第五章(7)

 長い階段と聞いていたが、本当に長い。先の見えない階段を、二人でじりじりと昇る。

 朝霧さんはさっき女の子に挨拶してから、ずっと黙り込んだままだ。

 なにか思うことがあるのかもしれない。だけど、きっと今は……なにも言わなくていい。

 黙々と歩き、階段をようやく登り切る。


「うわあ……」

 後ろを振り向いた朝霧さんが、感慨深そうな声を上げる。階段の上からは今まで歩いてきた道や建物、更に少し離れた駅までも、一望することができた。


「すごいね」


「こんなに景色がいいなんて、思ってもみませんでした」


 写真を何枚か撮り、境内へ。本殿で手を合わせ挨拶を済まし、墓所へ足を運ぶ。

 一ノ瀬先輩のお墓は、すぐに見つけることができた。

 大きなお墓だ。先祖代々の墓、と刻まれた墓石は綺麗に掃除されており、定期的に誰かが通っているのだと思わせる。

 朝霧さんはただ黙って、その墓石を見つめている。やがておもむろに鞄から線香の箱を取り出すと、二本取って一本僕に渡した。


「ありがとうございます」


「ううん。私の方こそ、ありがとう。ここまで付き合ってくれて」


 火を付ける。小さな煙が立ち上って、僕らはそれを香炉に置いた。

 手を合わせ、目を閉じる。

 思い浮かべるのは、編集長の写真立て、そこに飾られた女性の顔。冥福を祈り、目を開けると、朝霧さんはまだ、手を合わせて目を閉じたままだった。

 やがて。


「……お待たせ」


 五分くらい経っただろうか。朝霧さんがようやく顔を上げる。後ろで黙っていた僕は、


「お話、できましたか?」


「……いや。なんかまだ、ダメみたいだね」


 悲しそうに笑う。その時。


「あら」


 墓所の入り口から声が聞こえる。僕らがそちらを向くと、黒いシャツにカーディガンを羽織った年配の女性が、こちらを見ていた。


「……こんにちは」


「こんにちは。もしかして、夕花のお友達の方?」


「夕花……って事は、もしかして」


 朝霧さんの言葉に、女性は頷く。


「私、一ノ瀬香(いちのせかおり)、と申します。夕花の母、ですわ」



 墓参りを済ませたのち、僕らは一ノ瀬家を訪れるつもりでいたのだが、まさか墓所でお母さんと出会えるとは思わなかった。


「あ……浦島の使いで、参りました。私、朝霧雛子、と申します」


 朝霧さんの名前を聞くと、香さんがなぜかはっとした表情になる。


「浦島様から聞いておりますわ。本日代理の方が見えられると。ここで出会えてよかったです」


 少しだけ時間を頂けるかしら。そういって、香さんが墓前に花と線香を備え、手を合わせる。


「……お待たせしました。よろしければ、家に上がっていってくださいな」


「ありがとうございます」


 参拝を終えた香さんの申し出に二人で礼をいい、寺の階段を降りる。

 そこに待っていた光景に、驚いた。


「どうぞ、お乗りください」


 階段の下に止まっていたのは、黒塗りのセダン。車にはあまり詳しくない僕でも知っている高級車で、おまけにスーツの男性が控えている。


「あ、ありがとうございます」


 男性がセダンのドアを開くのに恐縮しながら、朝霧さんと後部座席に乗る。男性は助手席に香さんが座るのをを待って、「ご帰宅でよろしいでしょうか」と静かな声でいった。


「ええ」


「承知いたしました」


 細い道を器用に走り抜ける車に乗って、およそ五分。たどり着いたのは、保存地区にあるひと際豪華な日本家屋だった。


「……すごい」


「ご先祖様が残してくださったおかげですわ。さあ、どうぞ中へ」


 スーツの男性が入り口の引き戸を引いてくれる。中へ入ると、昨日の竹の里より、更に年期の入った家屋が僕たちを出迎える。

 香さんに先導され、畳の間に通された僕たちは、そこで。


「……誰だ」


 和装を身に纏った、大きな体躯の男性が縁側に座っているのを見た。


「初めまして。私、東西旅行の朝霧雛子と申します」


「あ、初めまして。東西旅行の小鳥遊雲雀、と申します」


 香さんの紹介に乗っかる形で、各々自己紹介をした僕たち。だが。


「ふん。文章屋の連中か」


「お父さん」


 縁側に座った男性の一言は、冷たいものだった。銀の髪に白の髭。こちらをちらりと見る顔は深く皺が刻まれており、威厳めいたものを感じる。

 そんな男性を咎めるような香さんの言葉に、男性は立ち上がった。


「まあ、座りなさい」


「……失礼します」


 畳の間に置かれた広い座卓を挟んで、男性と向かい合う形で座る。


「一ノ瀬昇(いちのせのぼる)と言う。東西旅行、ということは、君たちは……夕花の同僚か」


「はい。……夕花さんは、私の先輩です」


「なるほど。大学の時の悪友というのは、君たちでは無いのだな」


 悪友。……編集長のことだろうか。


「まったく。高校の時に家を飛び出し、なにをしているかと思えばマスコミだという。誘い込んだやつの顔でも見てみたいと思って五年程経つが、一向に顔を見せやしない」


「家を、飛び出したんですか?」


 香さんがお茶を運んでくる。大ぶりの湯飲みをぐっと掴んだ昇さんは、熱いお茶を意に介さずがぶりと飲むと、朝霧さんに言った。


「そうだ。一ノ瀬建設の跡取りたるアイツが、よりによって逃げ出しよった。私は好きなことやるんだ、とな。まったく嘆かわしい」


「……」


 朝霧さんと顔を見合わせる。そんな話、初めて聞いた。


「なんだ、夕花から聞いていないのか」


「……夕花さんとは、仕事の話ばかりでしたから」


「そうか。夕花は不愛想な娘だったからな。誰に似たのやら」


 何も言うまい。


「一ノ瀬建設といえば高島では知らぬもののない建設会社なのだが……」


「存じております」


「そうか。やはりな」


 朝霧さんの言葉に気分を良くしたように手で顔を仰ぐ昇さん。その笑顔は素直に嬉しそうに見える。してみると、そこまで悪い人ではないのかもしれない、と思った。


「夕花は一ノ瀬家唯一の子でな。昔から勉学に励むよう言ったものだ。お前が跡取りになるのだ、出来の悪い頭は許さんとな。そんな中、唯一娯楽として許したのが『本』だったのだが、その本のせいであんなことになるとは」


「あんなこと、ですか」


「高校の時、私は文章で生計を立てるのだ、などと言い出してな。それはもう、私と大喧嘩になったものだ。お前をここまで育ててきたのは誰だ、何のつもりだ。三日三晩怒鳴り散らし、結局夕花は家を飛び出した。その後の事は、私は知らん」


 いつの間にか自分の横に座っていた香さんを、ちらりと昇さんが見る。それで、一ノ瀬さんは香さんとだけ連絡を取っていたのかもしれない、と思った。


「次に家に戻ってきた時には、外も中も、ボロボロの体で戻ってきよった。……まったく、嘆かわしい」


 昇さんは目を伏せる。

 確か、鉄道に轢かれての轢死……だったか。電車事故での遺体は目も当てられないほどの損傷と聞く。昇さんの気持ちを思うと、僕も目を閉じざるを得ない。

 それにしても。そんな境遇の話、昨日聞いたような。


「朝霧さん……と言ったかしら」


「は、はい」


 香さんが口を開く。落ち着いた声色で呼びかけられた朝霧さんが慌ててそちらを向くと香さんは優しい笑顔で、こういった。


「夕花、言ってました。似たような境遇の後輩が出来た、って」


「私のこと、ですか?」


「ええ。やりたい事を選んで家を飛び出した人が、ここにもいたって。電話の向こうの夕花、嬉しそうでしたよ」


「えっ」


 朝霧さんの表情が、なんとも言えない顔になる。


「私には、そんなこと微塵も」


「うふふ。夕花は昔から不愛想な子でしたから。嬉しいことがあっても、悲しいことがあっても、ただ淡々としているだけ。ねえ、お父さん」


「まったくだ。末期のサイズ病に侵されていた時まで、何も言わなかったとは」


「……末期のサイズ病?」


 朝霧さんが慌てて立ち上がる。

 サイズ病というのは、確か、現代医学では不治の病とされている病気のことだ。普段人間を守るはずの免疫がある条件下において牙を剥き、宿主を襲う……とテレビで見たことがある。知らぬ間に体内で死神に蝕まれていくような病状の事から、死神の鎌……サイズ病、と命名されたとか。

 沈痛な面持ちで目を伏せる香さんと昇さんに、朝霧さんは取り乱したような声でいった。


「そんなの……聞いていないです」


「ああ、やっぱり。だって……誰にも言ってなかったのですから」


 香さんは静かに、続ける。


「鉄道事故の後、遺品を整理に夕花の家に行って、私たちも初めて知ったのです。夕花が重い病に侵されていること。もう余命幾ばくもなかったこと。……そんな時くらい、親を頼ってくれても良かったのに」


「朝霧さん!?」


 足腰が折れたように崩れ落ちる朝霧さんを、僕は慌てて抱きかかえる。僕の腕の中で朝霧さんは「ごめん……大丈夫」と青ざめた顔で、言った。


「私が悪いんだ。私が……勘当のように追い出してしまったから」


 いたたまれない様子で顔を伏せる昇さんに、香さんが寄り添う。

 重い沈黙。小さくセミの鳴く声だけが部屋に響く。


「……良ければ」


 その沈黙を破ったのは、香さんだった。


「夕花が付けていた日記があります。それを、読んでくれませんか?」



 通されたのは、小さな部屋だった。

 部屋の中にあるものといえば、勉強机に、ベッド。壁面は本棚でびっしり埋め尽くされている。綺麗に整理された部屋はまるで生活感がなく、この部屋の主がずいぶん長い間帰ってきていないことを僕らに伝えていた。

 机の上に、A4版のノートが置かれている。味もそっけもない、キャンバスノート。表紙に記載された年月は、五年前の四月。


「私が入社した年だ」


「それが、夕花の日記です。……終わりましたら、声を掛けてください」


 そういって香さんは出ていった。


「……朝霧さん、大丈夫ですか」


 朝霧さんを椅子に座らせて、僕は横に立つ。


「うん。大丈夫。……でも、びっくりした。まさか、先輩がサイズ病だった、なんて」


「そんな素振りもなかったんですか?」


「まったく。まあ、普段から感情を表に出さないような人だったから、気付かなかっただけかもだけど……」


 どうして、気付かなかったんだろう。ぽつりと漏らした言葉に、何もいうことができない。

 朝霧さんが少しためらいがちにノートの表紙に手を掛ける。ふう、と息を大きく吸う音と共に開かれたノートには、丁寧に書かれた文字がびっしりと並んでいた。

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