天与の見習いソーサラー
紫吹明
第1話 ピクシスへようこそ
ゴン、と頭に響いた衝撃で目が覚める。窓ガラスにぶつけたおでこをさすりながら、黒髪の少女――クインはぱちりと目を開けた。窓の外には見慣れたガードレールも道路標識もなく、建物の屋根が下を通り過ぎていく。
「ほ、ほんとに飛んでる……!」
思わずつぶやいたクインの声は誰もいないバスの中に虚しく響き、すぐエンジン音にかき消された。なんだか恥ずかしくなって運転席の方をそっと覗いてみるけれど、クインの座った席からは運転手の顔が見えない。諦めて前を向き直したクインは傍らのスーツケースを引き寄せ、外ポケットからひとつの封筒を取り出した。
「魔法学園……。この招待状も、ほんとに本物なんだ」
荷造りをして迎えのバスにも乗り込んで、今さら本気で疑っていたわけではない。それでもこうしてバスが空を飛んでいるのを見るとしみじみと実感してしまう。
(それにしても、どこから飛んでるんだろう……? 確か高速に乗ったのは覚えてるけど……)
ぼんやりと考えながら、クインは窓におでこを押し付けるようにして遥か下の街並みを眺める。流れていく景色に見覚えはなく、地名を書いた標識や看板の類も見当たらない。要するに、クインにはここがどこだかさっぱり分からなかった。
目印のない空の上を、バスは透明な道でも引かれているかのようにスルスルと進んでいく。しばらく風景を眺めていると、やがて焦げ茶色の建物が見えてきた。丈夫そうな壁や丸い塔、どっしりとした佇まいは映画で見た西洋の城に似ている。
バスは、その城のような建物に向かって一直線に進んでいく。
「もしかして、あれが学校……?」
クインのつぶやきに答える声はない。代わりのように、建物の窓から真っ白な人影が現れた。風が吹いているのだろう、長い金髪が波打つようになびいている。
バスはその人の元へと向かい、やがてわずかな振動を残して止まった。
「魔法学園ピクシス、到着でございます。なお、本機を構成する魔法は一分以内に終了いたします。お降りの方はお早めにお願いいたします」
「……は、嘘でしょ!?」
運転手がくぐもった声で告げた言葉に、クインは急いでスーツケースの取っ手をつかみ立ち上がる。車輪をガラガラ鳴らしながら通路を駆け抜け、運転手へのお礼もそこそこにバスを飛び出した。
ふわり、とあり得ないほど軽く身体が浮く。手にかかるスーツケースの重みもない。そのままクインの身体は数メートルほど空を飛び、長い金髪を揺らす女性の正面にそっと下ろされた。
「わ……」
(すごく、綺麗な人……)
間近で見た女性の姿に、クインは小さく息を呑む。女性はふわりと笑みを浮かべ、手にしていた杖を腰のベルトに挟むと優雅な仕草で一礼した。
「はじめまして、新入生の方。私はフェイ、このピクシスで校長を務めています」
「あ、はじめまして……! クインといいます」
挨拶を返そうにも、正しい所作など分からない。裏返った声で名前を告げ、深々と頭を下げながらクインは自分の心臓がドンドンと胸を叩く音を聞いた。手のひらにじっとりと汗が浮かんでくる。
そのまま固まっていると、柔らかな笑い声が耳を打った。
「顔を上げてください、クインさん」
言われるがままにそっと頭を持ち上げる。目の前には、女神像が命を得たものだと言われても信じてしまいそうな美しい微笑みがあった。
女神像――フェイ先生は、桃色の唇をそっと開いて言葉を紡ぐ。
「ピクシスへようこそ。私達はあなたを歓迎します」
それからフェイはくるりと半身を翻し、部屋の隅に視線を向けた。
「エージュ、クインさんを案内してあげて」
「はい」
つられて部屋の隅を見たクインの目に、灰色のコートに身を包んだ男性の姿が映る。エージュと呼ばれたその男性は、フェイに向かってそっけなく頷くとピクリとも笑わずクインを見下ろした。
「入学式は大広間で行う。ついて来なさい」
それだけ言うともう踵を返してさっさと歩き出してしまう。クインは慌ててフェイに一礼し、スーツケースの取っ手を握り直すと遠ざかっていく背中を足早に追いかけた。
石造りの通路はしんと冷え、高い天井に二人分の足音と車輪の音がこだまする。気を抜くと石壁に溶け込んでしまいそうな灰色の背中をクインは必死に追い続けた。
息が上がる。スーツケースが重い。勝手に空回る車輪とガラガラ鳴る音が煩わしい。
(ま、待って……!)
もうちょっとゆっくり。そうお願いしようと大きめに息を吸った、次の瞬間。
「あっ……!」
足がもつれ、ぐらりと世界が傾いた。スーツケースが手を離れ、けたたましい音を立てて倒れる。次は自分だ。クインは目を閉じ、身体を固くして痛みと衝撃に備える――
――けれど。訪れたのは、予想していたのとまるっきり違う感覚だった。
ぽふん、と空気のクッションが身体を受け止める。そのまま優しく転がされ、クインは慌てて目を開いた。床に手をついて身体を起こすと、いつの間にかすぐ目の前に見覚えのない男性が立っている。
きらめく瑠璃色の髪。凛とした佇まい。顔は目と鼻の部分を仮面に覆われ、真一文字に結ばれた口元だけが見えている。その口が動き、低く美しい声が響いた。
「立てるか」
「は、はい……!」
答えた声は上ずっていた。頬が勝手に熱くなる。クインは急いで立ち上がり、服のすそをパタパタ払った。
それから男性を見上げ、仮面のおそらく目だろうあたりを見つめて頭を下げる。
「ありがとうございました」
「……礼には及ばない。これが私の仕事だ」
返ってきたのは事務的としか言いようのないそんな言葉。それなのに頬の熱が引いてくれない。
少し歩みを遅めてくれたエージュ先生を追って大広間に向かいながら、クインの頭にはいつまでも仮面の男性の姿が残っていた。
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