第12話
彼女の家の玄関の扉を静かに閉める。その音が、やけに大きく響いた。
そして、俺は自宅に向けて歩き出した。
ほんの数歩、夜の街を歩いただけなのに、頬にあたる風がひどく冷たい。
それでも、俺の体は熱を持ったままだった。
頭の中はぐちゃぐちゃで、さっきの彼女の涙が、何度もフラッシュバックしてくる。
「ごめんね、伊吹くん」
その一言が、焼きついて離れない。
ノート通りに動いていれば、もっと正しい形で、彼女の隣にいられたのかもしれない。
でも、俺は自分の気持ちを優先して、ノートを無視した。
その結果が、あの涙と「ごめんね」なら……
それでも、やっぱり、後悔なんてできなかった。
だって、彼女は目に涙を浮かべながら、それでも俺を見ていてくれた。
拒絶でも嫌悪でもなく、寂しさと、迷いのにじむ、あの瞳で。
ノートに頼らない、自分だけの行動が彼女の本音を引き出したんだ。
そう考えたら、後悔なんてなかった。
それから数日が過ぎた。
昼休みの教室はいつもと変わらないざわめきに満ちていたけど、俺の視線はずっと、たった一人の少女を追っていた。
梓。
あの夜以来、ふたりの距離はなぜか変わらないままだった。
挨拶もする。軽い会話もする。傍目には、普通に見えるかもしれない。
でも、目が合ったとき、彼女の瞳の奥が、ふと揺れる。
(やっぱり、俺は知りたい。彼女のことを、もっと)
こんなふうに思うようになったのは、きっと、あの涙を見たからだ。
俺に見せた、あの素直な声と、表情と、揺れる瞳を知ってしまったからだ。
放課後。無意識のうちに、彼女の背中を追っていた。
自然と歩幅が合い、いつの間にか、校舎裏の静かな場所へ。
「梓、ちょっといいか」
呼びかけると、彼女は小さく肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
「なに?」
その声には、かすかな緊張と怯えが混ざっていた。
どこか、触れられたくない記憶を守るような、慎重な表情。
「前に、俺が言ったこと、気にしてる?」
「ううん。気にしてないよ」
そう答えながら笑った彼女の表情は、どこか不自然で
その笑顔を、無理やり作ってることが、すぐにわかった。
「なら、なんで目を逸らすんだよ」
言葉が零れた瞬間、彼女の瞳がほんのわずかに揺れた。
俺はポケットからノートを取り出し、静かに掲げた。
黒い表紙。未来の指示が書かれた、あのノート。
「このノート、お前も、知ってるよな?」
沈黙の中で、彼女の目が大きく開かれる。
そして、小さく息を吐きながらうなずいた。
「うん。私も持ってる。伊吹くんのと、たぶん同じようなやつ」
その言葉を聞いて、心のどこかがぎゅっと締めつけられた。
やっぱり、そうだったんだ。
「じゃあ、俺の告白を断ったのも、そのノートの?」
「厳密には、そうじゃない。でも、きっかけにはなったと思う」
言いにくそうに、でも隠さずに彼女は答えてくれた。
そして、ほんの少しだけ、目を伏せたまま続けた。
「伊吹くんが告白してくれたのも、もしかして、ノートの指示だったりする?」
「絶対に違う!」
思わず声が大きくなる。食い気味に、否定した。
「俺はただ、自分の気持ちに嘘をつきたくなかっただけだ。どうしても、君に思いを伝えたかった。それだけなんだ」
彼女は驚いたように目を見開き、やがてふっと目を細めた。
でもその微笑みは、どこか寂しげだった。
「伊吹くんって、ほんと、強いね」
「強くなんかないよ。むしろ、怖かった。でも、ノートの指示通りに生きていくのも怖くて、だから……」
言いかけて、口を噤む。
でも、彼女の目がほんの少し潤んだ気がした。
沈黙が流れる。だけど、聞かずにはいられなかった。
「なあ、梓。お前のノートには、一体なんて書いてあるんだ?」
彼女の肩がびくりと震えた。
そして、少しの間を置いて、小さく首を横に振った。
「それは、言えない」
「なんで?」
「言ったら、伊吹くん、きっと悲しむと思うから」
(悲しむ? 何が書いてあるっていうんだ……)
怖くなる。でも、彼女を問い詰めることだけはしたくなかった。
「それでもいい。たとえお前が、どんな未来を知ってても、俺は自分が選んだ未来を信じる。信じたいんだ」
彼女は、はっとしたように目を大きく見開く。
そして、唇をかすかに震わせながら、うなずいた。
その姿が、どこまでも美しく、儚く見えた。
まるで泣きたそうなのに、それを必死で堪えてるみたいな顔で。
その夜。
机に向かい、ノートを開いた。
いつものように、今日の指示がページの端に記されていた。
「梓との対話は失敗に終わる。追及は避けろ」
でも、俺はそれを無視した。
「失敗」? 本当にそうだろうか?
あのときの梓の目。揺れる声。ためらいながらも返してくれた言葉。
どれも、ただの予定にはなかったはずだ。
(ノートなんて、もうどうでもいい。俺は、彼女とちゃんと向き合いたい)
そう思えた。
いや、そう、信じたいと、心から思った。
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