第三章(6)
キンギョソウのエリアを抜けると、『クレオメ』という、紫と白の花を咲かせる花のエリアに入る。
今度は花に迷惑を掛けないように、写真を数枚。そんな僕の横で朝霧さんは、近くにあった看板を熱心に見つめている。そこにはクレオメについての情報がまとめられていて、それを手元でメモしているようだった。
そうか。そういうところもメモするんだな……。内心で呟き、朝霧さんの隣に立って、僕も看板の内容を書き留めていく。そんな僕を朝霧さんは少し怪訝そうに見ていたけれど、朝霧さんがやってるんだ、上司がやっている事は真似しなければ。
看板に記載されていた文面を書き終える。よし、これでメモは万全だ。
「それにしても、こういうのってネットの情報とかと、違うんですか?」
ふと気になって、そんなことを尋ねた僕に、朝霧さんは思案しながらいった。
「こういう看板って、実際に花の係をしている方が書いてたりするんだよね。ネットの知識も便利だけど、そういう人が書いた解説は『生きた知識』であることが多いんだ。だから私は積極的に、こういうのはメモしてるかな」
「なるほど……」
少し浅はかなことを言ったかもしれない。
気落ちしたのが伝わってしまったのか、朝霧さんはくすりと笑う。
「まあ、別にメモしたところで記事に使うかは別問題だけどさ。こういう好奇心って大事にしたいじゃん?」
「好奇心、ですか」
「そ。知らないことを知りに行く。見たことのない景色を見に行く。旅って好奇心を刺激する場だと思うんだよね。もちろん私たちは旅といっても仕事だけど、だからと言って楽しんではいけない、という訳でもない。面接のときにも言ったけど……人生は、楽しむためにあると思うから。
むしろ私は好奇心でもないのに、看板の内容を全部メモしちゃった小鳥遊くんにびっくりするよ。なんでこの看板、全部メモしたの?」
「それは……朝霧さんが、メモしていたから」
「それは、私が上司だから? 上司がやることは真似しなきゃ、って思った?」
言葉だけならなんだか詰問されているようだけれど、朝霧さんは僕の目をじっと見て微笑んでいる。僕はその笑顔に耐え切れず、視線を反らしてしまった。
「図星だ。小鳥遊くん、落ち込むとすぐ顔に出るから」
「……すみません」
話しながら歩いていると、小高い丘に出る。
ここはピクニックができるエリアになっているらしく、レジャーシートを広げている団体が何組か見える。朝霧さんも鞄から小さく折りたたまれたレジャーシートを取り出しながら、言った。
「立ち話もなんだし、ご飯にしようか。お腹空いたでしょ」
オレンジのピクニックシートが広げられて、僕らはその上に座る。
「ごめんね、ちょっと小さかったかも」
朝霧さんが笑うとおり、確かに少し狭い。少し肩を動かすと朝霧さんに触ってしまいそうで、なんとなくドキドキする。
「じゃあこれ、小鳥遊くんの分ね」
「え、別々に作ってきてくれたんですか」
「まあね。小鳥遊くんは男の子だし、お肉多めのお弁当にしてみました」
そう言われて手渡されたのは、大きなアルミのお弁当箱。フタを開いてみると、お肉多めのとおり、弁当箱の半分は唐揚げとタコさんウィンナー(青)、そしてミートボールに埋め尽くされている。残り半分は、個包装された味海苔がそのまま乗ったご飯。
「すみません、ありがとうございます」
「ううん。どうせ一人作るも二人作るも一緒だからね」
お茶のペットボトルを僕に渡しながら、朝霧さんは笑ってみせる。
「よし、じゃ食べようか! いただきます!」
「……いただきます!」
唐揚げにかぶりつく。肉汁が口の中であふれ出して、とても美味しい。
「唐揚げ、おいしい? 少し焦がしちゃったかもだけど」
「いや! 大丈夫です、焦げの味も手作り! って感じがして、最高です!」
青いタコさんウィンナーも色さえ気にしなければとても美味しく、思わずご飯を掻きこみたくなってしまう。
ご飯に箸を伸ばすため、個包装された味海苔をどかしてみると、そこには。
「お、気付いたかい」
「……これは、人の顔、ですか?」
切られた海苔で、口をお椀の形にして、にっこり笑う人の顔が形どられている。
あまりにいい笑顔なので、朝霧さんかと思ったが……。
「うん。これね、小鳥遊くんの顔」
「僕、ですか」
……自分の顔をあまりじっと見たことはないので、そう言われてもそうなのかな、と思うことしかできなかった。特に、こんな満面の笑み、浮かべたことあったかな。
「うん。ま、あんまり似せることはできなかったけど……でも、いい笑顔でしょ」
「こんなに笑ってます、僕?」
うーん、と朝霧さんは手を口に当てて、考えるようなポーズを取る。
「むしろ、ここ最近笑ってなかったから……かな」
「ここ最近、笑ってなかった……?」
「あ、やっぱり自覚ないんだ。そうだよ、ここ二週間、なんかずっと必死な顔してさ。仕事熱心なのはいいことだけど、少し心配してました、私は」
くひひ、と笑ってみせる朝霧さんの声に、僕はお弁当に描かれた自分の顔を見る。
二週間前……コンクールの記事を見たとき、か。
ご飯中に仕事の話をしてごめんね、といい、朝霧さんは続ける。
「さっきの看板のこと。私は仕事とはいえ、せっかく来た花畑に咲いていたクレオメのことを、少しでも知りたかったからメモをした。なぜならそれが、私の楽しい、だから」
「私の、楽しい……」
「今日もさ、不思議だったんだ。ジェットコースタ―に自分で乗り込みに行ったり、私の横でしゃかりきになってメモ取ったり、いい写真を撮ろうとして花壇に突っ込みそうになったり。小鳥遊くん真面目だけど、今日はなんか『やらなきゃいけない!』みたいな雰囲気出てたからさ、どうしたのかなって」
どうやらバレていたらしい。ぽりぽりと頭を掻く僕に、朝霧さんは笑う。
「……すみません」
「謝らなくてもいいよ。大丈夫」
隠しても無駄のようだ。一つ息を吸い込む。
「……足を引っ張らないように、って思ってたんです」
「ほう?」
「ここ最近、実は記事を書くことに詰まっていて。それで、勉強に……と思って、朝霧さんの記事を見ていたんです。そしたら、僕には書けない視点で、僕より上手な文章で書かれていて、とてもじゃないけど敵わないな、と思って。そんな朝霧さんが、わざわざ取材に連れていってくれるのだから、足を引っ張らないように、って」
朝霧さんの方をちらりと見る。
「あっ」
その頬は、ぷくっ、と膨らんでいた。
「なるほどなるほど。小鳥遊くんは『未熟者めが……。仕方ない、取材に連れて行ってやろう。しかし足を引っ張るんじゃないぞ』って私が思ってると考えてた、ってことか」
「いや、そこまでは……」
「足を引っ張るか。そっかそっか」
拗ねたような声色に、しまった、と思う。朝霧さん、自分を卑下するような発言をすると、すぐこうなっちゃうからな……。
気まずさに唐揚げを噛み締めていると、やがて朝霧さんは、優しくいった。
「大丈夫だよ」
「大丈夫、ですか」
「うん。私はね、文章に上手い下手なんてない、と思ってる。旅行先で見た景色に、どんな感情を乗せるのか。どんなことを感じるのか。それは人それぞれだし、私には見えない景色だって、小鳥遊くんなら見えてるかもしれない。実際に私、入社試験で小鳥遊くんに文章、書いてもらわなかったでしょ?」
「……あ、そうだ。それ、気になっていたんです。どうして……」
僕を採用したんですか。そう朝霧さんに尋ねようとした、その時。
「……ん?」
空は晴れているのに、雨粒がぽつり、と頬に当たった気がした。
いや、気じゃない。さーっ! と音がしたと思ったら、大粒の雨が降り出す。
「わわわわわ!!」
「小鳥遊くん、あっちに屋根があるから、そこまで走りましょ」
朝霧さんが指さした方には、売店だろうか、小さな建物が見える。
「了解です。……まったく、こんな時に」
せっかく朝霧さんが話してくれている最中だったのに、と毒づき、お弁当箱に慌ててフタをして、ビニールシートを小脇に抱える。
「鞄、持ちます」
「ありがとう」
朝霧さんから鞄を受け取り、早くもぬかるみはじめた道を走る。慌てて駆け込んだ建物はやはり売店で、その軒先まで走るころには、すっかり濡れてしまった。
「狐の嫁入り、ってやつですかね」
「そうかも。すぐに止みそうだけどね」
空が晴れているのに、雨が降っているというのはやっぱり不思議なものだ。
「せっかく花畑に来れたのに、雨はツイてなかったね、小鳥遊くん」
僕から鞄を受け取りながら、朝霧さんは少し沈んだような顔。
「足元もぬかるんじゃったし、写真、撮りずらくなっちゃったね」
「確かに……」
頷きかけるが、なんだか自分の中でもやもやする。なんだろう。
「ツイてない……」
本当に?
ここ二週間、『綺麗な写真の撮り方』という本で、作例をずっと見ていたのを思い出す。そこには雨に濡れた花の写真、その作例も乗っていた。水滴がキラキラ光って綺麗だったような。
その写真、今なら取れるのでは?
「朝霧さん、ここで待っててください」
「え? どこいくの、小鳥遊くん」
朝霧さんの声を背中に聞きながら、広場を抜けて、クレオメの元まで戻る。
ぬかるむ足元に気をつけて、花を傷つけないように気をつけて。
「いい写真になってくれ……」
念じながら、ギリギリまでレンズを近づけて接写する。すかさずモニターで確認。……うん、いい写真が取れた!
「小鳥遊くん!」
遠くから朝霧さんの声が聞こえる。ぱたぱたと走り寄ってくるその姿に濡れてしまいますよ、と声を掛けようとして、雨はすでに止んでいることに気づいた。
「すみません、勝手に」
頭を下げようとする僕に、朝霧さんは右手を差し出す。
「?」
「カメラ。クレオメの写真、撮ったんでしょ?」
「あ、はい……」
渡したカメラのモニターを、朝霧さんと一緒に覗く。そこには、花弁の先端に大きな水滴がついて、まるで紫のガラス細工のような佇まいをした、クレオメの写真が撮れていた。
「ほら、せっかく雨が降ったので。確かに雨は嫌ですし、ぬかるむ足元は気持ち悪いですけど……だからこそ、撮れる写真もあるんじゃないか、と思って」
朝霧さんの手が、プルプルと震えている。
「……朝霧さん?」
独断で走り出して、怒らせてしまっただろうか。不安になる僕の目の前で、モニターに新しい水滴がつく。
……それは、朝霧さんの涙だった。
「朝霧さん!?」
え!? そんな勝手な真似しただろうか。これで泣かれるならポートランドで置き去りにされた僕は大号泣してもいいはずだ。しないけど。
「あ……。ごめん。いや、わかってるじゃん、と思って」
「わかってる……?」
朝霧さんの真意が読み取れず、思わず聞き返す。彼女はハンカチで涙を拭うと、
「小鳥遊くんを採用した理由。それは、起こったことを否定しない、ポジティブな視線を持っていること……だからよ」
「ポジティブな視線」
自覚が無かった。それが表情にも出ていたのだろうか、朝霧さんはやれやれ、といった顔。
「そう。面接の時に小鳥遊くんは、採用サイトの言葉に出会うために不採用になり続けていたんじゃないか……そう言ったの、覚えてる? その姿勢が私は好きだった。自分の置かれた立場、境遇……そういったものを否定しない、その姿勢がね」
ぬかるむ道をまた、広場に向けて歩き出す。
「……そう、だったんですね」
「なかなか身に付かない姿勢だと思う。どこで身に着けたの?」
……と言われても、困る。こつこつと自分の額を人差し指で叩いてみる。
「昔から、運が悪かったんですよね。遠足の日に遅刻したりとか、家族で食事の日にお腹を壊してしまったり、とか。ツイてないことが起こるたびにへこんでたんですけど、あんまり後ろ向きな事を考えるのは嫌なので……。出来るだけポジティブにいよう、って思うようになったんです。遠足で遅刻した日は母親に送ってもらえてラッキー、とか」
くすり、と朝霧さんが笑う。変でしたかね、と頭を掻く僕に、彼女はいった。
「面白いね。でも、すごいな、その考え方。それって、小鳥遊くんの視線が確立できているってことだと思うの。だからさ、気にしなくていいよ。私が小鳥遊くんに期待するのは、看板を必死にメモすることじゃない。小鳥遊くんなりの視線で、小鳥遊くんにしか見えない景色を書きとめてほしいんだ。だから大丈夫。小鳥遊くんの頑張りは、私がちゃんと見てるからさ」
くひひ、と笑う朝霧さんに僕は、頭を下げる。
「ありがとうございます。……励みになります」
「頭なんか下げなくていいよ。ごめんね、取材に行くといつも話し込んじゃってさ」
「いえ、そんな……。朝霧さんの期待の裏返しだと思ってます」
「ふふふ。期待してるよ、小鳥遊くん。あ、あと……」
言い出しにくそうだ。なにか失礼なことでも言っただろうか……と思っていると、朝霧さんは小さくはにかみながら、僕にいった。
「唐揚げ。焦げの味も手作り、っていってくれてありがとう。少し失敗しちゃって不安だったから……そういってくれて嬉しかった、です」
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