花天月地【第29話 落ちた星のその先】

七海ポルカ

第1話



徐元直じょげんちょく様です」



 補佐官に伴われて、執務室に入って来る男を賈詡かくは見遣った。


「やあ、よく来てくれた。

 長い間お待たせして申し訳ない。

 私は賈文和かぶんか。どうぞ入って下さい」


徐庶じょしょです」


「言い訳になるが、この一週間ほどどうにもあれやこれや多忙で、貴方に連絡を取れなかった。何がどう多忙かは聞かないでくださいよ。とにかく待たせて申し訳なかった」


 やっぱり忘れられてたんだな……と徐庶じょしょは少しだけ首の後ろあたりを触る仕草をし、苦笑する。


「いえ……司馬懿しばい殿から呼び出されたのがそもそも急な話だったので、ほとんど着の身着のまま長安ちょうあんからこちらにやって来たので、私は少し休みが取れて助かりました」


「結構。貴方のことは司馬懿殿から直々の御指名なので、それなりに気を使おうとは思ってるんだが、あくまでも今回の涼州りょうしゅう遠征の総指揮は私が取らせていただく。それは御理解頂きたい」


「いえ。先だって司馬懿殿に挨拶した時も、総指揮官は賈詡殿で、私を副官として置くので、まずは賈詡殿をお支えするようにと伝えられました。私はそれで構いません」


「そうですか。それを聞いて心強い。

 少し外でも歩きながら話そうか」


◇    ◇    ◇


「いや気を悪くしないでほしいんだが、貴方のことを知っている人がここでは少なくてね」

「そうだと思います」

 徐庶じょしょも自覚があるのか、苦笑してしまっている。


「少し知り合いにも聞いてみたんだが、結局分かったのは新野しんやで我が軍に貴方が仕掛けた奇襲作戦のことと、司馬徽しばき門下生だということだけだった」


「門下生というほどのものじゃないですよ。

 ただ各地を転々としてる時しばらく水鏡すいきょう先生の館にお世話になり、色々な書物を読ませていただいただけで、俺は弟子というより単なる居候という感じです」


「あはは謙遜していらっしゃる」

「いえ別に全然謙遜じゃなくて……」


「しかし貴方が新野の【八門金鎖はちもんきんさ】を瓦解させた戦いは、軍でも高く評価されてるよ。

 酒の肴に魏軍の軍師連中と随分と話して楽しく分析させてもらった」


「あの……はい……」


「心配いらない。俺も元々はこの辺の出身じゃない上に、なんなら元々は曹操そうそう殿の敵方にいてやりあった。

 俺が参戦した戦いで曹操殿は信頼する家臣と御子を失ってる。

 それでも今はこうして信頼していただき、涼州りょうしゅう遠征の総指揮官という大役を任せていただいてるわけだ。

 魏軍ではな、徐庶殿。

 意欲的であれば、結果を出せば評価はされるんだ」


「……。」


「貴方は謎めいてるというより、どうやら無口なタチらしいな。

 いや、構わんよ。使える人間なら俺は無口だろうと何だろうと拘ったりしない。

 明日曹丕そうひ殿下が長安より帰還される。

 そしていよいよ本格的に出陣の準備ということになる。 

 貴方の手腕も少し見ておきたい。

 元々今回の遠征は二軍編成だったんだが、ちょっと事情が変わってね。

 一つは張遼ちょうりょう将軍の一軍だが、もう一つの軍は混成で行く。

 俺と、李典りてん将軍、楽進がくしん将軍の三部隊からの選抜だ。

 涼州騎馬隊は平地でも定評があるが、あいつらの真価はあくまでも山岳戦だ。

 涼州の馬は山岳地帯を走れる。

 小規模編成でとんでもない場所を駆けて、あっという間に奇襲を仕掛けてくる。

 

 貴方には三部隊の調練に同席してもらい、選抜部隊を編成してもらう。

 

 その混成が一軍だ。

 貴方に任せるぞ。涼州ではそいつらが貴方の盾で貴方の剣になる。

 ぜひ使える兵を選抜し、使える軍に仕立て上げてくれ」


「了解しました」


 徐庶じょしょはしっかりと拱手で応えた。

 

 今から徐庶の軍師としての才を見極めている時間はない。

 賈詡かくは軍の編成を任せ、徐庶の人を見る目や軍の構成力をまず見るつもりだ。

 あとの諸々は遠征が始まってから自然と分かってくるだろう。


「ああそうだ。一つ聞いておきたいんだが、司馬懿しばい殿とは以前からのお知り合いか?」


 徐庶は歩きながら池で泳ぐ鯉を眺めていたが、立ち止まった。


「それが……全くなんです。ほぼ知らない方ですし、自分でもなんで私が今回長安からわざわざ呼び出されたんだろうと色々理由を考えてるんですが、全く思いつかなくて……賈詡殿は何か聞いていますか?」


「いんや。俺は仲達ちゅうたつ殿からは貴方が使える駒かどうか見極めたいから一度使ってみたいとしか聞いてないよ」


 徐庶が振り返る。

 賈詡は池に掛かった橋の欄干に背を預けて笑った。


「こういうことは濁すと後々いらぬ疑念を残して問題になる。

 最初にきっぱり言っておいた方がいい」


 数秒後、徐庶も頷いた。


「……そうですね。私も……そう思います」


「よかった。ではここからはお互い率直に話すようにしよう。

 貴方は短い間だが劉備りゅうびの側にいた。

 貴方は劉備をどう見た? 

 俺から見れば劉備は流浪の軍団の首領としてはなかなか面白いが、一国の王と言われるとどうもしっくりこない。そこまでの器ではないと思っていたのかもしれん。

 だがあいつは国をついに持ったな? これは俺の予想してなかったことだ。

 貴方が劉備といた時、あいつはまだ国どころか拠り所すら持ってなかった流浪の身分でしかなかった。

 あいつが国を持つと、貴方は予期していたか?」


 突然核心に触れられて、徐庶は思わず息を飲んだようだが、瞳を伏せた。


「……。」


「ついでに付け加えると、国を持つとして、同族の劉璋りゅうしょうを攻めて地盤を乗っ取る形で取ると思っていたか?」


「……私は長く放浪生活をしていたので、どこの勢力にも属していませんでしたが、それでかえって、立ち寄った場所の駐留部隊を客観的に捉えることが出来ました。

 軍というのは、人間一人一人が違うように、その軍が持つ色のようなものがある。

 それで言うと、劉備軍は少し、軍というよりも大きな家族のような雰囲気がありました。

 そもそも劉備殿、関羽かんう張飛ちょうひは義兄弟の契りを交わしていますし、趙子龍ちょうしりゅうも優れた武将ですが、普段は主従というより、父のように劉備殿を慕っています。

 

 劉備軍は劉備殿を主君に戴いているというより、彼という『父』を持った一つの一族なのだと思います。

 

 俺も劉備軍は寄せ集めの私兵団と聞いていましたが、実際彼らと会って、寄せ集めどころか非常に強固な絆でそれぞれが結ばれているのだなということを一番に感じました」



「なるほど、……『父』ねえ」



「劉備殿を慕う者たちは、息子のようにどこまでも彼を守り、力になり、いつかは大きな館、大きな街、大きな国の領主にしたいと考えてる。

 劉備殿と彼の周囲の者たちを見ていると――いつか、この人は国を持つような気はしました」


 ほお、と賈詡かくは聞きながら顎をしゃくった。


(こいつ、流浪時代に劉備に仕官した筋は合ってるな。

 なるほど、国を取ると本気で見ていたわけか)


「国といえども、それは一つ一つの家族が集って構成しているもの。

 ならば、劉備殿に王の資質はあります。

 彼は尊敬される父親としての資質がある。

 仁義を家訓に掲げ、家族全体にもそれを尊ぶことを強く求めています。

 もちろん国という大きな形を取れば取るほど、綺麗事だけでは出来ない、守れないものもあります。

 そういう困難において劉備軍は必ず適任者がその対処にあたり、問題を解決しようと努力をする。

 それがどんな方向のものであっても、彼らは『父』のために、『父』が理想に掲げる、出来るだけ近しい道を取ろうとする。

 だから人が集まっても無分別にはなっていかない。


 あの人の作り上げる国を、俺は見てみたかった」


「……あんたは優れた軍師なのに、何故流浪時代に奴に仕官なんてしたんだと首を捻っていた同僚がいたよ。『先の見えない軍師』だ、ってね」


「『先の見えない軍師』ですか……」

 徐庶は小さく笑ったようだった。


「だが今のを聞くとあんたはその時点で劉備が国持ちになる未来をしっかり予期出来てたんだな。だから賭けれた。今まで誰にも賭けようと思えなかった自分の人生を」


「……同族の劉璋りゅうしょうを攻めたのは、決して劉備殿の本意ではないと思います。

 取れるならば別の形を取りかったんだと思う。

 だけど恐らく、彼の周囲にいる『子供たち』が今ここで国を取ってほしいと、強く父に望んだんでしょう。

 彼はどんなに愛する子供が望んでも、それが彼自身を支える仁義に背くことなら、決して首を立てには振らない人です。

 仁義に背いて国持ちになるくらいなら、理想を守って流浪の身でいた方がマシだと本気で考える。

 その、劉備殿が劉璋を攻めて国を取ったなら余程の覚悟です。

 私欲じゃない。


 大陸のどこにも、領主や王がいる。

 彼らのように伝来の地を持たない劉備殿が国を持つならば、逆にどこかしらから奪うことになることは思っていました。

 大事なのはそれがどこになるかだった。

 成都せいとの劉璋になったのは偶然だが第三勢力といえる涼州りょうしゅうに近く、とも陸伝いに続き、曹魏、孫呉と並び立つことが出来る。

 偶然としては悪くない場所だと思います。


 あの人に国を持ってほしいと願い、戦い続けてきた者たちが大勢劉備軍にはいる。

 無理攻めを極力避け、説得で劉璋に成都を明け渡すように手を尽くしています。

 あれが劉備殿の戦い方なんです。


 ――彼が曹魏の王だったら、決して長江ちょうこうを越えて孫呉を攻め取ろうとなんてしなかった。

 戦はもうせず、孫呉と協定を結んで政をしたはずです。

 自分達だけが栄えるためじゃなく、相手にもちゃんと利益のある、そういう政を目指した。

 彼は『王』ではなく、『父』だからです。

 尊敬される父になろうと心がけている人は、他者に無駄に冷酷なことはしない。

 聞く耳を持ち、協力出来るものとは必ず協力しようとするでしょう」


 欄干に置いた手を握り締めて、徐庶は言った。


「聞いちゃったのは俺の方だから、なんていうか、今のは聞かなかったことにしよう。

 あんたの言ってることは、劉備を全く知らず、ちっとも奴を尊敬もしてない俺が聞いても理解出来る。――だが今の話は……ではしない方が賢明だな」



「…………分かっています……。」



「難儀だねえ、あんたも。

 そこまで劉備を慕って腹も括ってるのに、母親の為に魏に下った。

 俺が言うことじゃないが、あんたこそ蜀にいるべき人だ。

 そりゃ母親は大切な存在だろうが、あんたがここにいるのはお互いにとって良くない気がするよ」


「……。

 昔、人を殺める罪を犯して逃げたことがあります」


「あんたが?」


「まだ若くて無分別だった。

 恩人が仇討ちをしたいというので、手を貸してしまったんです」


「へぇ……全くそんな風に見えなかったが……」


 そうは言ったものの、こんなご時世じゃそういうこともあるだろうよと賈詡は思った。

 彼自身、自分が生きるために殺めた人の数はそれこそ一人や二人ではない。

 しかし仇討ちという響きにはあまり賈詡は魅力を感じなかった。

 人を殺すのも、彼の場合、ひたすら自分のためだ。

 他人の為に殺そうとは、あまり思ったことはない。


(まあ今は曹操殿の為に数多の敵を屠っているがね。

 しかしそれもある意味で、間違いなく自分のためだ)


「俺が捕まらなかったので、母が役人に尋問を受けた。

 俺は早く家を出ていて、ほとんどどこで何をしているかなんて母は知らなかった。

 答えようもないことを尋問され、一年以上も牢に繋がれた。

 母は解放されましたが、理由は牢屋生活で痩せ細って歩けなくなり、視力も弱くなって、尋問するより世話をする手間の方が増えたからです。


 彼らは人の人生を苦しめ破壊したのに、ある時面倒臭くなって投げ出した。


 でも彼らより愚かなのは、縁薄く生きたのに自分のために死ぬほどの苦痛を受けてる母親のことを知らず、逃げていればそのうち何とかなるなどと思い込んでいた俺です。


 ……もう二度と母に、俺のことで苦しみは与えられない」


「あんた、確か劉備や蜀に対しての献策は拒否したが、『曹操殿が命じるならば断れない』って言ってたよな?」


洛陽らくようで母は、曹操殿の計らいで楽に暮らせています。

 その感謝がある」


「……なるほどね。何であんたが劉備に惹かれたのかもちょっと分かるような気がするよ。

 あんたも自分の中に守りたい道理がある。

 理想、とでもいえばいいのかもしれんが。

 優しい顔はしてるがあんたそれを曲げられない人だね。

 そういう人は乱世じゃ苦労する」


 賈詡かくはもたれていた欄干から身を起こした。


「今の俺の全てが、自分の甘さや弱さや、浅はかさによって引き起こされたことの延長にある。

 それは……、……もはや苦労でもなんでもないですよ」


「あんたの真面目な人となりは分かったよ。

 どうやらあんたはいきなり背後を取って殺したり裏切ったりしてくる人じゃないってことがね。それが分かっただけでも一緒に従軍する俺にとっては、随分頭がすっきりすることなんだ。

 あんたがどういう人なのか、考えも、全く分からなかったからね。

 いやぁ、俺が変なこと聞いたばかりになんか湿っぽくなっちゃったなあ。

 ちょっと飲むか! よし、部屋に戻ろう」


「いや、俺はあまり酒は……」


「あー、そんなこと言わんで! 明日にはいよいよ次期皇帝となられる曹丕そうひ殿下が許都に戻って来られる。

 父親に似ず俺の会心の冗談にもにこりともしてくれない鋼よりお堅い殿下だぞ。

 そこに側近の司馬懿しばい殿も相当な切れ者だが、相当アクが強い。

 酒くらい飲めるようにならんと冬の遠征なんて乗り切れないぜ。

 さあ飲もう! 今度は楽しい話でもして飲もう!」


 徐庶じょしょの背をぐいぐい押しながら歩き出した時カラカラ、と音がした。


「ん?」


 覗き込むと美しく色付いた紅い葉の側に一人の青年が蹲って、落としてしまった竹簡を拾っているところだった。


「おや。君は……」


「す、すみません。賈詡将軍に、明日早朝帰還される曹丕殿下を、司馬懿殿と一緒に出迎えていただきたいという命令を伝えに来たのですが、お話し中だったので後にするべきでした……」


「こちら司馬懿殿の副官殿だ」


 賈詡が徐庶に紹介すると、明らかに見付かりたくなかったという感じの青年は落ちた竹簡を胸に抱き、ゆっくりと立ち上がる。


「……すみません、立ち聞きするつもりはなかったのですが」


「……。」

「あはは! 言っとくけど徐庶殿、蜀へのあんたの想いを喋らせるだけ喋らせて、その子に密告させるっていう、俺の誘導尋問の罠じゃないからな。

 君も徐元直じょげんちょくは蜀と劉備に対して強い想いを残してるから信用できない、なんて司馬の大将に告げ口とかしちゃダメよ? さすがにこれで徐庶殿がいずれあいつ必ず魏を裏切るだろうから今のうちに始末しておこうなんて仲達殿にこの遠征の最中暗殺されちゃったりしたら、俺も夢見が悪い」


 陸議りくぎは慌てて頷いた。

 書類を脇に抱え、二人に拱手する。

 

「決して他言をしないとお約束します」


「冗談冗談! そんなに身構えなくていいって。副官殿、あんたも大概真面目な人だね。

 やっぱり司馬懿殿の側にいるにしちゃ、珍しい感じだ」


 賈詡がおかしそうに笑っている。


「いえ……、あの……本当に、今の話のことは決して他言はいたしませんので」

「うん。明日の件、確かにうけたまわった」

「はい。失礼いたします」


 賈詡に拱手きょうしゅし、ちら、と陸議は徐庶を見た。

 徐元直じょげんちょくは静かな表情で陸議の方を見ていた。

 視線が合ってしまったので、慌ててもう一度彼は徐庶に深く頭を下げると、身を翻して去って行った。


 何かを思い、じっと去って行った陸議の方を見ている徐庶に、声をかける。


「心配はいらない。あのお人はあんたのことをベラベラと吹聴するような感じじゃない」


「……彼は司馬懿殿の副官なんですか?」

「うん。そうなんだって。あんまりそういう感じしないよねぇ。

 ただ仲達ちゅうたつ殿もなんていうか、人に警戒されやすいお人だからな。側にああいう生真面目で礼儀正しい副官を置くことで、自分から滲み出る毒を中和しようとされてるのかもしれんね」


「……あの人に女の姉妹はいますか?」


「え?」

「姉か妹か……女の姉妹は」

 賈詡は目を瞬かせてから、数秒後ニヤッとした。

「いや聞いてないけど。うん、確かにあの顔は女の姉妹いたら別嬪さんだろうねえ。

 君はそういうとこ意外と抜け目ないんだな」

「……。」

 まだ何かを思ってそちらの方を見ていた徐庶が数秒後、振り返った。


「あ、いや……、今のはそういう意味で聞いたわけじゃないんですが……」

「いいっていいって! 今度お姉さんがいるかどうか、聞いといてやるよ」

「いえ、いいんです忘れて下さい」

「んじゃ今日は徐庶君のこれまでの女性遍歴でも聞きながら飲んじゃおうか! なんなら魏軍最強の天才軍師でありながら恋愛の達人でもある郭嘉かくか大先生も呼ぶかな⁉」

「いやあの……」

「きみがホント劉備と蜀と母親のことしか話さない人じゃなくてよかったな~! 

 いるといいなあ綺麗なお姉さんが!」


「いえ、あのー……」



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