第2話
「まぁ……何を一人でニヤニヤしていらっしゃるのかしら。いやらしい」
昨夜の
「わたくしが」
女がやって来て、茶を淹れ直す準備を始めた。
「生憎今日は機嫌がいいゆえお前の小賢しい軽口など、全く気に障らん」
「あら。貴方が
「なんの用だ。
「仕事をしながらニヤニヤしていたくらいには暇じゃないの。
ここは許都でも一番の茶と美人女将を出す茶屋ですわ。
私は貴方のことでしょっちゅう迷惑をかけられていますもの。
たまには美味しい茶くらい馳走してくださいませ。
男の甲斐性無しって呼びますわよ」
「黙れ女の凡愚が。私は集中したいからここへ来ているのだ。
いちいち城下に私が出て来るたびに邪魔しに現れるな」
司馬懿は立ち上がると、開いていた戸から庭先へ降りていった。
美しい庭園は紅葉に色付いている。
それを池のほとりから見上げている司馬懿に、張春華は怪訝な顔をした。
「……珍しいわね。なんだか本当に今日は御機嫌みたい。
貴方が庭の景色なんて愛でる気になるとは」
司馬懿は背を向けたままだ。
張春華はなにか、嫌な予感がした。……女の勘のようなものである。
「
うちで引き取らせて頂いてもよいでしょう?
貴方が涼州からお戻りになるまではそちらに行かせて差し上げたらどう? 可哀想ですわ。あの方も司馬家の一人なのに貴方の側に私用で縛り付けるなんて。
貴方がお命じになれば佳珠殿はうちの離れに移って頂きますわ。心配などしなくても苛めたりしませんわよ……私がそんなちっぽけな器量の女だとお思い?
貴方の留守中ちゃんと私達仲のいいお友達になっておきますわ。
いいでございましょう?
結婚後、正妻と側室が仲が良ければ、それは貴方がしっかり女を管理していらっしゃると見られますわよ」
「佳珠は私の留守中、
「またそんな……」
「私が押しつけたのではない。向こうからの御指名だ。
「武芸?」
「まあ女とはいえ、甄宓殿は近々皇后になられる。側に武芸の嗜みがある女がいることは、悪いことではない」
「武芸と
淹れた茶を堪能しながら、張春華が怪訝な顔をする。
「佳珠に教わりたいと乞われた」
「馬鹿なこと言わないで。あんな顔だけ良くて大人しげな女に……あなた
司馬懿は腕を組み、紅葉の木の下まで移動した。
張春華は立ち上がる。
「まさか……本気ではありませんわよね?」
「
「あの女が剣や弓を? ご冗談! 武器を嗜む女はそれが表面にもっと出ますわ。
あんな物も貴方に言えないような女が薙刀や弓を持ち、馬を乗り回すと?
あの女が武芸者を名乗れるなら、私なんて剣と弓の達人と名乗って許されますわ。
武器商の娘よ。一通りの武器は嗜みます。
貴方が、女が武具など持つのは小賢しいと小さい頃から言ってきたから貴方の前ではそういう姿を見せなかっただけですわ」
「『嗜む』、か」
司馬懿が鼻で嗤った。
衝撃を受ける。
幼馴染みの彼女には、それはよく見知った顔だった。
司馬懿が勝ち誇った時の顔である。
つまり陸佳珠が武芸を嗜むというのは本当なのだ。
しかも他人に指導出来るほどの腕前である。
ずっと謎だった司馬懿が陸佳珠の何が一体そんなに気に入ったのだという疑問がやっと解けた。
(これはさすがに私も想像出来ませんでしたわ。
この人ってばあの方のそういう意外性に参ってますのね?
きっと私と同じように大人しげなだけの女だと思って近付いていって、迂闊に触れたところを峰打ちでもされて心を奪われたのだわ。
昔からおかしなことに惹かれる人でしたもの)
しかし、これは本当に予想外のことだ。
佳珠は花も、茶も、楽も、書もしない。
だから何も出来ない女だと思い込んでいた。まさか武芸を嗜むとは。
武芸は確かに、自分にも盲点だったとそのことは張春華も反省した。
それからふと、思い出す。
(武芸……)
突然思い出したのだ。
「まさか……
サッと彼女の顔色が曇る。
別に特別欲しいと思っていたわけではないが、司馬懿が自分にやらずあの女にその剣をやったのかと思った途端、激しい嫉妬を覚えた。
あれは古代から宝剣と謳われたのだ。
多くの王の傍らを飾った剣なのである。
(【干将莫耶】は王者の剣。
『側室』の持つ剣ではないわ)
春華でさえそう思うのだから、それは周囲の人間もそう見るということだ。
一瞬そんなことになっていたら、あの女に馬乗りになって引っ叩いてでも剣を奪ってやろうと思ったが。
「
聞いて、密かに胸を撫で下ろす。同時にその安堵にすら、腸が煮えくり返る思いである。
この男は本当にどうしてこうも、忌々しいことばかりするのか。
「従軍している佳珠の弟にやった」
安堵も束の間、凍り付いた。
「弟? ですがまだ若く従軍経験もほとんどないと聞きましたわ」
「ないな。今度の
姉に似て剣の筋はいいと聞いた」
「あなたは……! そんな一兵卒のような若者にあの剣を?」
「私の側近を私がどう飾らせようと私の勝手だ」
何を思い出したのか、木に寄り掛かった司馬懿がまた小さく笑ったのが見えた。
弟にやったということは。
――それは、姉にやったというのも同然なのだ。
この男は知恵があるくせに何故、そんなことも分からないのか。
張春華は立ち上がり、庭先へと出て行った。
「仲達殿。……この際はっきりと尋ねますわ。
貴方もしや……陸佳珠を正妻になどと愚かなことを本気で考えていないでしょうね?」
「佳珠を正妻にするという、何がそんなに愚かなのだ?」
こちらを振り返りもせず司馬懿がはっきりと言って来て、張春華は衝撃を受けた。
「なにを馬鹿な! 冗談も大概になさって!
あの女は実家もなく、子も生めない女なのですわよ!
名門司馬家には、相応の家の女が嫁すべきと貴方も言って来たではありませんか!
あの女のどこが司馬家に、あなたの正妻に相応しい女なのです⁉」
「私が司馬家云々のことを言ったのは
つまり、曹丕殿下の信任を受けていなかった時。
殿下は近々王位に就かれる。そして私はその側近としてお側に侍ることを許された。
格というのなら曹丕殿下の側近であるという以上の格はない。
そうだろう。
よって私にもはや家の格を吟味して女を選ばなければならない道理はない。
確かに、安易で凡庸な家同士の結び付きは殿下の御迷惑になったり、火種を生みかねん。
それは忌むべきだが佳珠には当てはまらん。実家がそもそもないのだからな。
余計な家の柵みが全くない。これ以上の理想はあるまい。
「……悪い冗談ですわ……仲達殿……。
あなたってば本当に……悪いことばかりお考えになる……。
百歩譲って家のことはともかく、子供のことはどうなさるの」
「側室に生ませた子供を佳珠の子供とすれば何の問題もない。
私は司馬家の中でも元より異端だ。
これだけ兄弟がいれば、司馬家がそれで廃れるということはない。
私は司馬家の繁栄にはさして興味はない。昔から、今も、これからもだ。
私が興味あるのはただひたすら曹丕殿下のお力になり、
そしてそれが出来れば、殿下は私を信任して下さる。
そうすれば司馬家ではなく、司馬懿という名がそれだけで力を持つようになる。
例え子が生まれようが私は愚か者を後継にはしない。
子の中に私を納得させるような才を持つ子供が生まれなければ、養子すら得ようと考えていたくらいだ。
佳珠が生みの母である必要などない。
無論、これは王室である曹家とは事情の違うことではあるがな」
そこまで言った司馬懿に、張春華は全身が震えた。
怒りにである。
「私は、正妻になる女です!
側室などには絶対なりませんわ!」
噛み付くようにそう言い放つと、司馬懿がこちらを振り返った。
「……私もお前は正妻になるべき女であることは否定はせん」
やけに涼しい声で彼は言った。
張春華は年頃になって来てから、ずっと貴方の妻になると言って来たのに、一度として司馬懿に誉められたり、評価されたことがなかった。
初めて司馬懿がそんなことを言った。
だが……。
「だから嫁げばいい。お前を正妻にする程度の男の許にな。
お前の夫が司馬仲達である必要は全くない」
……残酷な男だ。
断り方などこの世に五万とある。
それなのに一番残酷に相手を傷つけられるものを選んで、斬りつけてくる。
「幾度も言ってきたことだが。
私はお前とは決して夫婦にはならん。
私が魏において果たす役目は、とてつもない集中力を要するものだ。
お前は私の癇に障る。
幼い頃からずっとそうだった。
会った時から、私はお前が私の妻にならないことを知っていた」
司馬懿は歩き出す。
「お前の才気を敬い、尊び、傅くような男の許に嫁げ。私がお前を敬うことは永遠にない」
「――――殺すわ!」
すれ違った司馬懿の背に、振り返って張春華は叫んだ。
「そんなことを本当にしたら、あなたの
部屋に上がって、司馬懿は振り返った。
「お前がか。やめておけ。返り討ちにされるぞ」
司馬懿は声を出して笑った。
「お前が例え百人になって束で斬り掛かってもあいつの首は取れん。
……ああ、それとも」
司馬懿が突然、長い袖を翻した。
その瞬間、
「!」
紅葉の葉が一斉に舞った。
大きな枝が張春華の足下に落下して突き立つ。
司馬懿が武器を振るう所を、彼女は初めて見た。
彼は剣や槍を使わない。子供の頃少し習っているところを見たことはあったが、下手だった。
しかし一人で不用心にふらつく男だったので、何かしらの武器は衣の下に仕込んでるのだろうとは思っていたが、振るう所を初めて見た。
……それを、自分に対して放ってくるのも。
これが頭上に落ちていたら、死んでいたかもしれない。
「私のものに手を出して、
私に殺されたいか?」
ばさり、と
彼は冷ややかな笑みと声で、嗤った。
「これ以上私を煩わせるな。」
笑みを止め、冷たく言い放つと、司馬懿は去って行った。
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