第四章(3)
それから数時間、夜凪さんは片時も手を止めずにキーボードを叩き続けている。時計の針はすでに十八時を回っている。窓の外は、もう真っ暗だった。
「怜ちゃん、少し休んだ方が」
「いい。間に合わない」
「……もう」
朝霧さんの嘆息が聞こえる。この会話も、もう三回目くらいだろうか。
「せめて水分は飲んで。脱水症状で倒れちゃうから」
昼に大量のペットボトルを買っていたのは正解だった。冷蔵庫から取り出したスポドリを、夜凪さんの机に置く。
「置いときますね」
「ありがと」
携帯のアラームが鳴る。あっ、と声を上げた朝霧さんは、僕にいった。
「ごめん、今日用事があって……先に帰るね」
「ああ、はい。大丈夫です。自分はもう少し原稿進めて帰るので」
朝霧さんはどこかもどかしそうな顔をしている。夜凪さんが必死に仕事を進めているのに、自分は手伝えないどころか帰らなければならない……それを不甲斐なく思っているのかもしれない。
「怜ちゃんも……本当に無理しないでね。もし遅れそうなら電話ちょうだい? 私から先方にも謝るなり、交渉したりするから」
「ありがと」
朝霧さんがすっ、と僕に顔を寄せる。
「怜ちゃん、無理しないように見ていてもらえるかしら」
「大丈夫です。僕もそのつもりだったので」
僕もそのつもりだった。ごめんね、という声に小さく頷く。
「じゃあ」
編集部から出るまで、朝霧さんは心配そうにこちらを見ている。早く行ってください、という思いをこめて頭を下げると、それでようやく出ていった。
「小鳥遊、あんたは帰らないの」
「僕はもう少しやっていきます」
「そ」
次に進める予定だった原稿を書きはじめる。正直なところ、書く時間はいくらあってもいい。
それからまた二時間くらいは経っただろうか。時計はもう、十時を回っている。
「……小鳥遊、もう仕事、終わってるでしょ」
「……」
バレていたらしい。
勢いよく「さあ、先の仕事も片付けてしまうぞ!」と思ったのもつかの間のこと。集中の糸がはじけ飛んだ音がして、それからはまったく集中できなくなってしまった。
「終わったら帰りなよ。まだ週は長いぞ」
「コーヒー。飲んだら帰ります」
返す言葉が思い浮かばず、それだけ言って外へ出る。
夜凪さんは先輩とはいえ、同僚だ。その同僚が窮地に立たされているのに、自分では何もできないのが悔しい。
朝霧さんは、僕より感性豊かな文章を書く。
夜凪さんは、僕には出来ない仕事をする。
自分は……なにが出来るだろう。
「あー……」
ダメだ。自分を卑下するのはやめようと思うのだけれど、こういうことがあると自分の力の無さを実感してしまう。もし今後ろを通る人がいたら、フロアの隅に置かれたコーヒーディスペンサ―に向かって語りかけている人のように見えただろう。
アイスコーヒーを二人分作って、編集部に持っていく。相変わらず、夜凪さんはとんでもない速度でキーボードを叩いていた。
「はい、夜凪さん」
机の端に、邪魔にならないようにコーヒーを置く。こくり、と首だけ動かした夜凪さんは、モニターから目を離さない。
自分用に作ったコーヒーを一口飲んだ時、ふと夜凪さんが言った。
「ありがとう」
「……え?」
「気を遣ってくれてるの。わかってる」
「……いえ、そんなことは……」
上手い言葉が思い浮かばず、コップの中の漆黒の液体に目を落とす。液体に反射する自分の顔は、思いのほか困った顔をしていた。
タン、と軽快な音と共に、数時間鳴り続けたキーボードの音がようやく止まった。
「終わった」
「!? マジっすか!?」
「嘘ついてどうするのよ。『本気を出した火事場の私を舐めるな』ってね」
『魔神咆哮ギアブレイド』のセリフである。火事場に追い込まれる前に本気を出せ、と視聴者から言われる迷台詞だ。
「後は編集長からチェックもらって、OKがでればアップするだけ。……とはいえ、
流石に疲れたわね」
仕事中はいつも顔色一つ変えることのない夜凪さんだが、流石に疲れの色が見えている。
「……本当に、お疲れ様でした」
「ありがとう。パソコンが壊れなければ、こんなことはなかったのにね。SSDが壊れるなんて流石に想像してなかったわ。暑さのせいかしら」
まあ、犯人はどうでもいいけれど。コーヒーをがぶりと飲みながら、夜凪さんが呟く。
「小鳥遊もお疲れさま」
「いえ……まったく役に立てないのに、気になっちゃって。お邪魔じゃなかったですか」
「……役に立たない、かぁ」
ぎぃ、とオフィスチェアが揺れる音がする。
「難しいよな。私も入社したころ、感じたことあったよ。それ」
「夜凪さんが役に立たないって思ったこと、あったんですか?」
「そりゃあるさ。そもそも東西旅行は旅行メディアだ。私みたいに取材もいかなければ、文章を書くわけでもない人間が本来働いているような場所じゃない。東西旅行の立ち上げは前任者がずっとプログラムを書いていたんだが、だんだん仕事が忙しくなって、ライター業務に専念しなければいけなくなったから雇われたんだ、私は」
前任者。
「一ノ瀬先輩、ですか」
「そうか、小鳥遊は一ノ瀬先輩の名前を知っていたよな。朝霧から聞いたか? ……いや、アイツはあまり、一ノ瀬先輩の話はしたがらないだろうから、編集長か?」
自己解決されると少し困る。「そうなんですか」と尋ねると、夜凪さんははぁ、と溜息を吐きながら答えてくれた。
「仲が悪かったんだ、一ノ瀬先輩と朝霧は」
「なんでも細かい仕事ばかり押し付けられて、取材に連れて行ってもらえなかったとか。朝霧さんから、聞きました」
「驚いたな、本当に朝霧から聞いたのか。朝霧が一ノ瀬先輩の話をするなんて、お前よっぽど朝霧に信用されてるんだな」
「……そうなんでしょうか」
思わぬ形で褒められて嬉しいが、今は一ノ瀬さんの話である。
「朝霧さんの原稿……その、捨てられたとか」
ああ、と小さく漏らす声が聞こえた。オフィスチェアをくるりと回し、僕から視線を外す。
「……いつもより納期がタイトな記事があったんだが、先方の要求してくる数がとにかく多くてな。それこそ昼夜問わず朝霧も、一ノ瀬先輩もキーボードを叩いていたのを覚えている。ところが数が多くて一ノ瀬先輩の気が立っていたのか、朝霧がチェックの為に先輩に提出したレポートを、先輩が読むなり『これは使えない』と怒って捨ててしまったことがあったんだ」
私は私の文章に誇りを持っている。朝霧さんがいつかそう話していたのを思い出す。
そんな人が自分の原稿を捨てられたとしたら……なんて考えるだろう。
「辛かったと思う。あいつの打ちひしがれた顔は今でも忘れられない。それでも必死に書き直した朝霧の根性はすごいと思う。私なら……折れてるな」
頷かざるを得ない。僕にその根性はあるだろうか、なんて思ってしまう。
「朝霧はいつもニコニコしているだろう? それは昔からそうだった。だからだろうな、その時の悲痛な表情は忘れられない」
それに、と嘆息しながら夜凪さんは続けた。
「そんな朝霧と、一ノ瀬先輩の力になれないのはもどかしかったよ。その時はもうWEBページに文章を乗せてしまえば完成の状態だったからな。私はなにも出来ず、ただただ無為に時間を潰したのを覚えている」
「それが、夜凪さんの『役に立たない』と思ったこと、ですか」
「まあ、な。それで私も多少は……文章の勉強をしようと思って、一ノ瀬先輩に教えを乞いに行ったのを覚えてる。でもな、その時一ノ瀬先輩にいわれたよ。『自分のスタイルで出来ることを、めいっぱいやればいい。自分のスタイルと違うものを追い求めても、よい結果は産まれないからな。夜凪は夜凪のスタイルで、やるべきことを果たせばいいんだ』とね」
「……?」
いい話なのだが……僕の頭に疑問符が浮かぶ。夜凪さんをそんな言葉で励ました話と、これは使えない、と原稿をゴミ箱に捨てた、という話がうまく像を結ばない。
「夜凪さんには、優しかったんですか?」
「そうだな。一ノ瀬先輩は、何故か朝霧にだけ厳しかった。それでも朝霧は必死に食いついていたのだが」
ことん、と紙コップを置く音が、静まり返った室内に響く。
「ここから先は私が話すべきじゃないな。まあ……機会があったら、朝霧にでも聞いてくれ」
「ありがとうございます。昔話をしてもらって」
「構わない。コーヒーの礼だ。……っと」
モニターを見ながらなにかを打ち込んでいる。ふう、と少しだけ安堵したような夜凪さんは、僕に向かっていった。
「編集長からOKが出た。帰ろうか、小鳥遊」
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