第2話



 結局部屋まで駆けて来て、陸議りくぎは扉の前で一度立ち止まると息をついた。


 扉を開けば、部屋には誰の気配もせず、安心した。

 寝室に向かうと寝台に身を投げ出す。

 目を閉じた。


 徐元直じょげんちょくのことは背景から、経歴も、何も知らなかった。

 あの宴席で、別に視線が合って印象に残ったり、言葉を交わしたわけでもないし、何かあったわけじゃない。

 

龐統ほうとうの夢が……)


 あの軍議の夢の中で龐統が座っていた場所に徐元直が座っていた、ただそれだけのことだ。

 

 ……自分はどこまで龐士元ほうしげんに心を残しているのか、と思う。

 

 呆れる。


(でも)


 龐統のことをすぐ忘れていたら、恐らく徐庶じょしょのことなど全く気にせず、気にも留めなかったと思う。


 彼のことを覚えていて、忘れがたかったから、龐統と同じ場所に座っていた彼が気になったのだ。

 司馬懿しばいに話したら、きっと呆れられるどころの話ではないと思う。


 なんの根拠もない。


 しかし徐庶の声を聞いて、先日司馬懿の執務室で話していた人だと気づいたのだ。

 思わず立ち聞きなどしてしまったのは、うたた寝しながら聞いた声が、あまりに『音』として優しくて、もっと聞きたいと思っていたから。



叡智えいちを尊べば、乱世の暗闇も星のように照らされて生きていける】



 星、などと徐庶じょしょが偶然口にしたから思わず思い出してしまった。


 星に囚われていた、彼のことを。


『名士司馬徽しばき門下に【臥龍がりゅう】と【鳳雛ほうすう】と謳われる二人の男がいるらしい』


 そういえば、陸議に一番最初に臥龍と鳳雛の話を聞かせたのは、司馬懿だった。


 徐庶も司馬徽門下生なのだ。

 さほど親しくはないと言っていたが、

 もしかしたら、言葉を交わしたことなどもあったのかもしれない。



【彼が曹魏の王だったら、決して長江ちょうこうを越えて孫呉を攻め取ろうとなんてしなかった】



【戦はもうせず、孫呉と協定を結んで政をしたはずです。

 自分達だけが栄えるためじゃなく、相手にもちゃんと利益のある、そういう政を目指した。

 彼は『王』ではなく、『父』だからです。

 尊敬される父になろうと心がけている人は、他者に無駄に冷酷なことはしない。

 聞く耳を持ち、協力出来るものとは必ず協力しようとするでしょう】



 赤壁せきへきの戦いが行われていなかったら、まだ龐統は生きていただろうか?



(かつては、大陸は群雄割拠していた。

 董卓とうたく呂布りょふがいて、袁紹えんしょうがいて、袁術えんじゅつがいて……)



 もっと国があり、数多の領主がその地を治めていた。

 だから争いも、今よりもずっと多かったはずだ。

 ようやくここまで、国が固まって来た。


 周瑜しゅうゆ諸葛亮しょかつりょうが必ず孫呉に仇なす存在になると読んで、殺そうとした。


【『臥龍』が存命のうちは決して蜀と結ぶな】


 彼の死後もそうあれとは、周瑜は言っていなかった。

 軍師とは軍策を授けるものだから、諸葛亮がいる限り天下の覇権を劉備が望むと見たのだろう。

 それほど、同族の劉璋りゅうしょうを劉備が攻めたことに、周瑜は危惧を覚えたのだ。

 諸葛亮を側に置くまでは、そういうことはしないだろうと思えるのが劉玄徳りゅうげんとくという男だったからだ。


 劉璋を攻めた以上、荊州けいしゅうを攻めることに何の躊躇いもないだろうと読んだ。




【戦はもうせず、孫呉と協定して政をしたはずです】




 二国が強固に結べば、曹魏も戦よりは政で、事を荒立たせないやりかたを模索したかもしれない。

 

 陸議は手を握りしめた。


 

(呉蜀同盟は切るべきではなかった)



 徐庶じょしょに降った今も、あれほど強く劉備を信頼している。

 彼は『王』ではなく『父』だから、決して自分以外の国を討ち滅ぼして天下の覇権を望むような人ではないと。


 周瑜は今あの徐庶の言葉を聞いても、諸葛亮しょかつりょうを殺せと命じただろうか?


 折角平和の足掛かりとして結んだ呉蜀同盟を、断ち切ってしまった。

 ただ周瑜に言われるがまま。

 もっと、例え恩人である周瑜に願われたとしても、抗うべきだったのではないか。


 徐庶が蜀にいたら、魯粛ろしゅくと協力して諸葛亮と周瑜を説得したかもしれない。

 趙子龍ちょうしりゅうは【剄門山けいもんさん】の戦いでは呂蒙りょもうに協力し、今双方に無駄な犠牲を出すべきではないと、奔走してくれた。


 時折ああして国境を越え、平和のためや、失われないでいい命の為に動こうとする者たちが歴史の中には現れる。


 龐統ほうとうが殺戮や乱世を望んでるわけではないことは分かっていた。



『私を憎んでいるのか、龐統』



 尋ねても、そうではないことは、分かっていたのだ。


 彼から自分への憎しみを感じたことは一度もなかった。


 あの戦いの前夜、闇星やみほしの美しい纏いで龐統が現れた時、美しい姿が最後に見れてよかったなどと諦めるのではなく、甘寧かんねいを必死に説得し、呂蒙を必死に説得し、

 例えお前は恩ある周瑜殿の遺言に逆らうのかと詰られても、

 周瑜を慕う、呉の全ての人間に憎まれ軽蔑されても、


 

(兵を引くべきだった)



 陸議の瞳から涙が零れる。

 失われないでいい命を守る為にそうするべきだった。

 

(かつての私はそれが出来た)


 孫策そんさく陸康りくこうを討ち取られた時。

 一族中の恨みを買っても、これ以上の犠牲は出せないから孫家に帰順すべきだと、そう主張した。

 

 あの決断は正しかった。

 かつてはそれが出来たのに。


 今の陸議りくぎは周瑜を恐れ、孫権そんけんを恐れ、呉の人々に軽蔑されることを恐れ、

 これ以上は戦うべきではないと、そう言える強さがなくなっていた。

 


 徐元直じょげんちょくはたった一人でもこの魏の地で、蜀のために戦っているような気が陸議にはした。

 母親への痛いほどの想いを感じたが、それでも彼はこの地に来たことに絶望はまだしていない。



『苦労ですらない』



 もっと、徐庶と話してみたかった。

 彼なら後悔に苛まれるこの胸に、何か答えをくれるかもしれない。



(でも……)



 握りしめていた陸議の手からゆるゆると力が抜けていく。



『風の噂で【鳳雛ほうすう】が死んだと聞きました』



 徐庶なら、あの【剄門山けいもんさん】の戦いの機が読めるはずだ。



――――『出陣はしません』



 彼がはっきり言ったのを聞いた。


 やらなくてもいい戦いだと、徐庶ならそれが読めた。

 そして軍師として呂蒙りょもうに進言し、軍を引かせただろう。


 もしかしたら、龐統は自分がそうすることを望んでいたのかもしれない。



(私なら、そうすると思ったのか?)



 頂上に辿り着いた時に見せた、龐統の静かな眼差し。



(私を見ていた)



 目を閉じると、光のない世界に、やはり星は後方に流れた。


 星はまだ輝いて、囁いているのだ。

 人は誰しも、自分の所業と心からは逃れることは出来ない。


 軍議場に入っていく。

 龐統が末席に座っている。

 あそこで死ななかったら、いつか――今より世界が平和になったら。


 蜀の使者として龐統が呉にやって来ることもあったかもしれない。



『しなくていい戦いだ』



 ドキ、とした。


 声が投げつけられる。

 龐統の椅子に座って、徐庶が静かな表情でこちらを見ている。



『……君が兵を引けばそれで済んだ』



 誰も死ななくて済んだんだ。


 陸議は顔を覆った。

 自分が赤壁せきへきで、命令とはいえ諸葛亮の命を狙い、呉蜀同盟を断ち切ったこと、

【剄門山】の戦いで兵を引かず、山頂まで攻略し、龐統を死なせたことを知ったら、きっと徐庶じょしょは自分を軽蔑するはずだと思った。




『しなくていい戦いだったんだ』



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