終わる世界の『転』②――青


「腹減っただろ、ミィ。ちょっと食ってから今夜の寝床を探そう」

 バイクを停め、ヘルメットを脱ぎながらサイドカーに向かって声をかけた。返事がない。見れば、ぐったりと弛緩した身体が隙間に埋まりこむようになってしまっているにも関わらず、肩が緩やかに上下していた。……熟睡してやがる。

「おーい、ミィ。変な体勢で寝て、寝違えても知らねえぞ」

 何度呼びかけても起きないので、衣類だけを詰めた鞄をミィの腹の上に軽く落とした。ようやく白い睫毛が戦慄くように持ち上がる。

「……そうた、ミィ、なんか、へん……」

「お前が変なのはいつものことだろ。さっさと起きろ。チーズちくわ食っちまうぞ」

 寝ぼけ声でグズグズしているミィに軽く返して、バイクにくくりつけていた食料の荷を解きにかかる。

「いい……たべたくない……」

「はあ? どうした、雪でも降るんじゃねえか」

 嫌味を言ってから、実際いつ雪が降ってもおかしくないと思い直す。

「乗り物酔いか? 何がどう変なんだよ。ちゃんと説明しろ」

「あつい……けど……さむい……。ゾクゾクする……」

 オレがハッとすると同時に、ミィがくしゃみをした。それでも囁くような声で律儀な説明が続く。

「あたま、いたい……。われそう……」

 サイドカーに駆け寄ってミィの顔を覗きこんだ。薄暗いとはいえ、ヘルメットを外してから今まで気付かなかったのが不思議なくらい、普段雪のように白い肌が鮮やかなピンク色に染まっている。

「風邪か!? 昨日長いこと濡れたままだったから!」

 慌ててミィの額に手を当てようとしてすんでで押しとどまり、荷物の中から救急セットを取り出した。体温計を口に咥えさせると、四十度を少し超えたところでようやく停止する。

「すげえ熱……! なんで言わなかったんだよ!」

 無茶だと判っていても責めずにはいられなかった。サイドカーの座席で、ミィは必死にオレに話しかけていたのかもしれない。身振り手振りで伝えようとしていたのかもしれない。エンジン音とメットの狭い視界で気付かなかった――いや、気付こうとしなかったのだ、オレは。なぜならミィは恐らく、日中の野外で常に体調不良を感じている。それでも実験施設にいた頃より遥かにマシだろうから、そもそも病気という概念があるかどうかも疑わしい。紫外線や発熱による体調不良を感じたところで、オレの迷惑になるからと我慢するに決まっているのだ。

「言えよ、もう! 倒れるまで我慢してんじゃねえよ!」

 ブツクサ言いながら、急いで積み荷から毛布やサバイバルシートを取り出してミィに被せた。実際に言われたとしても、面倒がって本気にしなかっただろう自分はこの期に及んで棚に上げて。

「とりあえず、先家探すぞ。メシと薬はあとだ!」

 忙しなくバイクに跨る。ヘルメットをしていないオレの耳に小さな声が入りこんできた。

「ばいく……やだ……。ゆれ、きもちわるい……」

「そんなこといったって、」

「ごめんね、でも……もう、うごけない、かも……」

 またしてもハッとする。ミィの言葉を聞くまでその可能性に気付かなかったのは、サイドカー内に痕跡がなかったからだ。今までミィはサイドカーの外に吐いていたのだろう。胃液の中にも紫心菌が混ざっているかもしれない。そのため、どんなに辛くてもオレが触れる可能性のある場所には戻すことができなかったのだ。てか、なんでそんなになるまで――くそっ!

「じゃあ、じゃあオレこの辺りの民家……」言いながら周囲を見回しても、視界の範囲に建物が見当たらない。「ちょっと時間かかるかもしれないけど、とにかく見てくるから! 泊まれそうなとこ、」

「やだ……ひとりにしないで……」

「どうしろってんだよ……っ!」

 思わず頭を掻き毟ってしまう。

 ――落ち着け。とりあえず飯を食わせて薬を飲ませ、様子を見るんだ。少し具合がよくなったら、なんとか民家まで避難できるはずだ。積み荷に暗視ゴーグルがあったから、日が落ちてからでも慎重にバイクを走らせれば問題ない。

「よし、今からメシ作ってやる。食ったら薬飲めよ」

 宣言してからメシの準備を始めた。積み荷からレトルトの粥を取り出し、アルコールストーブで温め始める。熱々にしてやれないのがもどかしい。

 冷めることも考慮して三十二度ギリギリまで温めた。しかしスプーンを口元まで持っていっても、口を開こうとしない。

「おい、食えって!」

「いらない……におい、きもちわるい……」

 無理に食べさせても戻してしまいかねない。こうなりゃ先に薬だ。とにかく少しでも熱が下がればいいんだ。そしたら具合もよくなるはず。

 箸で摘まんだ解熱剤を無理やり桜色の唇にねじ込む。

「頼むから、それだけでも飲んでくれ! あの男の人見ただろ。飲まなきゃお前も死んじまうんだよ!」

 我ながら耳障りな声で喚き立てる。ミィがうっすらと目を開け、拒絶する喉に強引に押しこむようにしてなんとか薬を飲みこんだ。

「よし……! よし、よく飲んでくれた! メシ食わない分、水はいっぱい飲んどけ」

 これまた三十二度ギリギリまで温めた水をスプーンで何度も口元へ運ぶ。いきなり、何の前触れもなく、ごふっと逆流の音を立てて水が吐き戻された。水そのもののその中に、錠剤も丸のままで残っている。

「胃が……受けつけてないんだ……」

 水を受けつけないなら、そりゃ食欲だって湧くはずがない。無理に食べさせても、戻して胃が荒れてしまうだけだ。

 途方に暮れて、とりあえず積み荷の衣類をすべてサイドカーの上に被せた。そのあとは精々額を拭いてやりながら、オロオロと見守ることしかできない。辺りはすっかり暗くなってしまった。かすかに雨の匂いがして、黒一色に塗り固められた天を仰ぐ。

 強引にでもバイクを走らせたほうがいいだろうか。深夜になって更にミィの熱が上がり、雨まで降り出そうものならどうしようもなくなる。せめて屋根のあるところ、できれば小屋にでも辿り着ければ雨風はしのげる。しかしバイクを走らせるなら、ちんたらしてはいられない。恐らく小屋はすぐには見つからない。長時間ミィをエンジンの揺れに晒してしまうことになる。かといってこの暗闇の中バイクを飛ばせば、暗視ゴーグルを装着しようがライトを点けようが、瓦礫に乗り上げる可能性は高くなる。タイヤがパンクしたらそれこそおしまいだ。

 問題はどちらに向かうかだ。来た道を戻れば、比較的早い段階でアイツらが追いついてくるかもしれない。先に進めば、建物が見つかるかは完全に賭けになる。ここは白鷺たちに見つかる危険を冒してでもやはり戻るべきか。最悪再会してしまえば、ミィは助かる――

 いや、白鷺たちに会ったところで、ミィが治るワケじゃない。風邪には治療法がない。ウイルス性の普通の風邪だろうが、インフルエンザだろうが、細菌感染からくる発熱だろうが、薬が飲めないなら、設備も器材も薬品も不足したあの医者にできることはほぼない。また無力感を噛みしめさせるだけだ。あの病弱な男に何もできなかったときのように……。

 咄嗟に顔に布を掛けられた男の姿を思い出してしまい、背筋がゾッとした。もう死は非日常のものじゃない。今まで嫌というほど見てもきた。でも、それでも、こんな起承転結の『転』をオレは認めない。このまま結末なんかには向かわせない。オレ一人でも絶対になんとかしてみせるんだ。

 やっぱりこの辺りで民家を探してみよう。そう結論付け、ミィの具合を確認するため布の山になっているサイドカーを覗きこんだ。先ほどまで寝ていた――というより昏睡していた――ミィは、赤い瞳を真っ直ぐ天へと向けていた。

「ほし、みえないねえ……。そうたと、みたいんだけどな……」

「おい、今はやめろよ、それ。フラグにしかなんねえよ」

 うろたえるオレに、いつものように「フラグって何?」と訊いてくることもなく、ミィはぼんやりした表情で空を見つめ続けている。

「きれーだろーなあ。まっくらななかに、いろんないろのつぶつぶがひかってて……みたいんだけどなあ……」

 見開かれたままの赤い瞳から涙が一筋流れ落ちた。それは暗闇の中でほのかに紫色に光っている。

「やめろって! お前死にたいのか!? 風邪ぐらいで死ぬかよ! 死なせるかよ!」

 喚き散らしながら勝手に両手が伸びていて、ミィに触れる直前で我に返った。一瞬自分が何をしようとしたのかも判らずに唖然とするが、自らの体温で温めようとしていたことに気付き、奥歯を噛みしめる。

 その間もミィは静かに、紫色に光る水を目から流し続けている。

「泣くなよ! 今まで一回も泣かなかったくせに! ちょっとでも寝て体力回復しろ! あ、でも静かに眠るなよ、オレがビビるからな! 盛大にイビキでも掻いて寝ろ! ほら寝ろ、すぐ寝ろ、泣きやめってば、早く!」

 ルビーが溶け流れていくようなさまはひどく幻想的だった。遠のいていく現実感に混乱して支離滅裂なことを捲し立てているオレに、溶けかけのルビーが不思議そうに向けられる。

「……どうしたの、そうた。こわいの?」

「怖いワケあるか! お前が泣きやまねえからだろうが!」

 ふわりとミィが微笑んだ。

「だいじょうぶ、ミィはそうたをひとりぼっちにしないよ……。だからそうたもミィをひとりにしないでね……。いっしょういっしょだよ……やく、そく……」

 白い目蓋が――閉じた。

「死ぬな、ミィ……!」

 サイドカーに身を乗り出す。時間が停止したかのような感覚。

 しばらくそのまま硬直していると、こめかみを流れる血流の音に混ざって、かすかな音が聞こえてきた。

 一気に全身の力が抜けた。長い息を吐きながらサイドカーの側に座りこみ、しばし茫然とする。それからゆっくりと立ち上がり、ミィの額の白いタオルを手にとって、広げた。

「コントかよ、くそっ」

 口の中で呟いて、タオルを冷たい水に浸し直す。

 ミィの寝息はかすかに、だけどはっきりと今もこの暗闇を震わせていた。


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