第三章(4)
それから二週間が経って、渡会島取材の当日。
朝の八時、神辺駅前。通勤通学途中の人達が行き交う駅のロータリーで、僕は朝霧さんを待っていた。
背中のリュックサックには前日、三度くらい確認した荷物が入っている。
「着替えよし、下着よし。取材用メモよし、筆記用具よし。万が一のスーツ、よし」
あまりに大声で指さし点呼していたものだから、母親が僕の部屋を覗いて「なにしてるの」と言ってきたくらいだ。
「声、大きいわよ。もう寝るんだけど」
「……あ、はい」
声が大きくなってしまったのは、半分は忘れ物を防止するためだったけれど、あと半分は……やっぱり緊張のせいだったのだと思う。
初めての遠出。
朝霧さんいわく、今回もいくつか記事を書かせてもらえるみたいだ。遠出になるため、いつも以上に取材漏れや写真の撮影ミスは避けなければならない。朝霧さんが一緒にいれば大丈夫だろうけど、だからといって荷物になることは避けたかった。
出来上がった荷物を買ったばかりのリュックサックに入れて、布団に入る。
「……よし」
布団の中で、小さく気合を入れる。
コンテストの記事を見てから、僕は家に帰れば朝霧さんの記事を読み、休みになれば写真を撮る練習をしていた。
朝霧さんも夜凪さんも、親切に教えてくれる。その期待を裏切ってはいけない。まずはこの二週間の成果を、朝霧さんに見せる。
そんな事を考えながら悶々としていたら、朝になっていた。
「……ふぅ」
まだ眠たい頭で眠気覚ましのコーヒーを飲みながら、車で来るという朝霧さんを待つ。
仕事とはいえ、旅行である。今から仕事に向かうであろう人達を眺めながら、今から始まる旅行へのワクワクに胸を躍らせるのは、少し悪趣味かもしれないが……楽しい。
コーヒータイムを楽しんでいると、ベンチに座った僕の前に小さな軽自動車が止まる。助手席側の窓が開くと、中から朝霧さんの声が聞こえた。
「お待たせ! さ、乗って乗って!」
「晴れて良かったねぇ」
「ですね」
見上げる空は青く、ちょうど梅雨の谷間の晴れを引いたようで、気分がいい。
今日は渡会島の観光スポットをいくつか回ることにしていたから、そういう意味でも晴れてくれて助かった。
今日の朝霧さんは半袖のポロシャツにグレーのパンツと、アグレッシブな服装をしている。それが朝霧さんの活動的な雰囲気とマッチして、似合っているなと思った。
「ん? どしたの?」
「いえ、特に」
見惚れていたのがバレたかもしれない。慌てて視線を逸らすと、朝霧さんはにやにやしながらも、それ以上はなにも言わなかった。
平日の早朝、通勤ルートから外れた道ということもあってか、車は快調に道路を飛ばしていく。しばらく走った頃合いで、朝霧さんが口を開いた。
「小鳥遊くんは渡会島、初めて?」
「……確か、家族旅行で一度だけ」
母親に連れられて、渡会島に遊びに行ったことがある気がする。確かどこを目的地にするでもなく、島を一周ドライブしたような。
幼いころ、母親と遊びに行く時は目的地があったわけではなく、ただドライブをすることが多かった気がする。
『母さんはね、運転が好きだから』
そんなことを言って笑っていたような記憶があるが、大人になってわかったことがある。父親を早くに亡くした我が家には、どこかに遊びに行くようなお金がなかったのだろう。
「家族旅行、か。羨ましいな」
「朝霧さんは家族旅行とか、したことないんですか?」
「……んー」
少し沈んだ声。一拍置いて帰ってきた言葉は「無い、かな」だった。
想像していた返事とまったく違う。なんと返したものかと考えていると、朝霧さんがおっ! と声を上げる。
「小鳥遊くん、そろそろ橋だよ」
朝霧さんの言うとおり、左手に大きな橋が見えてくる。日本でいちばん大きな吊り橋、神辺大橋だ。
神辺大橋が出来たのはもう十五年ほど前になる。日本でいちばん大きな吊り橋が高速道路として神辺に開通するというニュースは大々的に地元でも取り上げられ、僕も小学生のころ、開通前に橋の上を歩いた記憶がある。
「朝霧さんも歩いたこと、あります?」
たしか神辺周辺の学生はみんな歩かされたような記憶がある。そう思って朝霧さんに聞いてみると、朝霧さんはとても苦い顔でこう言った。
「高いところ……ダメで……」
「ああ……」
そういえばそうだった。
「でも行かなきゃいけない、っていうから、なんとか橋の上までは行ったのだけれど……。ほら、やっぱり吊り橋じゃん? 風が吹けば揺れるのよ。だから道路の手前でしゃがみこんで、ずっと泣いてたのを覚えてる……」
「あ、それは……良くない思い出をひっぱりだしてしまい、申し訳ない……」
「謝らないでいいのよ、小鳥遊くん」
そんな朝霧さんの笑顔は、心なしか引きつっている。……不安なものが僕の背筋を走る。
「……正直、今からだって怖いから」
海沿いの一般道から枝分かれした高速道路に入り、しばらくすると神辺大橋の入り口が見えてくる。入り口はトンネルになっていて、暗い道をオレンジのランプに照らされながら進むと、一気に視界が開けた。
「おお……」
左右に海。空は青く澄み渡っていて、視界の下方以外はすべて青に染まる。窓でも開けて海風を満喫したいところだったが……。
「……朝霧さん、大丈夫ですか」
「大丈夫。大丈夫」
それは僕に「大丈夫」と言っているよりも、自分に言い聞かせているようでなんだか怖い。顔も引きつっていて、常に僕がなにか話せば顔を見てくれる朝霧さんが、一切こちらに目線を動かそうとしない。たぶん、海を見るのも怖いのだろう。
あまり余計なことを言うのもやめておくか。僕がそう思った時。
「きゃあああああ!!!!!!!!」
突風、悲鳴、びっくりする僕。
朝霧さんがさっきいった通り、吊り橋なので風が吹けば揺れる。しかもここは比較的激しい海風の真っただ中、強い風が吹けば車の中でもはっきり揺れたとわかるものなのだが。
「朝霧さん!?」
「いや! まだ大丈夫!!」
事件性の高めな悲鳴を上げながらも、ステアリングを掴んで放さないその姿勢。目を凝らし、前を見据えるその目は、困難から目を背けず歩き続ける挑戦者の証。
そんな朝霧さんの心も揺らすように、また風が吹く。
「きゃーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!」
「朝霧さん!?」
それでも運転を辞めない。いや辞められても困るのだが。
「小鳥遊くん」
「なんでしょう」
朝霧さんの悲壮な顔が僕を見る。お願いだからステアリングはまっすぐ保ってほしい。
「一緒に死んだら一緒のお墓なのかな。一緒に死んでくれる?」
「そんなわけないでしょう! 嫌です!」
その発想はどこから来たのか。つくづく朝霧さんの発想力には舌を巻く。
でもまあ……今の言葉、こっそり録音しておいて聞き直したいくらいよかった。本当に。
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