終わる世界の『続』⑥――青


 一時間ほど移動を続けたものの、最初に見た標識以降それらしきものに一切巡り合わない。この辺りは隕石の被害が大きかったのかもしれないが、標識の折れ残った柱部分すら見当たらないのは少し不思議だ。それに信濃川の凍った水面が一向に見えてこない。てっきり近づいたり離れたりを繰り返しながら並走するものとばかり思っていた。もしかしてこの道は新潟に向かう道ではないのだろうか――?

 ハンドルを握り締めたまま考えこんでいると、雪が強くなってきた。まだ先ほどの民家に戻るほうが近いが、このまま強行突破することにする。強くなってきているといっても朝方の猛吹雪ほどではないし、雪が深く積もってしまったら身動きが取れなくなってしまう。そうなる前に少しでも距離を稼がないと。これ以上雪が強くなるようなら、戻るのではなく一旦近場にある民家に逃げこむのも手だ。

 更にスピードを上げ、白と虹色の光の中を突き進む。辺りは一段と薄暗くなってきたものの、雪の降り方はまちまちだ。激しくなったかと思うと、突如小休止する。強風が吹いているワケでもないのに妙な天気だなと訝しんだ瞬間、いきなり前方の空間が強く輝き出した。びっくりして急停車し、ハンドルから身を乗り出す。

「なんだ?」

 一瞬天変地異かと思った。隕石が空からの異変なら、今回は地上の異変だ。地面からいくつもの柱のような光が上に向かって伸びている。まるで光が柱状に固まったみたいだ。

 それ以上はこの距離からでは判らない。しばらく観察してみたが動く素振りもないため、バイクを降りた。サイドカーを降りようとしているミィを制し、懐中電灯片手に近づいていく。

 進む内にすぐに気付いた。ただの木の幹だ。細胞内の紫心菌が寒さで硬化し、雪や氷同様に光を反射しているのだ。しかしなぜ、前方にこんなにたくさんの樹木が? 何気なく懐中電灯を上に振り向けたら、虹色のドームが頭上を覆い尽くしていた。前方だけじゃない。周囲がすべて木々に囲まれている。雪がたっぷり載った葉で遮られ、曇り空はほとんど見えなかった。

「なんだ、これ。なんで木なんか。真っ直ぐ道路を進んできたはずなのに……」

 木々がトリフィドのように自立歩行して取り囲んでくるところを想像して、一瞬狼狽えてしまった。ふらつくオレに、「蒼太」とミィの心配げな声がかかる。サイドカーの縁に足をかけて飛び降りようとしているミィを片手で制し、現状の原因を考えた。

 『真っ直ぐ道路を進んできた』。さっき口走ったこの言葉は単なる妄信などではない。雪で道路が覆われているから正確に道路上を走ってきたワケではないだろうが、標識に『直進』と書かれていたのだから、標識通り北東に進んでいれば大きく逸脱することはないはずだ。

 逸脱することがあるとすれば方位磁石が壊れているか、またしてもオレが方角の見方を誤ったかだが、何度も続けてそんなことが起こるだろうか。もしも方位磁石が壊れておらず、オレの見方も正しかったのだとしたら……。

 思い浮かんだ想像に、喉の奥から呻き声が漏れた。

 馬鹿だった。あまりにスケールがデカすぎて想像もしなかった。SFマニア失格だ。地軸がずれてしまってるんだ。恐らく月に隕石が衝突して、地球に対する潮汐力が変化した。方角が狂っているなら、方位磁石なんて意味がない。だから緑川たちは鉄塔を目印にし、方位磁石を用意しなかった。だからオレは迷い続けた。だから最初の標識からここまで、別の標識の残骸すら見当たらなかった。だからまっすぐ進んでいるつもりで、今こうして森に突っこんでしまったのだ。

 この木の量だとかなり森の奥にまで入りこんだはず。戻れるか? なんの目印もない状態で。――いや、バイクが通った跡! 雪で埋もれる前に引き返さないと!

 慌ててバイクに戻りかけると、メキメキと軋み音がした。ハッとして辺りを見回したら、サイドカー脇の木が大きくしなっている。

 勝手に身体が動いていた。声など上げる余裕もない。手から懐中電灯が離れ、飛び散る落ち葉と雪を虹色に照らすのが妙にスローモーションに目に映る。

 ――なぜ? 空中を跳びながら、自分でも自分の行動が判らない。ずっとお荷物だったはずだ。鬱陶しくて堪らなかったはずだ。いつかは自分の元から離れていくだけの、ただの脇役にすぎなかったはずだ。もう二度と、他人のせいで不幸になんかなりたくなかった。そのはずだっただろ?

 それなのに、どうしてオレはそこに自分の魂があるみたいに、必死に手を突き伸ばしているんだ。

 手袋越しの右手の平に確かに突き飛ばす感触を感じた。倒れこみそうになったところで、下から勢いよく何かに跳ね上げられて膝をつく。

 腹が焼けつきそうに熱い。手をやると、ぬるりと嫌な感触がした。それでも気になるのはミィのことだけだ。顔さえ上げられず、歪む視界の中、必死で眼球を動かす。声になっていない声で名を呼ぶ。咳きこむと血の味がした。視界の端に赤い長靴の爪先が見えた。

「またたすけられちゃった」

 目の前に立っているミィは、ふらついているものの怪我をしている様子はない。いつもの頼りない姿さえ、そこにはなかった。

「こんどこそ、ミィのばん……!」

 潤んだ赤い瞳は強い決意を宿して炎のように輝き、手袋を外した真っ白な手は迷いなくオレに向かって伸びてくる。

 とめようとしたが、声が出ない。手を持ち上げようとしても、指先がわずかに痙攣するだけだ。その間に、ミィの小さな手がオレの剥き出しになった傷口に触れた。最初に感じたのは衝撃だった。それはあっという間に全身の血液を沸騰させる。だがそんなことに構っている暇などない。

「やめ、ろ……ッ!」

 喉からひび割れた声が迸る。ギクシャクと手が動いた。ミィを押しとどめようとして、そのまま空中で静止する。ミィの手が、その桜色の小さな手の平が、オレの腹に触れている。触れる側からぬるぬると滑り、紫色の光る粘液へと変わっていってしまう。

「あ、あ……な、にを……?」

 ただただ茫然と眺めることしかできない。ミィが身体を屈めた。あろうことか、今度はオレの腹に自らの額を摺り寄せる。ミィとオレの細胞が溶け合い、ズルッと抜け落ちた白い毛は紫の粘液に絡まる。

 ――こんな結末あんまりじゃないか。駄作もいいとこだ。神様さくしゃは何を考えてるんだ。

 あまりの光景に現実感が薄れていく。自分を俯瞰している自分を感じる。

 赤い眼には涙が溢れている。泣いているように見えるがそうじゃない。ただの生理現象で過剰分泌しているだけだ。涙ははっきりとした紫色の光を徐々に弱めつつ、白い毛の上を転がり落ちていく。

「あ……あ……?」

 目の前に広がる光景が信じられない。現実だなんて思えない。頭の中は真っ白で――そうだ、オレは幻覚を見ているんだ。なのに身体中にエネルギーが満ちていくのを感じる。熱く滾って、全身に血液が運ばれていく。

 小さな白い頭がふらついた。ぽすりとオレの腹に投げ出された身体を慌てて持ち上げる。持ち上げたのだ。持ち上げられてしまった、腕の力だけで軽々と。

 驚きに見開いた目が、現在ではなく過去の光景をフラッシュバックで映していく。

 ――いつでも微笑んでいるような口元。嬉しいとき、悲しいとき、怒ったとき、感情ごとに自在に動く長い毛。筒状の赤いシリコンカバーをつけていても、足音ひとつ立てないしなやかな動作。どこでもすぐに寝転んで、汚れてしまう白い毛並み。

 割りこむように、どこか遠い記憶。白い毛。赤く染まった。痛み。真っ赤な眼――。

 一瞬鋭い痛みが脳を貫いたが、すぐにそこにも問答無用のエネルギーが集まるのを感じ、痛みは跡形もなく消え失せてしまった。

 次に焦点が合ったとき、目の前にいたのは、一匹の溶けかけた小さな白猫だった。

「お前……あのときの……?」

 想像よりずっと軽かった身体を持ち上げたままで呟く。いや、この重みはひと月前にも体験している。毛布しか抱いてないような軽さ。あれは錯覚でも気の持ちようでもなかったのだ。錯覚だったのは、今までのほうだった。

 どうして忘れていたんだろう。事故のショックで一時的に直前の記憶が飛んでしまい、それからも思い出しそうになるたびに忌々しい出来事から目を背けたくて無意識に記憶の底に押しこみ続けた結果、猫に対する八つ当たりの感情だけが残って猫嫌いになってしまっていたのか。

「ごめんね、だまってて……きらわれたくなかったの、ごめんね、ごめん……」

「あ、謝るな。黙ってろ。今すぐ……」

 赤いヘアゴムが巻かれた尻尾の先を力なく揺らしているミィを慌てて遮り、落ちていた毛布の上にそっと横たわらせる。

 オレのせいだ。オレのせいでミィが、このままじゃ――。

 フラフラと立ち上がり、キョロキョロと周囲を見回す。焦りは空回りするばかりで、見ているものがことごとくただのオブジェと化していたが、ただひとつオレにとって大事な意味のあるものが視界に飛びこんできた。

 雪の上に落ちた『星の王子さま』の絵本。斜め掛けにしていたミィの鞄から飛び出したのだろう。読んであげる約束、オレはまだ果たしていない。いつか聞かせたいと思っていたオレの頭の中だけにある物語、まだその存在すら明かせていない。

 少し頭が冷えてきてバイクに寄ってみる。折れた樹木と大量の雪の下敷きになって、サイドカーのほうは潰れてしまっていた。側に立っている幹の残りには、鋭くささくれた先端部分に血痕が付着している。コイツがしなりを戻した際に、オレの腹を引き裂いていったのだろう。

 ひとまずサイドカーから防寒具を引っ張り出そうとするも、まともに雪を掻き出せない。内臓まで達していたような傷はなぜかほとんど治っているものの、溶けてしまった腹に力が入らないのだ。

 違う場所から掘り出そうと回りこんだら、バイクからガソリンが漏れているのに気が付いた。もう駄目だ。予備のガソリンがどれだけあっても、タンクが破損してたら意味がない。

「いや、ここまで結構進んできてるし……」

 ミィの元に駆け寄って、抱え上げようとした手がとまる。オレは馬鹿か。ずれたまま進んできたんなら、当然町には近づいていない。やみくもに走って探しても、見つかるワケも間に合うワケもない。間に合ったところで、オレにはどうすることもできない。たとえ町に最先端の機材が揃ったデカい病院があったところで、何もできない。

 オレは無力だ。一人では小さな猫一匹助けることができない。オレの自棄がミィを殺すんだ。

 本当は一人で生きられるワケなんてないと判っていた。誰にも必要とされないのならと、自棄になって一人破滅的に死んでしまうつもりだったのだ。それにミィを巻きこんだ。白鷺さんたちに託していたなら……いや、あのときの白鷺さんと緑川さんの会話は、今から考えるとミィが人間に見えてしまうオレの精神状態を危惧してのものだった。オレは直感的にそれに気付いて、是正されてしまう前に咄嗟に現実から目を逸らしたんだ。

 あのときだけじゃない。新婚夫妻とのやりとりでも、ひよこさんとのやりとりでも、オレは現実を歪め続け、真実を突きつけてくる人々を敵視して避けることで自分を正当化してきた。人違いでも、ただ一人無条件に味方をしてくれる少女を失いたくなかった。あのときオレが現実を直視する勇気さえあったなら、こんな最悪の結末なんて迎えずに済んでいたのに。

 こんな気持ちを白鷺さんも噛みしめていたのかもしれない。それなら今、この場にあの人がいないことだけは喜ぶべきことだ。だけど……いや、とにかく最後まで抗うんだ。オレは無力だが、何もせずに冷たい方程式の出す回答を受け入れるワケにはいかない。

 ミィを抱え上げようと手を伸ばしたら、小さな笑い声が頭の中を揺らした。

〈やっぱ……いね、……た。ずっと、せん……のこと、そ……って……てる〉

 ほとんど読みとれない声は音として聞こえているのではなく、頭の中に直接響いている感覚だった。実際ミィの口も動いていない。白鷺さんたちがミィの声に反応していたから、元気なときは発声もしていたんだろう。しかしオレ以外には、ただの猫の鳴き声にしか聞こえていなかったらしい。

 今は魔法が解けて、オレにもその声はほとんど聞こえなくなっている。人間の少女に見えていたのが幻覚なら、今までのミィとのやりとりもすべてオレが脳内で作り出していたものなんだろうか。あんなにいろいろ話し合ったことも、笑い合ったことも、ときにはケンカしたことも、交わしてきた約束も、すべて。

〈……うよ。きい……〉

 ミィが首元の組紐を引っ張り外して、オレに差し出した。猫ならそんなことしないと思うのに、どう見ても差し出しているように見えた。受け取ると、頭の中に声が響いてくる。

〈ミィ、せんせーに……たのまれ……。でっぱりをうごかすと……せんせー……としゃべれる。シンドーハツデンで……ハッシンキノーも……ひよこのひと、すご……〉

 ミィが目を閉じた。慌てて胸元を見るが、紫の粘液でまだらになったそこは大きく上下している。苦しそうではあるが、まだ意識はあるようだ。喋り疲れて休んでいるだけにさえ見える。

 内心の疑惑に答えるようなタイミングで渡された組紐の鈴を割ってみる。中にはそれぞれぎっしりと機械が詰まっていて、スライド式のスイッチもあった。小さなそれを動かすと途端にランプが点灯し、掠れた雑音混じりの声がかすかに聞こえてくる。

『――蒼太か? 何があった……!?』

 やはりこれが答えなのだ。オレが知らないことをミィは知っていた。ミィはオレの淋しさが生んだ人形なんかじゃない。生きて、意思を持ち、オレを支えてくれていたんだ。

『――今からすぐに行く……! ちょうど陽介たちの隊が近くにいる! おい、大丈夫か!? 話をしよう! 意識を途切れさせるな! 君の話を聞かせてくれ……!』

「先生……」

 強がってみても、声を聞いた途端緊張の糸が切れた。本当はここにあなたがいてほしかった。緑川さんの冗談で励ましてもらいたかった。ひよこさんの素朴な笑顔ももう一度見たかった。必死な声を聞きながら、あたたかな涙が頬を濡らすのを感じる。

「早く来て、オレを助けてください、先生……。辛い目に遭わせてしまうかもしれないけど、どうしても大事なミィを助けたいんです。猫だけど優しくてすごい子だって、先生たちにも知ってもらいたい。オレを見捨てないでいてくれたミィと先生たちに、どうかこれから恩返しをするチャンスをください……」

『――大丈夫だ! 陽介は外科志望の獣医学生だ! ボランティアで何度も猫にメスを入れているし、私もすぐに向かう! 器具も薬もしっかり揃っている! もちろん、人用のも猫用のもだ! ミィが暴れても保定袋があるから治療は問題ないぞ……!』

 早速デリカシーのない発言をする相変わらずな白鷺さんに小さく笑い、腕の中の愛しい毛玉をぎゅっと抱きしめる。分厚いコート越しで体温なんて判らないはずなのに、とてもあたたかい。ずっと寒かった。自室に引きこもっているときから、ずっと。

 これから先も直接ミィを抱きしめられる日はこないだろう。それでも側にいるだけで、もうオレたちは寒さや淋しさに凍えることはない。

 今こそはっきり約束するよ、ミィ。これからも、ずっとずっと一緒だ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る