第一章(4)

「……アニメの話をしていただけだったんですね」


「……はい」


 そう、アニメの話をしていただけなのにどうしてこうなってしまったのか。そして、赤面していた朝霧さんはなんだったのか。

 デスクに座り、朝霧さんは大きく息を吸い、吐いて、それから一言。


「それならよかったです」


「誤解が解けてこちらも良かったです」


「それで、小鳥遊。いつ朝まで語り合う?」


「朝まで!?」


「夜凪さん、ストップ」


 そうやってせっかく落ち着いたのに、モニターの向こうから夜凪さんがいらぬ事を言ってくるのを右手で制す。仲良くしてくれるのはいいんだけど、その度に朝霧さんが悲鳴を上げて顔が赤くなっていくのはよろしくない。いろいろと。


「……ふん」


 なぜか不満そうに鼻を鳴らした夜凪さんの顔は、またモニターの向こう側へと消えた。


「それで」


 朝霧さん、咳払い一つ。僕もつられて咳払い。


「明日なんですが、ここに行こうと思ってます」


 そうか、遊園地にいくって話をしていたんだ。朝霧さんのモニターを覗き込む。そこには、僕も知っている名前が表示されていた。


「神辺ポートランド、ですか」


「ええ。近場でちょうどいいかな、と思いまして」


 東西旅行のある神辺の街から、人口埋め立て地であるポートランドへ電車で十五分。その名の通り、ポートランドのど真ん中に建った遊園地が、神辺ポートランドである。

 ポートランドは神辺唯一の遊園地として有名だ。僕も子供の頃、母さんといっしょに遊びに行ったり、学校の遠足で遊びに行ったのを覚えている。大人になってからは行ったことがないけれど、まさか仕事で行くことになるなんて思ってもみなかった。


「ゴールデンウィークが近いですよね。今年のゴールデンウィークは飛び石連休で、有給とか使わないと三連休止まりが多いんじゃないかな、って思って。近場の遊園地をチョイスしてみました」


「なるほど、そういう取材意図が」


「ええ。せっかくなら、皆さんにタイムリーな話題を届けたいじゃないですか」


「タイムリー……ですか」


 今の話は大事な話かもしれない。慌ててメモ帳を開く僕に、朝霧さんはびっくりしたように笑う。


「そんな、慌ててメモ取らなくても」


「いや、そういう姿勢って大事だと思うんです。届けたい人に届けたい言葉をちゃんと届けるのって、大事じゃないですか」


 朝霧さんはなぜか小さく息を飲む。それがなにか不意を突かれたような表情だったので、なにか悪いことを言っただろうか、と少し不安になる。


「いい言葉ですね、それ。届けたい人に届けたい言葉を、か。私がメモしちゃおうかな」

「いや、そんな……」


 だけど帰ってきた言葉は、とてもポジティブな言葉だった。懐から水色のかわいらしい手帳を取り出して、ボールペンを走らせている。その姿が、なんだか照れくさい。


「ふふ。いいなと思ったものは書き留めておくと吉、ですよ」


「その言葉も、覚えておきます」


 顔を見合わせて笑い合う。

 ……なんだか、朝霧さんと心が通じ合ったみたいで嬉しかった。


「そんなわけで、明日は直行にしましょう。『ポートランド』駅前に朝九時集合で、よろしくお願いします」



 それからは、入社時の説明の続き、簡単な業務の案内、ビルの設備説明など、入社時の説明会のようなものを朝霧さんとこなしていると、あっという間に時間が経っていた。

 朝霧さんはなにを質問してもテキパキと答えてくれる。かわいい人だな、というのが面接時の印象だったけれど、今日一日一緒に仕事をこなしていると、すごく仕事ができる人なんじゃないか……僕の中で、そう思うようになっていた。

 負けないように、頑張らなければ。


「ん、定時ね。小鳥遊くん、上がっていいわよ」


 そんなことを考えていたら、一日が終わっていた。そう朝霧さんに言われて、あ、十八時なんだ、と思う始末。

 濃密な一日だったなと思いながら、机に広げたノートなどを片付けていると、朝霧さんも夜凪さんも帰る気配がない。


「お二人とも、上がらないんですか?」


「うん? ああ、怜ちゃんは夜番だし、私は書きかけの原稿を作らないとだから、少し残業かな」


 そうだよな、途中取材に出掛けていったり、忙しそうにしてたもんな。なんとなく申し訳なくなってくる。


「……すみません。研修に手間取らせてしまったせいで、朝霧さんの仕事をする時間を奪ってしまったんじゃ……」


 僕がそういうと、なぜか朝霧さんはぷくっ、と頬を膨らませた。


「小鳥遊くん。そんなこと思わなくていいのよ。私の今日の仕事は、小鳥遊くんの新人研修。私はそれを一生懸命頑張ったし、小鳥遊くんも一生懸命ついてきてくれた。私の原稿は確かに終わっていないけれど、二人とも頑張った、それでいいじゃない。謝ることなんて何も無いわ」


「……でも」


「小鳥遊。私、お前になんて言ったか覚えてるか」


 やりとりを聞いていた夜凪さんが、モニター越しに身を乗り出して僕にいった。


「新人は迷惑をかけてナンボ。朝霧のいうことを聞け、ってね。いいからさっさと帰んな、疲れてるでしょ、どうせ」


「……そう、ですね」


 夜凪さんは言うだけ言うと、するりとまたモニターの向こうに消える。ありがとうございます、と立ち上がった僕は、気になっていたことがあるのを思い出した。


「そういえば、まだ会ってない人、います?」


「ん? いや、これで東西旅行は全員だけど、どうして?」


「机が、一つ空いているので気になって」


 編集長の机を除いて、机は四つ。僕の隣に朝霧さん。正面に、夜凪さん。夜凪さんの隣の机が空いているのが、気になっていたのだった。


「あー……」

 朝霧さんは何故か困ったような顔をしている。


「そこはね、永久欠番」


「永久欠番、ですか?」


 代わりに答えてくれたのは夜凪さんだった。


「そ。ま、また機会があれば話すわ。今日はとっとと帰んなさい」


「あ、それもそうですね」


 確かに、他愛の無い話でこれ以上二人の時間を取るのはよくない。


「それじゃ、お先に失礼します」


「うん。ゆっくり休んでね。また、明日」


 笑顔で小さく手を振る朝霧さんに見送られて、僕は編集部を出る。


 外に出ると、もうすっかり日が落ちていた。暗闇を裂くような街路灯と車のヘッドライトに照らされながら、同じく帰宅途中のサラリーマンに紛れて帰路に着いたと

き、その時初めて「ああ、社会人になったんだな」と思った。


「……楽しかったな」


 その感想が正しいのか僕にはわからなかったけど、胸にあるのは充足感と、よい人達に恵まれてよかったな、という気持ちだった。

 また明日、か。就活の時には呪いのような言葉だったけれど、今は可能性の言葉に聞こえるのは、さすがにムシが良すぎるだろうか。

 とはいえ、明日からも頑張ろう。僕はまだ、働き始めたばかりなのだから。


「……よし」


 落ち着いたら喉が渇いてきた。手近な自販機でコーヒーを買って、喉に流し込む。

 それにしても。


「永久欠番、か」


 自分で呟いた言葉にふと、編集長の写真立てに写っていた女性を思い出す。


「あの人の机なのかな……」


 まあ、いずれ教えてもらえるだろう。

 母さんが「早く帰ってきなさい。今日はお寿司よ!」と言っていたのを思い出す。早く帰ろう。母さんに、今日の事を報告しないとな。

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