終わる世界のミッドポイント⑩――青


 宛がわれた部屋に戻る途中で、川岸にサイドカー付きバイクが停まっているのを見た。ランタンや懐中電灯を総動員して、コミュニティの連中が忙しなく荷物をその周囲に運んでいる。車椅子のひよこ男もライトを頼まれた方向に当てて手伝っていた。

 素通りして部屋に戻ると、今までの疲れがどっと噴き出してきた。外の岩の上にウエストポーチを置いたままだし、それどころかミィの下着なんて瓦礫に広げたままなのだが、今からどうにかする気にもなれない。

 ミィが選ばなかったベッドの埃を軽く払い、うつ伏せに倒れこむ。そのまま、泥のように意識が沈んだ。

 次に目を開けると、オレンジ色の薄闇の中だった。まだ夜明けには間がありそうだ。身体も重く、目を瞑り直したが、なぜか眠気が飛んでしまった。

 ため息をついて、昨夜寝る前と同じうつ伏せの体勢から寝返りを打つ。光量を落としたLEDライトの弱い光の向こうで、ベッドに横になっているミィが見えた。相変わらず微笑んでいるような顔で眠っている。

 呑気な寝顔を眺めていても、やはり眠気は戻ってこない。思考はすぐに昨夜見た男の様子に引っ張られていった。

 あの男、具合はどうだろうか。戻る可能性はあるんだろうか。いや、現実世界のほうがあの人にとっては地獄かもしれない。オレがこうして心配したところで……そもそも心配しているワケでもないのだが。とにかく――そうだ、白鷺さんだ。あの人、下手したら一晩中男を看ているかもしれないぞ。

 目が冴えてしまったし、確認ついでに行ってみることにしよう。白鷺さんがこれからどうするつもりなのかも聞きたい。薬が到着するまで看病したいと言うのなら、待ってやってもいい。不本意ではあるけど、その間捜索隊リーダーの緑川はいないのだから、変態無線男に注意すればいいだけのことだ。

 そっとベッドから起き上がると、ミィがぴょこんと顔を上げた。いつものことながら、寝ている間にオレがいなくなってしまうのを恐れているかのような寝起きのよさだ。というか、その通りなのだろう。オレが渋々ここに来たことを、コイツも知っているのだから。

 白い毛先の赤いヘアゴムは落ちかけていた。しかしミィはすぐに気付き、慌てて根元近くまで引っ張り上げる。毛の流れに逆らったものだから、折角白鷺さんが整えてくれた髪はたちまち元に戻ってしまった。絡まってしまい、これはなかなか落ちそうにないかもしれない。

 懐中電灯を手にミィと一緒に外に出ると、やはり辺りは真っ暗だった。雨は降っていなかったようだが、また雲が分厚くなってきたのか、かすかに雨の匂いがする。降り出すのは時間の問題のようだ。

 ロープに干していた本を指先で確認する。ほとんど乾いていなかったが、雨が降っては元も子もない。さっさと回収してミィの鞄へ入れた。

 男の部屋を見にいった帰りに、ついでに朝の身支度を済ませようとミィの鞄を斜め掛けにし、オレのウエストポーチも手にとる。ミィの鞄には洗顔料や歯磨き粉が、オレのポーチにはストロー型の浄水器が入っている。懐中電灯の光だけでそれらを探すのは手間だ。このまま持ち運んだほうが早い。

 しかしポーチを腰に巻いたところで考えが変わった。湿ったベルトが腰に巻きつく感触が思った以上に不快だ。試しに手を突っこむと、浄水器ではなくライターが釣れた。反射的に点火しようとするも、やはりヤスリは回らない。完全に壊れてしまっているのかもしれない。

 しばし浄水器を探して鞄を漁ったが、別のものばかりを掴んでしまう。そうしている間に腰に巻いたベルトの湿り気にも慣れてしまったため、そのまま移動を開始した。道中でうっすらと明るくなってきて、横手に灰色の水面が横たわっているのが見えた。その上に浮かんでいるのは病院のボートだ。昨夜準備していたサイドカー付きバイクや荷物がすっかり積みこんである。

 周囲に人の姿はない。一所に集まって、出発前の最終確認でもしているのだろう。さっさとここから移動しないと、緑川と朝っぱらから鉢合わせしてしまいそうだ。

 歩調を速め、男の寝ている部屋に到着した。そのときにはもう懐中電灯も必要ない明るさになっていた。ドア代わりの毛布は、四分の一ほどが捲れている。白鷺さんの着ていたオフホワイトのトレーナーがその隙間から見えた。

 やはり夜通し看病をしていたらしい。呆れながら空いた利き手で毛布を捲ろうとすると、トレーナーの肩が震えていることに気が付いた。

「私は……無力だ……」

 絞り出すような声だった。白鷺さんの身体が動き、ベッドに横たわった男が見える。その顔には白い布がかかっていた。

 何かよく判らない衝撃のようなものが全身を駆け抜けた。多分男の死そのものではなく、常に気丈だった白鷺さんの弱りきった様子にびっくりしたのだろう。もう死は非日常のものなんかじゃない。今まで嫌というほど見てきたじゃないか。実の父親や母親が死んだときも、麻痺したようにはなってもショックなんて感じなかったのに。

 ――どうしてオレは、生きてるほうの人間なんかで。

 硬直していると、白鷺さんが顔を横に向けた。クマで縁が真っ黒になった目を歪ませ、血の気が失せた唇を震わせるようにして言う。

「せっかく準備してもらったのに、無駄にしてしまった。すまない……」

「そんなに自分を責めないでください。誰のせいでもないですよ。それに、ここを離れるのは心配でもありましたからね」

 緑川の声だ。姿は見えないが、部屋の中から聞こえてくる。

「しばらくはおれが蒼太くんを見張っていますよ。嫌われてるみたいだから、大変でしょうけど」

 こんな状況でも普段通りの軽薄な口調だった。笑い混じりのその声に、白鷺さんも釣られるようにわずかに微笑む。

「そうだな。多少強引な手も使わざるを得ないかもしれない。私一人では彼の制御は身に余る。君たちに会えなかったら、じきに全滅していただろう」

 なんだ? 何を言ってる?

「ミィちゃんもちゃんと保護してあげないと。任せてください、僕可愛い子の扱いには慣れてるんで」

 冗談っぽい声。こんなときに、何を――くそ、頭が。

「君たちに会えてよかったよ。私は人付き合いは不得手だから。彼らとの接し方を量りかねていた」

「そんなことありませんよ。完璧な演技でした」

 『演技』。緑川のその言葉を聞いた瞬間に、目の前が真っ暗になった。それまでは自分の耳が信じられず、極度の混乱から頭痛までしていたが、真っ暗な視界で目を見開いた途端に痛みは跡形もなく吹っ飛んだ。

 演技だったのか。今までの白鷺の言動はすべて。これも緑川の言い間違いじゃないかなんて、甘い考えも浮かばない。白鷺が否定しないのはなぜか。それが真実だからだ。名前通りのサギを働いておいて、悪びれてすらいない。

 顔と同じく狡猾なあの女はオレに従っているふりをして、本当は端からオレについてくる気なんてなかったのだ。緑川たちの存在を知り、そちらに寝返るつもりだった。そのためなら涼しい顔をして、不要な者などばっさり切り捨てることができる。ヤツも女だったということだ。オレのよく知る母親おんなと同じ、いかにも女らしい女。

 なんて展開だろう。真のミッドポイントは、今この瞬間だった。

 強張りが解けると同時に、その場から駆け出す。

「どこ行くの、蒼太!」

「勝手に残れよ、残りたかったら!」

 追いかけてくるミィの声に吐き捨てる。

 川岸に泊まっているボートの綱を切っていると、ヨロヨロのミィが追いついてきた。オレが口を開く前に肩を激しく上下させつつも、きっぱりと言いきる。

「ミィはずっと蒼太と一緒にいる」

「仕方ねえな。お前は脇役続投だ。あくまでも主人公メインはオレだがな」

 ミィとボートに乗りこみ、パネルを操作して離岸したところで緑川と白鷺が追いかけてきた。

「危ない!」

「戻れ!」

「煩いな、オレに指図するなよ! 勝手に二人で仲良くやってりゃいいだろ!」

 今更月並みな定型文を並び立てるヤツらに吐き捨てて、走るボートの上から岸に向かいスプレー缶を構える。しかしこの肝心なところでライターは火が点かず、整髪料が白く流れていくだけだった。

「くそ、くそ、みんなしてオレを馬鹿にしやがって。滅びろ、滅びてしまえ」

 口の中で呟きながら、封を切ったカイロを次から次へと投げつける。全力投球も虚しく、カイロは間抜けな水音を立てて川へと落ちていった。


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