終わる世界の『続』④――青
今日も今日とて代わり映えしない白米と具なしのお味噌汁、少量の缶詰で夕食を済ませたあと、日課の本の乾き具合をチェックした。夜間に外に置いて凍らせていた『星の王子さま』だ。水分は粗方飛び、今は重しを載せて乾燥と整形を行っている。
重しに使っているのは藤椅子を破壊した黒い鉄壺だ。錆びていたらしく、最初に持ち上げたときは手に赤黒い汚れがつき、かぶれてしまったのか手の平の皮も剥けてしまった。一応きれいに洗って完全に乾かしたあと、素手で触らずに紙を挟んで本の重しにしている。問題もなく、そろそろ乾きそうだ。
本を元に戻し、この家にきて二回目の風呂を沸かす。『沸かした』と言うことが憚れるような温いお湯で、今日はやけに冷えこむこともあり、できればまた今度にしたい。しかしいつも同じような言い訳をして、前回の入浴から何日経ったのかも判らなくなっていた。
日付を気にしなくなると、月日の経過が本当に判らなくなる。引きこもりだった頃も日付を見失いがちだったものの、かかさず見ているテレビ番組などで一週間単位の経過は把握できた。今は一週間経ったのか一か月なのかもさっぱりだ。
一応、推測の材料ならある。さっきチェックしていた本だ。乾燥にかかる期間は多分一週間ほどだろう。問題の凍り出した時期は夜間の冷えこみが厳しくなってきた頃だから一週間前か二週間前で、凍らなかった期間も考えると、ここに来てひと月は経っているらしい。体感的には十日かそこらに感じるんだけど。
そろそろ先に進まないとという気持ちもあるのだが、ここでの日々は平穏すぎて、些細な不安や不満はあれど、ともすればここが終わりに向かっている世界なのだということを忘れそうになる。知恵を駆使して住環境を整えたり、何気ない終末の日常を満喫したり。映画や小説ならいわゆるお楽しみパートというヤツだ。オレ自身、終末ものの小説を読む際も、緊迫感のある見せ場よりそういうシーンのほうが好きだったりする。
あまり楽観的になるのも危険だが、まだ慌てるような時間でもないだろう。積み荷の食料は残り少なくなったものの、この家にはかなりの米と味噌の備蓄がある。食事に飽きることさえ我慢すれば、むしろ他所より快適で安全かもしれない。追手が来る気配もないし、本が渇くのももうすぐだ。せめてそれをミィに読んであげてからでも遅くはない。
それはそれとして今現在問題なのは、風呂には入らないといけないことだ。濡れた手を拭いて廊下を歩き、居間の襖を開く。
「ミィ、お風呂の用意できたぞ。先入ってこい」
畳の上に寝っ転がってノートに何かを書いていたミィが突っ伏す。
「やだあ。寒いもん」
「オレだってやだよ。でもいい加減身体ベタベタで気持ち悪いだろ」
唸っていたミィが「そだ!」と顔を上げた。オレを見上げて、「一緒に背中の流しっこする?」
「しない。馬鹿なこと言ってないで早く入れって。冷めちゃうだろ」
ノートをちゃぶ台の上で広げたまま、渋々ミィが立ち上がった。ヘアゴムで束ねられた毛先を指で巻きながら、口を尖らせる。
「ざんねーん。先生はやってくれたのに~」
「あの人の話はやめろ」
被せ気味で言い放ってしまった。ミィは途端に恐縮して、「うん、ごめん……。お風呂入ってくるね」とそそくさと部屋を出ていく。
やってしまった。口を滑らせたのはオレもミィもお互い様だ。もう忘れたなんて気のせいに過ぎない。ミィがずっと緑川たちの話題を避けていたから、オレもそのふりができただけ。時間が経って少し冷静になったからこそ、胸の端に走るこの痛みがほんの一部分でしかないことを推測できてしまう。
「まったく……、使ったものは片付けろよ」
胸の痛みから気を逸らすため、放置されたノートを手にとった。開いたままのページには人物の絵が描かれている。
「これ……オレ……?」
結構上手い絵だった。小学生高学年の絵画コンクールなら賞をとれるだろう。肩まで伸びた髪や一重目蓋の上の短い睫毛が一本一本精密に描きこまれており、顎の右下にある小さなほくろまでしっかり再現してある。視力が悪いのによく観察しているものだと感心……呆れるが、一ページに大きく描きこまれたオレは弾けんばかりの笑顔だった。こんな顔、もう長いことした覚えなどない。
ページを捲ってみると、遡るにつれて絵は幼稚に線は簡潔になっていく。最初に練習した魚や星の横に描かれていたのは、幼稚園児が落書きしたようなオレの顔だった。今より髪が短く、目を吊り上げて怒っている。これはこれで腹立つな。ここまでキツい顔してないだろ。
なんだか余計胸の奥が重苦しくなってきた。ノートと鉛筆を部屋の隅の籠に片付けると、風呂からミィが戻ってきた。入れ違いで入浴して、言葉少なに床に就く。夜が更けると更に冷えこんできたらしく、寒くて眠れない。硬く目を瞑って目蓋の裏の暗闇を見つめていると、どうしても思考は先ほどのミィの言葉に傾いていく。そこから数珠繋ぎに、今までにあった出会いと別れが動画を逆再生するみたいに脳裏に浮かんでは消えた。
白鷺たちの裏切り。顔に白い布のかかった男の姿。車椅子に乗ったひよこ男の笑顔。水面に上がる大きな水しぶきと小さな水しぶき。煙の中現れた防護服。黒い鼻面と不愉快な会話。ミィと警官。赤子を抱えた母の安らかに閉じられた目蓋。手を伸ばし合う学年アイドルとその恋人。焚火を囲み溶けていく人々。祖母に似た老婆の拒絶。巡り合うこともなかったクラスメイトたち。家に戻ってきた父と愛人、オレを蚊帳の外にして行われた、その壮絶な最期。
不特定多数でいえば、マンションから街を見下ろした隕石落下三日目のあの場面で、オレは何万何十万という人々と決別しているのだ。異変の前なら祖母の死が最初の別れだった。それから学校に居場所がなくなり、母さんが離れていき、父さんも帰ってこなくなり……オレはなんてたくさんの人たちから見放されてきたんだろう。
「……ミイ、寝てるか?」
目を閉じたまま口を開いてみたが、隣から返事はない。もうとっくに寝てしまったのだろう。誰も聞いていない虚空に向かって、ポツリと言葉を投げかける。
「この状況で生き残ってるのって、誰にも愛されてなかったことの証明みたいなもんだよな……」
我ながら馬鹿げたことを言っている。深夜テンションというヤツか。ただの独り言にすぎなくても、朝になったら後悔することだろう。だけど、本当はずっと思っていた。今残ってるのはこれまでに人との繋がりのなかった者、誰からも顧みられなかった者、誰からも必要とされなかった者、そんなヤツばかりだ。
確かにあの新婚夫婦の二人組やリア充陽キャの緑川のように、偶然や幸運で難を逃れた人間もいるのかもしれない。でもそんなのはほんの一握りで、大部分はオレやミィのような連中ばかりに違いない。鉄塔下のコミュニティにいた人たちもそうだ。過酷な環境で身を粉にして働きながらも、みんな充実した明るい笑みを浮かべていた。「役に立てて嬉しい」と笑ったひよこ男。そして白鷺の、緑川に向けた「君たちに会えてよかった」という言葉。彼らはやっと自分の居場所を見つけられたのだろう。
だけどオレはそんな社会不適合者の集まりの中でも異質だった。オレだけが異質だった。オレの居場所なんて、この地球上のどこにもないんだ。隕石が落ちる前も、落ちてからも、最初からどこにも――。
「確かに……」
ふいに隣から声がした。静かな暗闇の中、ミィの声だけが頭の中に響く。
「ミィは今まで誰にも愛されなかったよ。みんなミィのこといじめて、馬鹿にして、お金ばっかりかかるって悪口言った。けど一人だけ、ミィを助けてくれた人がいるの。蒼太も気付いてないだけで、これまでも今も愛してくれてる人はいるのかもしれないよ」
助けてくれた人とは、これまでに何度も聞いた『命の恩人』のことを指すのだろう。施設から脱出できたのも、その人物が手引きしてくれたからなのかもしれない。今でも、オレをその人物だと勘違いしているのだろうか。ミィの口ぶりからいって、内心気が付いているけど目を逸らしている感じがする。組紐の濃い赤が血の跡なら、ソイツはもう命を落としているかもしれない。ミィはそのことに本当は気付いているけれど、認めたくないからオレをソイツと思いこむことで自身をごまかしているんじゃないだろうか。
「起きてたのか。いないよ、そんな人オレには」
目を開け、天井の傾いた照明器具を睨みながら言い返した。とっくに灯りなんかつかなくなった、邪魔なだけの無能な存在。まるでオレみたいだ。
……いや、遥か昔にすら感じる過去、祖母にはよくしてもらったこともあった。でも祖母がもう少し長く生きていたら、捻くれて引きこもりになったオレに変わらず接してくれただろうか。きっと見限ったはずだ、こんな不出来な孫は要らないと。自身の娘――オレの母さんのように。
「いるよ。だってミィもいるんだし、蒼太優しいもん。最近しゃべりかたとかひょーじょーもやさしくなってきたし、まえみたいに……」
フニャフニャの声は途中で寝息に変わった。一人薄闇に残されたオレはびっくりだ。思わず身を起こし、ミィの微笑んだような寝顔を見つめる。
言われるまで気付かなかった。確かに振り返ってみれば、口調や仕草は変わってきたかもしれない。ということは、あのノートに描かれた笑顔も、オレが気付かないままどこかで見せていた表情なのだろうか。
あの笑顔は中学時代のオレみたいだ。中学までオレは自分のことを『僕』と呼び、制服をかっちり着こむような真面目な甘ちゃんだった。さすがにそこまで戻ったとは考えられないが……それに何より『まえみたいに』ってどういう意味だ?
布団から出た肩が冷たい。あまりの冷えこみに頭痛がしてきた。急いで布団を頭まで被ったが、すっかり目が冴えてしまった。
ミィは以前のオレを知っているワケではなく、命の恩人が昔のオレみたいな人間なのだろう。だけどオレはもう昔には戻れないし、戻れたところでオレはソイツじゃない。ミィもいつかは自覚して、オレの元から去っていく。
予想していたことだ。
オレは最初から判っていた。だからオレがいなくなっても大丈夫なように、生き残る術をミィに教えてきてたんだ。
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