその言葉を繰り返した。分裂は成長の証。種の成人儀式。わたしたちは性別を持たず、成熟すると体が二つに分かれ、それぞれが個体となる。だが心は繋がっている。
窓の外で、小さな鳥が囀った。自然の調べが、わたしの胸の鼓動と重なる。
わたしはゆっくりと手を伸ばし、机の上にある薄い半球状の装置に触れた。そこに宿るのは「マザー」――わたしたちの集合意識であり、過去の記憶の種子の貯蔵庫だ。
触れた瞬間、淡い光が指先から身体に伝わり、精神がゆるやかに震えた。マザーが迎え入れてくれているのを感じる。
「怖い?」と、レリオの声。
「少しだけ……でも、準備はできています」
静かな決意を胸に、わたしは目を閉じた。体の中心がじんわりと熱を帯び、やがて二つに分かれ始める。
痛みはない。ただ、世界が二重に見え、そして……。
わたしたちは生まれた。
分裂の瞬間を迎え、わたしの身体は静かに、しかし確実に二つへと分かれた。
目の前には、まったく同じ姿をしたもう一人のわたしが立っている。彼(彼女?)はわたしの鏡像であり、かつてないほどの親しみと不思議さを同時に感じさせた。
「はじめまして、わたし」と、わたしは言った。
「はじめまして、わたし」と、もう一人も返した。
わたしたちは同じ記憶を共有しているが、同じ存在ではない。これから別々の経験を積むことで、それぞれの個性がゆっくりと芽吹いていくのだ。
精神リンクがまだ強く、互いの感情や思考がかすかに伝わってくる。しかし、少しずつその境界は明確になり始めている。
「これからどうなるのだろう」と、分かたれたわたしは不安と期待が入り混じる感情を抱いた。
レリオの言葉が再び響く。
「恐れるな、これがわたしたちの進化だ。二つに分かれ、やがて一体となる日もあれば、それぞれの道を歩む者もいる」
わたしは頷きながら、自分の存在が今までとは違う形に変わりつつあるのを感じた。
やがて、わたしたちは儀式の場を離れ、社会の中へと歩み始める。分裂した個体はそれぞれが個性を持つため、周囲からもそれぞれ異なる名前を与えられる。
わたしは「シナA」、もう一人は「シナB」と呼ばれることになった。
「シナA、今日から新しい生活の始まりだ」
「シナB、これからよろしくな」
互いに微笑み、これからの長い旅路に胸を膨らませた。
分裂したばかりのわたしたちは、まだ完全に独立した存在ではなかった。精神の糸は見えないままに絡まり合い、互いの思考や感情が交錯し合う。
「シナA、気持ちはどうだ?」と、シナBが問いかける。
「不思議な感覚だ。わたしの中に“もう一人”がいるのに、まだひとつの身体のように感じる。恐れもあるが、同時に未知の可能性に胸が躍る」
「わたしも同じだ。わたしたちはどうやってこの繋がりを保ちつつ、個別の道を歩むのだろう?」
精神リンクは、最初は強力な結びつきだった。しかし、それは時間と共に少しずつ薄れていくことを意味していた。
「マザーの言葉を思い出せ。お前たちは一体だが、同時に別々だ。個の経験が独自の人格を育み、それが種の多様性をもたらす」
わたしたちが住む社会は、人間社会と似ているようで異なる。言葉や感情表現は共通だが、性別の概念は存在しない。わたしたちの種族は、成熟すると必ず分裂し、精神的に繋がりながらも、それぞれが独立した個となる。
学校や職場、家族といった社会構造は存在するが、それは分裂の結果生まれる個体の数だけ多様化する。わたしたちは「ひとつ」だった過去を胸に、それぞれが独自の人生を歩み始める。
「わたしは何を選ぶのだろう?」
「わたしも知りたい。だが、迷いは成長の証。恐れずに歩もう」
ある日の午後、わたし(シナA)は街の広場で仲間たちと会った。分裂したばかりの者たちが集い、それぞれが体験や感情を語り合っている。
「お前はどうだ?」と、仲間の一人が尋ねる。
「まだ心が揺れている。分裂は肉体だけじゃない。心も分かたれる。それが怖いんだ」
「わかる。だが、忘れるな。お前の中には“わたし”がいる。そして“わたし”の中にはお前がいる」
みんなが微笑む。わたしたちの種族は、互いの分裂を受け入れ、支え合うことで社会を築いている。
その夜、わたしは窓辺に座り、星空を見上げた。
「わたしたちは、この宇宙のどこに向かうのだろう?」
ふと思った。分裂し、増えてゆくわたしたちの種族は、やがて星々へと散らばっていくのだろうか。
「マザーはわたしたちを導いている。過去と未来、生命の種を播くために」
深い静寂の中で、わたしは自分の存在が新たな段階へと向かっていることを実感した。
分裂を終え、新たな個体としての生活が始まってから数日が過ぎた。わたしたちシナAとシナBは、それぞれの身体と心の調整に時間を費やしながらも、精神リンクの絆を保ち続けていた。
「マザーからの通信がある」とシナBが知らせた。薄暗い部屋の片隅に設置された小さな端末が微かに光り始める。
「受信している。内容は……“任務開始の準備をせよ”」
わたしたちが住む世界では、成熟した個体は必ず宇宙の広大な領域を巡る探査任務に参加することが定められていた。これは単なる任務ではなく、種の生存と進化のために不可欠な過程であった。
「任務……」シナAのわたしは言葉を繰り返した。胸の中に熱い期待と不安が渦巻く。
「初めての任務だ。わたしたちが種の歴史の新たなページを刻む瞬間だ」
二人の視線が合い、無言のうちに決意が交わされる。
その夜、マザーとの精神リンクを通じてわたしたちは深い意識の海に触れた。マザーは過去の記憶の種子を束ねる巨大な集合意識であり、星々の記憶を宿していた。
「わたしたちは星の種だ」とマザーは語りかける。
「生命の循環は、分裂と融合を繰り返しながら続く。お前たちの使命は、宇宙に生命の種を播き、未来を育むことにある」
マザーの声は温かく、しかし厳粛であった。わたしたちはその言葉の重みを深く受け止める。
翌朝、任務の準備が始まった。専用の艦艇に乗り込み、アルカ・プラナという古代の中継衛星へと向かう予定だ。そこには、かつて地球で起こった核戦争の痕跡と、失われた人類の記憶が眠っている。
「この地球は、わたしたちの起源でもある」とシナBが言う。
「だからこそ、調査は重要だ」
船内では、各個体が互いに連携し、細かな任務の役割分担を確認する。分裂したわたしたちは個別の存在だが、互いの情報を瞬時に共有できる精神ネットワークにより、一つの意識のように動くことも可能だった。
「これがわたしたちの進化の形なのだ」と感じながら、わたしは心の奥底に広がる希望と責任感を抱いた。
船が次元ゲートの前に静かに停泊する。エネルギーが満ちていき、光の波紋が広がる。
「準備はいいか、シナA?」
「はい、シナB。わたしたちは一緒に未来へ進む」
次元ゲートが開き、無数の星が瞬く宇宙の深淵へと飛び立つ。わたしたちは新たな物語の幕開けを迎えたのだった。
次元ゲートの光が眩しく波打ち、わたしたちの小さな船体を包み込んだ。宇宙の深淵へ跳躍する瞬間、わたしの意識は一瞬にして拡散し、そして収束する。
「これが…わたしたちの第一歩か」シナAのわたしは、吐息とともに呟いた。
「まったくだ。未知の世界が待っている」シナBも同じように緊張と高揚を胸に刻む。
アルカ・プラナに到着すると、古代の構造物が幽玄な光に包まれていた。無数の星々の記憶を吸収してきたこの衛星は、マザーの知識の一部を保管している場所だった。
「ここに地球の断片があるのだな」わたしは感慨深くつぶやいた。
「私たちの起源に触れる…それが私たちの使命だ」シナBの目には強い決意が宿っていた。
調査を進めるうちに、二つの個体として育ちつつあるわたしたちの意識はそれぞれの異なる感覚や発見を経験する。しかし、精神リンクの糸は依然として繋がっており、どんなに遠く離れても共鳴し合う。
ある日、わたし(シナA)は古びた記録室で偶然にも不思議なデータを見つけた。そこにはかつての地球人の言葉で綴られた日記の断片が保存されていた。
「“わたしたちはもう一度やり直せるだろうか…”」読み上げた言葉に胸が締め付けられた。
一方、シナBは外部調査隊と共に衛星の外壁にある謎の構造体を調査していた。そこで、古代技術の痕跡や生命の根源に関わる遺伝子情報の断片を発見する。
「この情報は、マザーが語っていた“生命の循環”の鍵かもしれない」そう告げる声は震えていた。
日々の探索の中で、わたしたちは次第に別個の経験と個性を育てながらも、深いところで繋がっていることを実感した。
愛とは何か、自己とは何か。種としての未来とは何か。
分裂によって生まれた“わたしたち”の関係は、複雑で美しく、そして時に切なくもあった。
任務の終盤、マザーからの緊急通信が届く。
「探査中に異常なエネルギー反応を検出。調査せよ」
二つの意識が再び緊張する。
「これが試練かもしれない」
「覚悟を決めよう」
わたしたちは手を取り合い、未知の領域へと足を踏み入れた。
静寂の宇宙空間に浮かぶアルカ・プラナ。星の記憶と生命の起源が交差するこの地で、わたしたちの物語はさらに深まっていく。
未来の扉は、今、ゆっくりと開かれ始めていた。
<つづく>
かつて一体であった存在が、いまふたつに裂かれた。
その裂け目には、記憶という名の炎が燃えている。
クァルは、そしてもうひとりは、何を見つけ、何を信じるのか。
そして「愛」という未知の感情は、彼らの運命をどう変えるのか。
ついに、新たなる種の夜明けが始まる。
われらは種ではない ポチョムキン卿 @shizukichi
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