終わる世界の『起』①――青
ベッドに投げ出したままスマホから、アプリのラジオ音声が垂れ流しになっている。
ほとんどが耳障りなノイズ音だ。しかしごく稀に、個人が放送局の周波数に送信機を合わせたのだろう、SOSや悲鳴が混ざることもある。とはいえ、そのどれもが感情的に喚きたてるだけで、内容なんてないに等しい。
ノイズ音をBGMに、オレは一番大きな紺色のリュックを開ける。充電器は絶対必要だ。それに小型ラジオや懐中電灯も。スマホにも内蔵されているが、ひとつの機械に頼ると壊れたとき身動き取れなくなる。それにすべてをひとつで賄うと充電も追いつかない。
学習机の上にはノートパソコンが置いてある。開いたままのモニターは真っ暗だ。隕石が降り始めた一週間前は、どこのSNSも電子掲示板も祭りのような騒ぎだった。
『目の前でダチがスライムになった』
『風呂の湯が光った! 水は汚染されている! 人類はもうおしまいだ!』
最初は混乱してあることないこと書き込んでいるのかと思ったが、どうやらおおむね事実らしい。後者はオレ自身も似たようなことを体験している。
ノートパソコンは置いていく。祖母からもらったお年玉を貯めて買ったものだが、ネットが使えないのでは無用の長物だ。必然的にあの中にある創りかけのオレの世界も、永遠に未完成のままということになる。
しかし、くだらなかった現実に終末が訪れるなんて小説顔負けのビッグイベントが起こったのだ。これからは他の誰でもないオレ、
ふと尿意を覚えて便所に立った。懐中電灯についた紐をノブにかけ、用を足す。薄闇の中で水音と共に紫色の光が放物線を描き、便器へと吸いこまれていく。SNSで見た風呂の湯が光っている現象と似ているというのはこれだ。このマンション周辺は隕石落下後すぐにガスや電気がとまったため、オレは湯を見ていないが、いつの間にかこうして小便が光るようになった。
三日三晩降り注いだ隕石も紫色に発光していた。SNSの書きこみから視力を奪うものではないらしいと当たりをつけ、隕石落下三日目に屋上に出て、オレも素晴らしい終末の天体ショーを堪能したのだ。緑色ではなかったのが若干残念だが、恐らくあの光は隕石に未知の放射性物質でも内包されていたんだろう。
あれが放射線なら被ばくしていてもおかしくない。しかし光を目に焼きつけて一週間経っても、小便が発光するくらいで体調に変化はなかった。当然溶けてスライムになることもない。オレは特別なんだろう。平常な世界では脇役にすらなれなかったが、真の主役は遅れてやってくるものだ。抗体を持っていて生き残る、ゾンビもの創作物の主人公みたいに。
便所の水を流し、懐中電灯片手に部屋に戻る。水道がとまっていないだけでもよしとするべきところだが、電気が使えないと不便なことこの上ない。薄暗さもさることながら、調理ができないのが痛すぎる。まだ家には米やカップラーメンが残っているから、ガスボンベがあればあとひと月はここに留まっていられたのに――……別に外に出たくないワケじゃない。家にいればもっと情報が集められたかもしれないし、いまだに蔓延るだろう馬鹿で危険な輩どもの間引きも進んでいたはずだったからだ。
しかしこうなっては最早仕方がない。今朝目覚めて早々に、空腹の腹を抱えつつ出かける準備を開始した。これが小説なら、今が起承転結の『起』の部分にあたるのだろう。久しぶりの外出。出ていく以上、戻ってくる予定は当然ない。
準備していたものを鞄に入れ終わり、本棚へ視線を向けた。隙間なく並べられたSF小説。その背表紙を辿り、『星の王子さま』を抜き出そうとしてやめる。
結局親父は帰ってこなかったな。端から期待なんざしちゃいないが。今頃例の女と仲良くひとつになっているんだろう。言葉通り、ドロドロのスライムになって。
一番手に取りやすい場所に並べていた『トリフィド時代』の文庫本を抜き出した。荷物になるから持っていくのはこれだけだ。本の内容は緑色の流星群が現れたあと、失明してしまった人類が植物生物トリフィドに襲われ出すというもの。オレはベッドの中で一日中この本を開いては、『同じことが起これ』と願い続けてきた。細部は違うものの、おおむね希望通りと言えよう。天への感謝とこれからのサバイバルの教科書として、これだけは持っていかなくてはならない。
本をリュックに入れて背負う。もう一度本棚を眺め、一思いに背を向けてベッドの上のスマホと財布に手を伸ばした。その瞬間、いきなり玄関のほうで激しい物音がした。
びっくりして廊下に出ると、慌ただしくドアの鍵を閉めた親父がこちらに迫ってくる。いつも気障ったらしく櫛目の入った髪は落ち武者のように乱れ、血走った目は若干焦点が合っていない。
思わず後退ると、そんなオレに構わずヤツは、半年前に自分専用になった――ものの、ほとんど使っていなかった――寝室へと入っていった。
「なんだよ、いきなり。ここにはもう水も食料もねえぞ。オレが食っちまったから」
クローゼットを漁ってガタガタ言わせている親父に、廊下から声をかける。出し抜けに強烈な光がオレの網膜を焼いた。
「……まだ発症はしてないようだな」
どうやら強力な懐中電灯で顔面をまともに照らされたようだ。今は昼だが、窓のない廊下は薄暗い。
「発症って……」
疑問を口にする途中で、親父がゴルフクラブを抜き出したのを見てハッとした。
そうか、武器か。確かにこれから何があるか判らない。オレも子供の頃のバットでも――……。
突如、先ほど以上の物音が玄関で轟いた。忙しなくドアノブを回す音と、狂ったようにドアを叩く音。それから、「そこにいるんでしょ!」と叫ぶ女の悲鳴。
このヒステリックな声は……!
思うより先に身体が動き、玄関へ駆け寄って鍵を外していた。
「やめろ!」
親父の制止と、ドアが開くのはほぼ同時だった。
「いっ……!」
ものすごい勢いでドアが迫ってきて、靴箱で背を打ってよろけてしまう。
「くそっ」
親父の声がし、何かが足元を掠った。親父が手元に引き戻してから、それが空振りしたゴルフクラブだったと気が付く。
「どうして!? 愛してるって言ったじゃない!」
喚きながら親父に襲いかかっている女は、オレのよく知るあの女、オレを見捨てたあの女ではなかった。
目の前にいる女は顔面が腐ったように爛れ落ちており、眼球なんか剥き出しになっている。それでも胸元が強調された派手なタイトドレスに包まれた肉体は、半年前まで専業主婦をしていた
「おい、この女を殺せ!」
ゴルフクラブを横向きに構え、女を引き剥がそうとしながら、親父が何か怒鳴っている。
「おい、早くしろ! ったく、ほんと使えねえガキだな!」
ギクリと身体が強張った。一瞬で血液が凍りついていく感覚。
身動ぎひとつできないオレの目の前で、こちらに背を向けた女が電話台の上の花瓶を持ち上げる。女の片手が離れた隙に、親父もどこかから取り出した細い棒状の物体を振り上げた。瞬間、親父が取り落としていた懐中電灯のライトが棒の先端部に反射し、キラリと光る。
何かを突き刺す音と、硬い物がひび割れるような鈍い音。一呼吸置いて、閃光。すべてを焼き尽くすほどの。
視力が戻ったとき、二人はもう原形を留めていなかった。何倍にも膨らんでスーツが窮屈になった光る青紫色のスライムに、同じくドレスを無理やり着こんだ光る赤紫のスライムがしな垂れかかり、ひとつに混じり合って蕩けていく。
完全に溶け合って光るマーブル模様のスライム溜まりになってしまった頃、残っていたのは二人分の衣服と体毛、鱗のような爪に割れた花瓶と金色の万年筆、そして何か月も放置されドライフラワーと化していたラベンダーの花束だった。
「……そうだ、スマホと財布……」
どれだけ時間が経ったのだろう。スライムがすっかり光を失くすまでただただ放心していたが、やがて口が勝手に動いた。ギクシャクと立ち上がり、よろめきながら廊下を完全に塞いでいるスライム溜まりへ近づこうとした足が、そこでとまる。
持っていく必要なんかあるか――?
ふと心に浮かんだ次の瞬間にはもう足は踵を返し、まっすぐ玄関へと歩き出していた。
オレは今までなんて無駄なものに縛られていたんだろう。ネットなんかパソコンで見ればよかったし、どうせ誰からも電話なんてかかってこないのに。毎月親父からの振り込みがあるか内心冷や冷やしていた金も、今じゃただの紙屑だ。この先通信機能が復旧するとは考えられないが、もしスマホが必要になったなら誰かから奪うなり店から盗むなりすればいい。
玄関を出た。鍵もかけない。両のポケットは軽い。すさまじい解放感だ。――少し寒々しさまで覚えるほどの。
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