記憶に浮かぶ(2)
「……高松さん」
「あー、はい」
少し溜めのある冴子の呼びかけで、彼女の言いたいことを察したらしい。頭をぽりぽりとかきながら亮太が自分の言葉を訂正した。
「事象、でしたね」
「我ながら細かいとは思うけどね。こういうのって、癖だから」
「それで、出ますかね……。事象は」
前世紀、飛躍的な発展を遂げていた頃の科学は、いずれ世界のすべてを説明できるようになると信じられていたという。そしてその発展の副次的な作用として、ヒトの精神活動が産み出した世界、ヒトの精神活動がもたらす物理法則と異なる力は、すべてが妄想であり現実には存在しないと、これまた無邪気に信じられていたという。
そんな牧歌的な時代から数十年、いくつかの画期的な発見と社会全体をゆるがす大きな出来事が重なり、社会は
人間が存在している目の前の物質世界――自然科学の法則が支配する世界。それと重なり合うように、もう一つの、人間たちの精神的な活動とつながっている世界があるということを。
それまで信じてきた常識をひっくり返された時、それを端的に表す古い単語を死んでも使いたくない(受け入れたくない)この国の指導者やその頭脳たちは、外国で作り出された概念や用語に飛びついた。
アメリカだかドイツだかの著名な研究者が論文の中で用いた造語「人間の精神活動が現実世界に及ぼす事象(Events in which human mind affects real world)」を呼び名として採用し、カタカナで呼びやすいように中途半端に頭文字を取ったE-HuMARW、またはイーヒューマという略称が公式に定められ、使われ続けている。
しかし現場の人間たちにとっては、そんな葛藤など知ったことではないし、ましてや科学だの迷信だのの区別にあまり関心のない人たちならもっと遠慮がない。目の前にある現実が全てであって、昔の人たちの方がモノを知っていたくらいの物言いをする人たちもいる。
冴子たちには、立場上それが許されていない。こうして、夜間に二人で仕事をするような場面で、誰も聞いていないと分かっていても、用心に超したことはない。だからといって面倒なカタカナ語を使う気にはなれないから、許容されている『事象』の呼び名を慎重に口にする。
事象。人間の精神活動が現実世界に影響を及ぼして起こる何か。
人間が生きている世界に重なるようにして存在する、もう一つの世界。
ふたつの世界をつなぐもの。肉体上の死が生み出す精神的な力の噴出。
そこに冴子たち――『事象』を感知することができる者たちが加わる。
特別な選抜を受けた後に県庁やら市役所やらに籍を置き、市民の安全や環境を守る部署の下に設けられた怪しげな室に所属しながら、『事象』が市民社会に及ぼす悪影響を最小限にするべく日夜心身を削っている者たち。
彼女や亮太は、『事象』を見たり聞いたりできるという特異な能力により公的機関の特別な部署に属することになった変わり種の、平たく言えば霊的な何かから市民を守る義務を負った公務員なのだった。
*
ぞわっ。古典的にそう表現したくなるような寒気が冴子の両腕を走り抜ける。
これは、近い。事務担当者から伝えられていた通り、やっぱりこの森林公園のどこかに
自分の中にある『事象』に対する感覚が、どんどん尖っていくのがわかる。
「もしかしたら、途中で起こすことになるかも知れない。そうなったらごめんなさい」
厚着の上から腕をさすりながら、冴子は亮太にあらかじめ詫びた。亮太も雰囲気は感じ取っているのだろう、いいっすよ全然、と軽く冴子に返して後部座席の寝床に潜り込む。
運転席から、森林公園を縁取る暗い木立を見上げる。年月を経た木々も夜になるとかしましく立ち騒ぐので(もちろん音声は発しないが)、ここに来た目的の『事象』を感知することがとても難しい。
でも確かに、この公園のどこかにはいる。それは確信だった。
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