記憶に浮かぶ

記憶に浮かぶ(1)


「――小松島こまつしま先輩、すみません。そろそろ時間です」

「章……?」

「アキラ…… じゃないっすね。高松たかまつっす。大丈夫ですか?」

「……ああ、ごめんなさい。交代時間、そうだったわね」


 記憶の中にある出来事とつながった夢は、時間の感覚を信じられないくらいに曖昧にする。自分が今いる場所が特別あつらえの公用車の中で、声をかけてきたのが職場の後輩の高松亮太りょうただということを理解するまで、小松島冴子の思考はまるで霧の中をさまよう様に行ったり来たりした。


 街灯の明かりが、ぼんやりと車内を照らしている。その暗がりの中で冴子の目の前には、今、夢の中で見てきた故郷の無人駅の情景が重なるように広がっていた。


 生まれ育った、山あいの小さな町。高校を卒業するまでの3年間、通い続けた道。駅前がどこにあるのかも良くわからない小さな無人駅。森に続く坂道、、、、、、

 晴れの日も雨の日も、あまり多くはないけれど雪の日もあった。それなのに夢の中の――あれが実際にあったことなら記憶の中の――冴子が見ているのは、いつも決まって視界を遮るように重く垂れ込めた霧と、細かく降り注ぐ雨と、白と灰色のおぼろに沈む町の景色だった。


「交代する。ちょっと待ってて」


 運転席にいる亮太にそう声をかけると、冴子は手ぐしで髪を整えて起き上がった。

 外からは普通の営業車両に見えるこの車の後部には簡易ベッドが2つ並べられていて、基本的に夜間、ペアで動く冴子たちが交代で仮眠を取れるようになっている。

 冴子はかかとの柔らかい靴(スリッポン、というのだそうだ。未だにその奇妙な呼び名に慣れない)を引っかけると、いったん車外に出た。


 冷え冷えとした夜気が、襟元や袖口から静かに入り込んできては50を越えた身体を締め付ける。吐く息は白く立ち上って、夜の闇に吸い込まれていく。


 そうか、ちょうどこの季節だったのか。

 さっきまで見ていた夢との符牒に思い至って、奥深そうで意外に単純な自分の思考にちょっと気が楽になる。

 そうだ。あれも10月の終わり――ハロウィンの頃だった。高校生だった冴子が最後に章を、幼なじみの北山きたやま章の背中を見送ったのは。いや、向こうは冴子に気付かなかったのだから、見失ったというべきか。


「いきなり寒いっすね。風邪とか、大丈夫ですか?」


 運転席からのっそりと現れた亮太が、そう言って両手を擦り合わせる。突然、外気温が下がったわけではなく、彼が言っているのはたいそうとか甚だしいとか、そういう意味の「いきなり」だ。

 この町に住んで通算すれば30年以上になるが、言葉の端々に見え隠れするこうしたニュアンスはいっこうに自分の中でしっくり来ないまま時間だけが累積していく。ある意味ずっと、外から来た人なのだろう。自分みたいな、心をどこかに置いてきてしまった人間は。


「大丈夫。だけど確かに今日は冷えるわね。次からはもう1枚、何か持ってきた方が良さそうだわ」

「僕、セーターなら持ってますよ。貸しましょうか?」

「今日はまだいいわ、ありがとう。あと2時間くらい…… 頑張りましょう」


 関東よりはずっと寒く、北海道よりはまだ暖かいこの町の秋の終わり。冬まであと少しという季節に入ったこの頃は、昼間でも服選びが難しい。

 “市民のみなさま”の目にはなるべく触れないよう、極力目立たない姿で昼も夜も仕事に励むことが冴子や亮太には課されているが、人目のない夜のシフトは比較的自由が利く。

 自由とはいっても、目立たず動きやすいという原則は変わらないし、面倒ごとというか本番はたいてい夜の方だ。明日にでも量販店で暖かい何かを買ってこないと。


 遠くにぽつんとたたずむ街灯の光がぼんやりと陰って、冴子は辺りに霧が立ちこめてきているのに気がついた。

 まるで、記憶の中のあの場所から流れ出てきたみたいな――。

 いけない。過去に、ここではないどこかに気持ちが引っ張られるのは良くない兆候だ。

 夜の闇、人気のない場所、そして私たちがここに来ることになった理由。

 条件は、もう既に整っている。


「小松島先輩」


 車から降りたものの、交代する気配を見せない冴子を促すように、亮太が小さく声をかけてきた。冴子は街灯と、その向こうに広がる家々の明かりに目をやり思いを馳せる。大丈夫、ここは街中で、たくさんの人たちが普通に暮らしてる場所で、寝静まるにはまだ早い時間帯だ。

 だけど冴子は、町の明かりから隔絶されたように大きく広がる暗闇にも目を向けてしまった。この町の二つ名である木々の都に相応しく、昼間なら目の前に緑豊かな森林公園が広がっているはずだ。

 地下鉄駅に直結する公園の入口にはジャスミンの名を冠した女性の銅像が静かにたたずんでいて、普段は独特の静けさを辺りに漂わせている。でも今は。

 銅像も花壇も林道も全てが闇に塗り込められてしまって、冴子たちの前に大きく口を拡げている。その向こうには、こことは違う、私たちとは違う――。


「ごめんなさい、そうだったわね。ちょっと寝ぼけてるのかも」

「先輩、大丈夫ですか?」

「何が…… って、寝起きでぼーっとしちゃっただけよ。体調は問題ないし」

「いえ、そっちじゃなくて、あっちの方です」


 冴子の視線を追いかけるように、亮太も森林公園が作る巨大な暗がりに顔を向けた。視界が効かない中でも、面倒ごとを目の前にしたような物憂い雰囲気が伝わってくる。

 そろそろ… と、彼の感覚にも何かが響いているのかも知れない。


「あっち、ね。まあ、私たちが来てる以上は遅かれ早かれ――」

「出ますかね、幽霊」


 私の先輩風を遮るように、亮太の言葉が夜と霧の中に吐き出される。その直接的な表現に、私は思わず息を呑んだ。

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