記憶に浮かぶ(4)
普段なら行き交う人もまばらな郊外の地下鉄駅。市バスの最終がそろそろ出るという時間帯なのに、冴子たちが駆けつけた時には駅のホームの周りを張り詰めた喧噪が満たしていた。
非常線が張られ、制服姿の警察官があちこちで動き回っている。駅前に何台も停まったパトカーの回転灯が眩しい。
事件現場。事態はもう、冴子たちの手を離れてしまった。
『事象』が人に、人の心に及ぼす負の影響を事前に突き止め、引き込まれるのを防ぐ――そんな風に簡単に物事が片付けば、苦労はしない。冴子は苦く重い何かを飲まされたように、深いため息を付いた。
「こっち側、だったっすね。けっこう意外でした」
職場への簡単な報告を終え、公用車を降りた亮太が冴子に並びかけてくる。ぼそっとしたつぶやきに、冴子も頷く。
「らしさがない、かな。私も全然気付けなかった」
「僕もイメージ湧かないっすよ。地下鉄の駅と大きい道路とバスターミナルと住宅街って、こういうのとは縁遠いっつーか」
思いもかけない非常事態に、慌ただしい空気…… というか殺気が満ちている地下鉄駅の構内。
だけど――。冴子は目をこらして、非常線の向こう側に意識を向ける。ここには『事象』の、少なくとも人の死を引き起こすような強いものの気配は感じない。
一体、何がどうなっているのだろう?
「それに、この駅の中にはいない気がする」
「あー、アレがですか。確かに、あそこが現場だと思うんすけど、ちょっとそういうのは感じないですね」
亮太が手で――指でさすのはさすがに気が引けたのか、あちらですみたいな中途半端なゼスチャーで示した先には、たくさんの警察関係者が集まっている。
本当なら、あの場所まで行って確認したい。けれど、冴子たちにはそれは許されていない。
冴子たちはあくまで、少々の特殊な業務に携わっている市役所の職員だ。警察や病院やその他の『事象が現実世界に及ぼした影響』と関わりが深い領分に踏み込めることは、まずない。
だいたいが歓迎されないか、うさんくさいものを見るような目で最小限の協力を得られるかくらいで、身分証を見せて「お疲れさまです」なんて言いながら非常線を越えることなど、夢のまた夢だ。
「すんません、現場ってあそこですか?」
歯がゆい思いに落ち着きをなくしている冴子を尻目に、亮太が非常線の内側にいる年配の警察官に何気なく声をかけた。ちょっと、高松さん…! 慌てて割り込もうとする冴子をやんわりと遮って、亮太が軽く職員証を掲げてみせる。
「あんたたち……。あー、アレ、そっちの?」
「ですねー。入れないのは分かってるんですけど、何かこっからでも分かればなーと思いまして」
「んだなー」
亮太の意外なコミュニケーション能力の高さに、冴子は内心舌を巻く。
非常線の見張りをしている警察官は何人かいるが、その中で何かしらの反応をくれそうな人を選んで、実際にコンタクトに成功した。冴子と話す時とは違いお国言葉を混じえて話しかけたことも、警察官の心の垣根を下げた気がする。
こういう亮太のやり方は、よそ者の冴子には到底できない芸当だ。いや、そもそも初対面の人との会話が50歳になった今でも苦手なのだから、それ以前の問題か。
「警察の人から見ても、何かおかしい雰囲気とかありました?」
「犯人か? んー、かも知れねえ。公園の方からまっすぐに突っ込んできて、グサッとやったらもう呆けてしまって、泣きながら包丁もそのまま放り出しちまったって。目撃者が言うには」
「無差別、とか、そういうんじゃないっぽいですね」
「ありゃ、恨みだな。けど、恨みを晴らして大人しく観念したっつー感じじゃなくて、もう魂が抜けたみたいに呆けてしまって、俺らが来るまで座り込んでたって」
「そうですか……。ありがとうございました。お仕事、邪魔してすみませんでした」
丁寧にお辞儀をして、亮太が警察官から離れた。冴子と視線を合わせ、うなずく。
「ありがとう。情報収集、助かるわ。やっぱり…… 私たちが追ってたの、これだったのかしら」
「だと思いますね。聞いた限りだと犯人、あっちの方から走ってきて、構内にいた被害者の人にまっすぐ突っ込んでったみたいっす」
被害者がいない方角だからか、今度は遠慮せずに人差し指で森林公園側の入口を指し示す。
警察官も確かにそう言っていた。何かが引っかかる。いや、事前に聞いていた情報の通りだったのだから、場所は間違えていたとはいえ納得はできるはずだ。だけど…… 冴子は地下鉄駅の向こう、闇に沈む森林公園の木立に視線を向ける。冷たい霧が、周りからは一段低い低地になっている駅前の広場にたゆたっているのが見えた。
その時だった。それは突然に、冴子の心に飛び込んできた。あまりに突然すぎて、冴子は自分が声を上げたことに気付けないほどだった。
「――章!? どうしてここに……?」
非常線からは少し離れて現場周辺の写真を撮っていた亮太が、その声に反応した。ただならぬ様子を感じ取ったのだろう。冴子の左手首を強めにつかんで、亮太は自分の方に意識を向けさせた。
「先輩、小松島先輩」
「章が――。今、あそこに……!」
「すんません、良く分かんないっす。ちょっと深呼吸したら、説明してもらっていいですか?」
「あ……」
辛抱強い亮太の言葉で、飛びかけていた冴子の意識がこの場所に――事件現場に居合わせている自分の立ち位置に――何とか戻ってきた。
危なかった。冴子は何度目かになる身震いを覚える。
市役所の職員。事象の監視。できれば悪影響の阻止、できなければ簡易な調査。報告。
今の自分を構成する事柄を思い出しながら、そして適切な亮太の声かけに感謝しながら、冴子は心の中にもう一つ、暗く苦い思いが広がっていくのを止めることができなかった。
『事象』に関わる人間の多くが兼ね備えた特質。予感。太古の昔から「虫の知らせ」などと呼ばれてきた、未来に関わる何か。
――私はこの先、この町で、幼なじみと再会することになるだろう。おそらくは望まない形で。
冴子は静かに覚悟を決める。事件現場を行き交う警察官たちの慌ただしい足音が、冴子の予感をはやし立てる様に心の中に響いていた。
霧に沈む/記憶に浮かぶ 黒川亜季 @_aki_kurokawa
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