終わる世界の『承』⑧――青


 とりあえず来た道を引き返し、川辺まで戻ってきた。本屋からスーパー跡地までの川には何もないと判っているため、渋々、本当に渋々川下へ、つまりは鉄塔に向かって歩き出す。

 途中でさっきの二人組に追いつくかと思ったが、姿は見えなかった。長時間雨に打たれていたし、屋根のあるところで休憩を入れているのかもしれない。そんな調子じゃ、薬がなくなるまでに病院に到着するのは不可能そうだ。

「すごい水だねえ。これは雨が流れこんでるの?」

「そうだよっ。だから泳いで渡るなんて無理だ。ほら、気が済んだか。さっさと先……」

 言いながら、嫌なものが見えてしまった。視力の悪いミィにはまだ見えていないようだが、灰色と茶色の景色の中で、まるで光っているかのようにその存在を主張している。

「……ボートだな」

 どうせ見つかるのは時間の問題だから自分から口にした。しばらくしてミィもやっと、川岸の窪みに引っかかっている黄色のゴムボートを発見する。こんなに時間がかかるなら、言いくるめて先に進んじまえばよかった。

「これで行けるんじゃない!?」

「こら、危ない! 川に近づくな!」

 駆け寄って引っ張り上げようとするミィをとめると、「近づかなきゃ渡れないよー」と憎たらしく笑う。初めて見ただろうに、ボートが川を渡るための道具だと判ってやがる。眺めていた絵本の中に舟の絵でもあったのかもしれないが。

「オレは渡るなんて言ってないぞ。見にきただけだ。川の流れが速いから、行けたとしても五分五分だし」

「五と五……十。つまり半分! 半分で行けるってことだね!」

 ……誰だ、コイツに要らねえ悪知恵なんか授けた馬鹿は。

「駄目だ。誰かが向こう岸に渡るために準備したものかもしれないだろ」

 とりあえず言い訳してみる。実際は側面にセットされたオールが一本しかないし、流されないようにロープで繋がれてもいないから、ただ流されてきただけの可能性が高い。

『それならその誰かが戻ってくるまで待ってみよう』とミィが言い出した。残っていた最後のビスケットで簡単な昼メシをとっている間も、当然誰もやってくる気配はない。

 雨で湿気ったビスケットを食べ終わった途端、ミィがまた騒ぎ始めた。

「早く行こうよ! 誰も来ないよ!」

「いや、これがさっきの二人みたいな人が準備したものだったらどうするんだ」

「でもこれ引っかかってるだけだし! 流されないようにしてないし!」

 ああ言えばこう言う。知恵がついてきて生意気盛りになった子供の相手をしてるみたいだ。

「でも百パーそうじゃないとも限んねえだろ。お前責任とれるのか? 後悔しても知らないぞ」

「蒼太こそ、あの人たちのこと心配してるくせに! 早く行かないと後悔するよ!」

「心配なんかしてるか! 言い返すな!」

「だって蒼太……!」

「いいからほっとけ! お前だってさっき無視されてたじゃねえかよ!」

 売り言葉に買い言葉で怒鳴っていると、ミィがあっけらかんと笑った。

「仕方ないよ。ミィはこんな見た目だもん。慣れてるから大丈夫」

 その言葉に目を見張る。瞬時に頭がグラグラし、耳元で甲高い耳鳴りが喚いた。

 ――仕方ない? 慣れてる? 何が大丈夫なんだ。なんで笑ったりなんかするんだよ。お前はオレから何を学んできたんだ。平常な世界でさえ正直者は馬鹿を見るってのに、そんなんじゃいくつ命があっても足りゃしねえだろ!

「よくねえ! 第一、理由がねえだろうが、助ける理由がよ!」

 苛立ちのまま吐き捨てる。ミィがキョトンとした顔をした。

「助けるのに理由がいるの?」

 嫌味なんかじゃなく、そういう作法があるとは知らなかったという顔だ。予想外の反応に一瞬たじろぐ。

「っ嫌なんだよ、もう! 誰かのせいで不幸になるのは……!」

 勝手に口から飛び出したヒステリックな言葉に自分でびっくりした。『もう嫌』? 『もう』ってなんだ。オレは誰かを庇って自分が窮地に陥るような見境なしの馬鹿じゃない。

 混乱しているオレをミィは悲しそうな目で見ている。くそ、そんな顔するな。オレが警官から自分を助けたことをそう言ってると思ってんだろうが、あれは理由も勝算もあったんだ。勘違いしてる大人に一泡吹かせてやりたかったし、武器がなけりゃ自分からノコノコ首つっこんだりするかよ。お前を助けることになっちまったのは、ただの結果に過ぎないんだ。

 苛立ちをぐっと飲みこんで、岸に引き上げていたボートの縁に腰を下ろした。ここで言い返したら言い訳になってしまう。片膝を揺すりながら顔を背けて無視を決めこんだが、いつもあれほど煩いミィが何も言ってこない。

 横目で窺ったら、赤いレインコートの背中を小さく丸め、地面にしゃがみこんでいた。横顔はフードで隠れて見えないが、膝小僧を抱えていた小さな手が持ち上がって頬の辺りを擦る。

「……っ判ったよ! 助けりゃいいんだろ、助けりゃ! 死んだら一生恨むからな!」

 つい立ち上がって声を上げたら、ミィもゆっくり立ち上がった。乾いた瞳で思いつめたようにオレを見つめ、頬にかかった雨粒をぐいと拭う。

「大丈夫。そのときはミィも一緒だよ」

 何が大丈夫なんだか。てかお前、泣いてねえじゃねえか。また騙しやがったな。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る