第三章(1)

 六月がやってきた。

 東西旅行のビルは思った通り古く、天井に取り付けられたエアコンは大きな割に効きが悪い。朝霧さんは取材、夜凪さんはまだ出社していないのをいいことにカッターシャツを第二ボタンまで開けて、うちわで風を入れながら仕事していると、景気のいい鼻歌が聞こえてきた。


「おはよー。あれ、今日は小鳥遊くんだけ?」


「おはようございます、編集長」


「サブちゃんでいいって言ってるのに、もー」


 ぽてぽてと歩きながら僕に笑いかける浦島三郎……編集長。少し高めの声は柔和な印象を相手に与え、とても『編集長』という肩書の圧を感じさせない。

 普段はどこか取材に行っていることが多いらしく、HPを見るといつのまにやら記事がアップされている。朝霧さんも「編集長は大忙しですからね!」と笑うだけで、たまに編集部に来るレアキャラ扱いをされていた。


「少しは慣れましたか?」


「ええ。朝霧さんや夜凪さんに親切にしてもらってます」


「そうかそうか。お二人ともよく出来る人だからね。なかなか大変かもしれないけど、しっかり頑張るんだよ!」


 ポートランドでの初めての取材から、二か月が経つ。朝霧さんが教えてくれる仕事量になんとか振り落とされないようにしていたら、あっという間に時間が過ぎていった。


「振り落とされないようにするのが大変で」


 僕がそういうと、編集長がききき、と笑う。


「そうだよね。僕より全然あの二人は仕事ができるからさぁ。特に夜凪くんなんか、何言ってるか分からなくなる時あるもん」


「あはは……確かに」


「誰がなに言ってるか、ですって」


 会話をしていると、後ろから声が聞こえ、二人で固まる。振り向くと夜凪さんが泰然とした顔で、編集部に入ってくるのが見えた。


「あ、夜凪さん……おはようございます」


「夜凪さん、おはようなのね」


「おはようございます編集長。それに小鳥遊。朝霧は?」


「単独で取材です。この間取材に行ってたあじさい祭りに、追加で写真が欲しいとかで」


「なるほどね」


 どさり、と腰を下ろした夜凪さんがパソコンのスイッチを入れると、PCのファンが猛烈な唸り声を上げる。


「それじゃ、僕はまた出かけてくるのね」


「あ、はい。いってらっしゃい」


 編集長はデスクからクリアファイルに挟まった用紙を鞄にしまうと、ひらひらと手を振りながら出ていってしまった。


「編集長、そんなに取材が多いんですか?」


「ん? 小鳥遊、朝霧に聞いてないの?」


 なにをだろう。首を傾げる僕に、夜凪さんはキーボードを叩きながら続ける。


「編集長はね、旅行エッセイストの顔も持っているの。本名でエッセイ集を何冊か書いているから、本屋で探してみるといいわ」


「へぇ! すごいですね」


「それでうちの取材や原稿もこなしてるんだから、まあすごい人よ」


「へえ……」


 ちなみに夜凪さんのタイピング速度は、こうして雑談をしていても衰えることを知らない。恐ろしいものだ。


「で、小鳥遊は?」


「あー……。この間行った取材の原稿が、なかなか書きあがらなくて」


 今書いている原稿は、朝霧さんと村祭りに行った時のものだった。普通村祭りといえば夏が相場なのだが、五月にある珍しいお祭りとのことで、二人で出かけて行ったのである。まあ、書いているといっても、画面は真っ白なのだが。


「正直、まだ書くことに慣れてなくて。難しいなって思ってるんです」


「書くことに関して、私はアドバイスできないけど。書いた数でしか上手くならないって編集長は言ってたわ。とりあえず書くしかないんじゃない?」


「……とりあえず書く、か」


 とはいえ、まだとっかかりが掴めない。どんな文章を書けばいいのだろう。

 そうだ、朝霧さんの文章の雰囲気を真似ればいいんじゃないか。そう思って、東西旅行のホームページを開いてみる。

 最初に目に止まったのは……ポートランドでの、僕が書いた記事だった。


「トップヒット……マジですか」


 ぽつり、とこぼしてしまった言葉に、夜凪さんが反応する。


「ああ、それね。すごくアクセス数伸びてるの。まあ、旅行サイトに喧嘩した親子の仲直りストーリーを書く人はあまりいないだろうから、そうだと思うけどね」


 そう。しばらくして東西旅行にお礼の電話を掛けてきてくれた花さんに了承を取り、ボカす形ではあるが花さんと翼の話を書かせてもらったのだ。記事を書く時も楽しかったのを覚えている。


『空中ブランコで酔ってしまったことで、取材ができなくなるピンチ! ですがベンチに座って休息を取っていると、迷子の少年と出会ったのです』


『あの時、私が空中ブランコで酔っていなければ、こんな出会いもなかったと思います。体調を悪くしてしまいましたが、こんな偶然の出会いがあるなら、すべて良しですね!』


 ……こう、なんというか……下手だな……。


「これが人の目に触れていると考えると……恥ずかしいですね」


 すると、夜凪さんはどこか咎めるような口調で、僕にいった。


「それ。前にも朝霧に怒られてなかった?」


「あ……」


 そうか、そんな事もあったっけ。

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