エピローグ(1)

 午後七時。高島発の新幹線の中。

 こてん、と僕に頭を預けてきた朝霧さんは、ずいぶん穏やかに眠っている。

 もしかしたら、昨日は眠れなかったのかもしれない。それに、今日のことだ。疲れるのも無理はないだろう。

 新幹線は闇を切り裂いて走る。

 明かりの見えない真っ暗な車窓を眺めながら、僕は昼間のことを思い出していた。



 朝霧さんは一ノ瀬さんの遺書を読んだあと、ずっと言葉少なだった。

 不機嫌だったわけでは、なさそう。

 泣き疲れた……のは、あるかもしれない。

 なにかずっと、考え込むような、どこかを見ているような、そんな落ち着きのない表情。


「大丈夫、ですか?」


 月並みな言葉しか浮かばないけれど、朝霧さんは「うん、ごめんね。ありがとう」と小さく返すだけ。


「……まったく」

 畳の間に戻った僕らに、また縁側に座っていた昇さんがいう。


「仕事の後輩をあんなに泣かせよって。どこまで他人に迷惑を掛けるつもりだ」


「あ……。お騒がせして、すみません」


 さすがにその時は、自分の泣き声が外まで筒抜けになっていたことに恥ずかしそうにしていたけれど。


「ううん。お騒がせなんて、そんな」


 僕らの後ろからお茶を持ってきた香さんは、


「あの娘の日記を読んでくれて、ありがとう。夕花に代わって、お礼を言います」


「……こちらこそ」


「なに、あんな娘のことなどさっさと忘れてやってくれ!」


 膝をバン! と叩きながら、立ち上がる昇さん。


「その方がいい! 死んだ人間のことを考えながら暮らすのは……」


 豪快な仕草と裏腹に、なにかを堪えるような顔で言った。


「家族だけで、十分だからな」



「あの人、四年経ってもお墓に行けないんです」


 一ノ瀬家を辞去しようとする僕たちに、見送りに立ってくれた香さんは笑いながら言った。


「墓を見ると夕花が死んだことを思い出す。あんな親不孝者、忘れた方が身のためだからな……と」


 香さんがくすくすと笑うとおり、それは本心の言葉でない事は明らかだった。


「これ、持って行ってください」


 香さんが、一ノ瀬さんのノートを朝霧さんに手渡す。


「いいんですか?」


「いいんですよ。仕事の内容ばっかりでしたし、貴方たちが持っていた方が役に立つこともあるでしょう。それに……」


 朝霧さんがノートをパラパラとめくる。


 朝霧さんに宛てた遺書の後、不自然に破られたページがある。

 夕さんはにっこりと笑うと、


「そこはね。お父さんが、大切に仕舞っているから、いいんですよ」


 と、言ったのだった。


 一ノ瀬家を出た時には、もう時刻は昼下がりになっていた。


「これから……どうします?」


「新幹線の時間にはまだ早いから、なにか宮原で美味しいものでも食べて帰りましょうか。小鳥遊くん、お腹空いたでしょ」


「朝霧さんこそ……お疲れさまでした」


「私? 私は……特に、大丈夫だよ」


 いつもの会話のようで、無理を装っているのがわかる声。


「タクシーでも拾いましょうか」

 保存地区から一本表に出ると、幹線道路になっている。保存地区の道はどこも狭く、車では入りにくいことから、客待ちのタクシーは表通りに集中しているのを昨日竹の宿の女将さんから聞いた。

 ちゃりちゃり、と音を立てて石畳の路地を歩く。

 朝霧さんはずっと押し黙ったままだ。僕もそんな彼女に、掛ける言葉が見当たらない。


『朝霧さんが尊敬した先輩に、もし事情があったのなら、それを朝霧さんは知るべきだと思います』


 編集長にそう啖呵を切って、実際事情はあったのだ。

 だけど、事情を知ったところで、朝霧さんが感じていた怒りや悲しみが、それですっぱり消えてしまうわけではないのだと、僕は気づいていなかった。

 おまけに、「知るべき」だなんて、随分なことを言ってしまったように思う。


「朝霧さん」


「……小鳥遊くん、私をここに連れてきてくれたこと、本当にありがとうね」


 謝った方がいいのかもしれない。そう思って口を開いた僕に、朝霧さんは優しく微笑む。


「私はきっと、小鳥遊くんがこうでもしてくれなきゃ、一ノ瀬先輩の気持ちを知ることはなかったと思う。だから、本当にありがとう」


「……出過ぎた真似をしたかと、思ってました」


「私のことを思ってくれたからでしょ? 違う?」


 何も言えない。


「そう考えこまないで。本当に私は、小鳥遊くんに感謝しているのだから」


 くひひ。いつもの笑い顔。だけどその顔は、まだ晴れないままでいて。


「行きましょ。駅でなに食べようかなー!」


 わざとらしい大声が、夏の空に消えていく。



 タクシーは折よく一台止まっていた。


「どこまで行きましょ」


「あ、宮原駅まで」


「はい」


 後部座席に乗り込み、車が走り出す。

 左手に保存地区がちらりと見える。二日間だったけど、随分密度の濃い時間を過ごした。


「また、来ましょうね」

 たまには墓参りをしにくるのもいいだろうと、隣に座る朝霧さんに声を掛ける。すると、朝霧さんの様子がおかしい事に気がついた。


「……朝霧さん?」


 下を向き、拳をぷるぷると握りしめながら震えている。

 僕が声を掛けるのが早かったか、彼女が前を向いて叫ぶのが早かったか。


「運転手さん! 最澄寺まで! お願いします!!」


 最澄寺の階段下。


「……待ってください、朝霧さん!」


 朝霧さんは僕の声にも振り向かず、タクシーから矢のように飛び出すと、長い階段を一気に駆け上っていく。

 わき目も振らず、立ち止まることもせず。その姿に、僕は着いていくのもやっとで。

 境内に入り、墓所へ。一ノ瀬先輩のお墓の前で、朝霧さんはようやく止まった。

 肩で息をする朝霧さんは、すっ、と大きく息を吸い込むと。


「先輩の、バカーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!」


 耳をつんざくような怒鳴り声が、墓所を走り抜けていく。

 その声と呼応するように、大きな風が一陣吹いて、辺りの木がざわめいた。


「なんで言ってくれなかったんですか! なんで……なんで、先輩の中で考えがあったのなら言ってくれなかったんですか! 『私は病気だから、時間がある限り仕事を教えておきたい』って言ってくれればよかったじゃないですか! どうして一人で黙って、一人で勝手に死んじゃったんですか!!」


 まるで子供のように、朝霧さんは叫ぶ。


「言わなきゃ伝わらないに決まってるじゃないですか! 子供じゃないんですから、心配かけたくないとかカッコつけずに、言ってくれればよかったんです! 私だって……私だって、ねぇ! もっと先輩と仕事がしたかった! もっと先輩の文章を読みたかった!  いずれ死んでしまうにしても、そうと分かっているのなら私だってもっといろんな話がしたかったのに! なにが『鬼上司』ですか! 結局、先輩が一番私に甘えてるんですよ! 言えば迷惑だ、言わなくてもわかるだろう、勝手に死んでもなにも思わないだろうって! そんなの一方的すぎるじゃないですか、ふざけないでください!!! もっと私と切磋琢磨したいと思ったなら、今すぐお墓から出てきたらどうなんですか! 明日を探すことを諦めないんでしょう!? ねえ、先輩! なんとか言ってくださいよ! なんとか言って!!!!!」


 一息に叫んだ朝霧さんが泣いても喚いても、墓石は押し黙ったまま。それでも。

 一ノ瀬さんは、手紙で。朝霧さんは、声で。二人はようやく、本心を伝えあうことが出来たんじゃないか。

 子供のようにわんわん泣く朝霧さんの姿を見ながら、僕はそんな、気がした。

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