第四章(6)
神辺近郊の海は、シーズンになれば海水浴場になる。
踊子海水浴場、その外れ。駐車場に車を止めた朝霧さんは無言で車を降りて、僕もその後を付いていく。昼間は人でごった返す砂浜も、この時間になれば人っ子一人いなかった。
砂浜へと降りる階段に、ぺたり、と朝霧さんは腰を下ろす。僕も横に、並んで座った。
「……ごめんね」
潮騒の音だけが聞こえる。何を話そうか悩んでいた僕より先に、朝霧さんが口を開いた。
「大丈夫、ですか」
「……うん。もう平気」
その言葉が嘘か本当かは分からなかったけれど、震えていた朝霧さんの声は、いつものものに戻っている。それでも、先ほどまでの様子はただごとでは無かったように見えた。
その理由を聞いて、いいものか。迷っていると、朝霧さんが口を開いた。
「小鳥遊くんは、どうしても訊きたかったのに訊けなかったこと、ある?」
「どうしても聞きたかったのに、聞けなかったこと、ですか」
唐突な質問だ。なにかあるだろうか。
「高校生の頃、告白した女の子に『返事は後で』と言われて、それっきりだったこと、とか……」
「なにそれ、面白いじゃん」
暗がりなので朝霧さんの顔は見辛いけど、くすり、と笑う声が聞こえて安心する。
「私もね、あるよ。もう居なくなってしまった人に、訊きたいことがあるんだ」
「訊きたいこと、ですか」
「うん。『どうして私の文章を、盗ったんですか』って」
「……朝霧さんの文章を、盗った?」
朝霧さんは僕の問いに何もいわず、ただ無言で海を見ている。思いもよらない言葉に思考が固まってしまった僕は、それでもなんとか口を開く。
「……一ノ瀬さん、ですか」
思いついた名前を呟いたところで、朝霧さんはようやく口を開いた。
「東西旅行の求人サイトにある文章、覚えてる?」
「『旅行に行くということは、自分の明日を探しに行くこと』っていう文章、ですか」
「旅行に行くということは、自分の明日を探しに行くことだと思ってます! ってやつね」
朝霧さんは淡々と諳んじてみせた。
「あの求人サイト、作ったのは先輩なの。私は一切関わってなかったんだけど、後から見てびっくりしたの覚えてる。あのフレーズ、私がどこかの記事で使ったものだったから」
「そう、だったんですか?」
てっきり朝霧さんが自分で掲げた文言だと思っていた。
「ちゃんと説明すると、後半の『ぜひわが社で、誰かの明日、そして貴方の明日も作ってみませんか?』ってフレーズは先輩が足したものだったけど……。あれもすぐバレないように、誤魔化しのために足したんじゃないか、って」
「……知りませんでした」
ふふ、と朝霧さんは笑う。それはいつもと違う自虐的な笑い声に見えて、なんだか胸が痛くなる。
「先輩にどんなつもりがあったかは知らないけれど。あのサイトを見たとき、すごく悲しかったのを覚えてる。私の文章を『下手くそ』って一蹴したくせに、私の文章を勝手に自分の文章のように見せたこと。それを私に黙っていたこと。どういうつもりですか、と取材から帰ってきた時には訊くつもりだった。でも、永遠に訊くことはできなかった」
『もう、亡くなってから四年経つのか』
夜凪さんがそんなことを言っていたのを思い出す。
「亡くなった、と聞きました」
「怜ちゃんかな。そう、先輩は取材の途中、事故で命を落とした。今通り過ぎた駅で、ね」
「……」
右を見ると、その駅の明かりがよく見える。小さな駅で、各駅停車の電車しか止まらない。僕もあまり降りた覚えがないけれど、駅の存在だけは知っていた。
「人身事故だって聞いたの。電車に跳ねられたって」
取材の帰り道、電車を待っていた一ノ瀬さんは、とある理由でホームから落ちた。
折悪く特急列車が通過する時で、退避する時間もなかった一ノ瀬さんは、そのまま電車に轢かれてしまった。
「先輩がホームから落ちた理由、なんだと思う?」
まさか訊かれるなんて思っていなかったから、頭が回らない。
人間がホームから落ちる理由……か。
「誰かを庇った、とか」
「……子供をね、庇ったんだって」
なんといったらいいか分からず、海を眺めることしかできない。
「その家族がね、後で東西旅行に来たの。お母さんと兄弟でお出かけしてたんだって。それで、弟ばっかりお母さんが構うものだから、スネたお兄ちゃんがお母さんと言い合っているうちに」
『それに……ああいう家族、放っておけなくて、ね』
ポートランドで花さんと翼を見つめる朝霧さんが、そんなことを言っていたのを思い出す。
「お母さんが泣きながら謝っていたのを、今でも思い出すな。編集長が話を聞いて、私は少し離れたところでそれを見ながら、ずっと思ってた。どうして、私が訊きたいことがあるその日に限って、こんなことになっちゃったんですか、先輩って」
ホント最低だよね、人が死んでるのに、と小さな声が聞こえる。
「以来、私はなんだか電車に乗れなくなっちゃった。乗ると先輩のことを思い出して、どうしてもつらい気持ちになっちゃうから。でもどうしても、ずっと車で取材できるわけじゃないし。だからリハビリに、と思って、最近は電車に乗るようにしてみてたんだ」
「ポートランドの時も、電車でしたもんね」
「そうそう。あじさい畑の時も、レンタカーがいっぱいで電車で行ったんだけど、その時もつらい気持ちになる事はなかった。だからもう、克服できたんだと思っていたのに」
朝霧さんが右を向く。視線の先には、駅の明かり。
「そもそもホームが細い駅でね。元から危ない、といわれていた駅ではあったんだ。一ノ瀬先輩が転落したのも、足を踏み外した子供を助けようとしたから、らしいし」
そうか。朝霧さんの様子がおかしくなったのは、あの駅を見たからか……。
「全然克服できてなかった。まさか駅を見るだけで気分が悪くなっちゃうなんてね。私はその場に居合わせたわけでもないのに」
海風が一陣吹き抜ける。少ししょっぱい匂いは、涙の匂いに似ていた。
「理由が訊けないのなら、忘れられればと思っていた。でも、忘れられないの。あの求人サイトの文言だって、怜ちゃんにいえば消せるのに……消せないのは、なんでなんだろう」
地面に突いた僕の手を、柔らかいものがきゅっと掴む。
「……ねえ、私は先輩のことを忘れたいのかな。それとも忘れたくないのかな?」
それは僕に尋ねたのか。あるいは誰でもいいから答えてくれ、という朝霧さんの気持ちだったのか。握られた手はゆっくりと離れ、朝霧さんは溜息を吐く。
「ごめんね、落ち着いた。帰ろうか、小鳥遊くん」
僕の返事を待たず、朝霧さんがゆらりと立ち上がる。先に車に向かうその小さな背を見て、僕は夜凪さんの言葉を思い出していた。
「朝霧を支えてやってくれ……か」
支える、なんて大層なことができるかはわからない。
それでも、あんな朝霧さんの自虐的な笑いを聞くことはもう経験したくない。
……それは、僕なりの決心だった。
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