不自由の女神

藤瀬ねろ

不自由の女神

 お袋が肥大した。12月の、風が唯一覆われていない顔を刺すような寒い日のことであった。初めは二寸ほど身の丈が伸びただけであったのだ。お袋も自分で気づいてはいないようであったし、一緒に住む私でさえも気づかないほど微々たる差であった。されど、確実に膨張していた。日が経つにつれ、無視できぬほどの巨大さになってしまった。毎日お袋がくぐっていた台所の暖簾も、支柱に頭を打ちつけ、床に横たわってしまっている。実に、実に奇妙である。


 私は、物心も付かないうちから、お袋のことを恨んでいた。憎んでいた。彼女は、一言で言ってしまえば、利己的、である。気に入らぬことが起こればそこらじゅうの物当たり散らし、怒鳴って相手を激しく威嚇しなさる。手に負えないのである。いっそ殴ってはくれまいか、と何度考えたであろうか。何故か私には、手を出さないのである。殴ってさえくれれば、警察に泣きつくでも、国に助けを求めることでさえできたであろうに。そんな部分にまで考えが及んでいるお袋の巧妙さ、実に腹立たしい。

 私の行く学校、友人、恋仲になる女性までも、お袋に強制されて、逃げられぬ人生であった。赦してはおけぬ。迄の十七年、私の人生は、彼女の指先で揺れる糸で操られた人形、というだけの存在であったのである。

 

 さらに腹立たしいのは父である。何故あのような女を嫁にもらったのか、気がしれぬ。理解したいとも思えぬ。あの男に、感情は無い。何時も虚な目を引っ提げ、私に見向きもしない。たとえお袋が手を出そうとも、目の色ひとつ変えずに突っ立っていやがる。なんと気味の悪い。夜が更けた後にうっかりと目を合わせてしまった日本人形に匹敵する不気味さである。

 父がお袋を止めようとしたことは是迄に一度たりともありはせぬ。私が食事の際、左の手を膝に置いていた際、怒り狂ったお袋が窓を破り、硝子の雨を降らせたことがあった。父はそのような惨状を目の当たりにしてなお、仏頂面を崩すことはなかったのである。


 お袋は、今や首を曲げなければ居間に立つことすらできぬ。肥大化と比例し、横暴性も増してきているように感じられ、非常に不愉快である。

 元の大きさから一尺ほど膨張したころ、私はやってしまったのである。お袋が、私に洗濯を終わらせるように頼んでいた日のことであった。私はすっかり忘れて、冬眠するかのように、何時間も、眠りこけてしまったのである。お袋が玄関の引き戸を開ける音で目が覚めた。庭に干されているはずの山積みの衣服を見るなり、空襲警報のような甲高い声で喚き散らした。肥大化したお袋の喉仏から発せられる音は、無駄に反響して聞こえる。衣服を投げつけ、私が洗濯を終えるまで凝視したのち、言い放ちおった。「そこで土下座しなさいな。二度としないように、撮っておいてやろう。」

 テープは手のひら二つほど短な残量しか残っていなかったにも関わらず、その全てを消費し、お袋は私が地に膝を、額をつくのを、昨年父が買ってきたカメラに収めた。殺してやりたい。このような

鬼女、生かしてはおけぬ。私の十七年間、最大の屈辱である。この女を殺さねばならぬ。ならぬのだが、私はこの家以外の身寄りなど思い当たる場所など一つも存らず、此処から出て行くことも不可能に限りなく近いのである。十七の身寄りのない青年など、どのような懐の深い商家も受け入れてはくれぬであろう。

 

 年が変わる頃、お袋は腰を曲げずとしてこの家の中で歩き回ることが出来ぬようになった。医者に診てもらうことを勧めても、この女、頑固で聞く耳を持たぬ。肥大化のため、暴れると手に負えないので無駄に刺激もできず、お袋が膨張していくのを黙って見、耐え忍んでいた。


 一ヶ月も月日が経てば、遂に家の中にも入らない寸法となった。私が五つの時に、どういうわけか此の家は急速に豪商となり、大きな庭のついた青の屋根の一戸建てに越した。お袋はこの凍てつく天候の中、庭で過ごすことを強いられ、常々眉間に皺を寄せておられた。

 ここまで大きくなっては人の目も避けられまい。是迄畑で採れた野菜を持ってきてくれていた近所の者たちはまるで神話に登場する悪魔をを見るような目でお袋を見ては、足早に去っていきおった。薄情である、つい近頃お袋と井戸端会議を繰り広げていた仲ではないか。彼らの子供は、お袋に覆われた空を仰ぎ見ようとするあまり、首を痛めたようであった。警察も、医者までもが自ら足を運びお袋を診たが、このような奇妙な事例は、かつて世界のどのような地域にも起こった例がないそうな。

 庭には、お袋の巨大な足跡が幾つも在った。まるで地上絵を見ているかのような、不思議な気分であった。


 遂に、これは、ここから出ていかなければならないと、そう決心する出来事があった。二月にもなると、お袋の身の丈は家の屋根の高さを遥かに越え、見上げないとお袋の顔が見えぬほどにまでになってしまった。お袋はいつ如何なる時にも腹を空かせており、如何なる時も不機嫌であった。それもそのはず、屋根を越えるほどの巨大な女が、私たちの食事の量で満足できるはずがあるまい。そのくせあれを寄越せだの味付けはこうしろだの五月蝿いのだからまた腹が立つ。父はいつもの仏頂面を引っ提げ、文句の一つも言わんとせっせと料理を運びおる。

 あくる日、父親が、漬物の塩と砂糖を間違え、それに気付かぬままお袋に振る舞った。案の定お袋は怒り狂い、迷惑なことに地団駄を踏んだ。その頃、お袋の身の丈は二十尺を越えていた。お袋は自分の足のすぐ下に父がいたことを忘れていたのであろう、躊躇もなしに父の脚を踏み砕いた。

 私は、これをどうしても許せなかったのである。なんと哀れだ。肥大化した母によって砕かれた父の脚を献身的に世話をする息子など。恥ずかしくてやっておられぬ。


 是を機に、家を捨てる決意を、私はしたのである。上手いこと説明はできぬが、居た堪れぬ気持ちを拭い去ることが、どうしてもできなかったのである。

 脚を悪くした父を残し、お袋が地道に何年もの間貯めていた貯金をひっそりを盗み、家を飛び出した。現在私が通う学校の卒業まではあと一ヶ月も残っていたが、死に物狂いの私にはそのようなこと、心の片隅にも浮かばないのであった。

 運よく、宿を貸してくださる、心の清い男性に出会った。幸運である。その上、少しの金で三階というなんとも贅沢な部屋に住まわせてくれる、とのことである。なんということであるか、その心の清らかな男性は私めに仕事すらも与えてくださった。私は学校を辞めた。


 あの気味の悪い父、横柄極まりない母がおらぬ生活は、大変快適であった。自分の人生か、是ほどまでに輝いて見えたことはない。何もかもが、澄んでいるのである。朝の目覚めに感謝し、労働という権利を全うできる喜びを噛み締め、感謝と共に眠りに落ちる。なんという素敵な場所なのであろうか、この地球というものは。

 

 朝の到来に感謝し、歯を磨いていた時のことである。誰もおらず、静かな宿の三階の一間で、私は今まであったことにも気づかぬような小窓が、洗面所にあることに気づいた。憎い、憎くてまあしょうがない、あの家が、この小窓から丁度見えるのである。母は未だに無防備に、憎たらしく、巨大であった。だが、この宿から母は、酷く小さく、しょうもなく、私の目に映ったのである。

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