湯気

跡部佐知

湯気

 流れる夜のなかを、街と山と畑と木々が時速三百キロメートルで入れ替わる。夕方に東京駅を発ったはやぶさは、今、常闇の風を切っている。窓に映るのは物憂げな表情をした私だけ。ぱっちり二重の吊り目に、調えられた平行眉。淡い口紅と、日焼けしたときみたいな薄桃色のチーク。白い屋根も、深雪も何も見えなかった。永遠と暗い場所を駆け抜けていた。

 夜の新幹線の車窓が映す私の顔は、いつだって大人に見える。

 新幹線の速度が落ちると、背の高いビルの並ぶアーバンな街が広がる。車体がゆったりと傾けば、駅メロと地名を告げるアナウンスが聴こえた。しゅーっという音と共に扉が開いた途端、都会から運んできている張りつめた空気も抜けていった。帰ってきたのだ、仙台に。

 ペデストリアンデッキに出ると、冬のの切なく冷たい東北の空気が肺に入り込んできて、内臓がひゅっと冷えていく。

 薄灰色のコートを強い風が揺らす。

 家の近くまで地下鉄に乗る。電車内は、美容整形の広告や脱毛の広告が嫌でも目につく。女の子はかわいくなきゃいけないのだろうか。

 閑散とした最寄り駅で降り、アパートに着いて灯りをつけた。

 ポストに入っていた就活関連のダイレクトメッセージを斜め読みしてゴミ袋に投げる。

 東京の会社説明会から帰ってきたばかりの体には、そんなものはもうこりごりだった。大体、明後日にもまた東京で面接があるのに、今はもう忘れさせてよと思う。

 本当は東北にいたいけれど、大きな会社に勤めるには東京が手っ取り早い。同級生は大学院に行く人も多いけれど、就職希望の子たちの過半数は東京に就職するらしい。

 今ごろ、郷里の秋田は地吹雪が鳴っているだろうかと、ぼんやり考えていた。メイクを落として、足を伸ばせない窮屈なお風呂の横で立ちながらシャワーを浴びた。あと十センチ背の小さい女の子に生まれていたら、かわいくなれたかなあ、お風呂で足も伸ばせたかなあと考えながら、俯いた先にある二十四・五センチメートルの大きな両足を睨む。それに、もっと胸があれば足なんて見えないのに。

 裸の私は、東京で折りたたんでいた羽を懸命に伸ばしていた。今日の晩ごはんの献立のこと、エントリーシートの提出のことなど、考えなくてはならないことは星の数ほどあった。むしゃくしゃしたまま、半ば八つ当たりみたいにわしゃわしゃと髪を洗った。胸元の下まで伸びた長い髪を洗うのも手間がかかる。濡れた黒髪が漆黒になって浴室の光を反射した。

 コンディショナーも洗い流して、都会に汚れた体を念入りに洗った。シャワーを浴び終わるころには、悩みの半分は排水溝に吸い込まれていた。もう半分はドライヤーの温風が吹き飛ばしていった。

 お気に入りのうさぎのキャラクターが胸もとにあしらわれた水色のパジャマに袖を通すころ、私はご機嫌になっていた。

 歯を磨いて、日記をつけた私は、床に散らばった大切なものたちを踏まないようにベッドへ飛び込んだ。

「はあ、今日も頑張ったなあ」

 布団のなかで私が三年間作り上げてきた、年輪みたいなくぼみを探し当てて、横向きの寝姿を作る。落ち着く体位を見つけると、疲労はじわじわとほぐれていった。


 翌朝、妙な静けさで目が覚めた。

 遮光カーテンを開けると、住宅街の屋根が白く染まっていて、印象派の画家が描いた絵みたいな光景が広がっていた。

 はらはらと雪が降っていた。大学に行く準備をして家を出た。

「今日はお留守番だからね」

 自転車の冷たいサドルを指先で撫でる。

 雪が降ると胸が高鳴る。太平洋側に位置する仙台は、秋田と違って晴れている日が多い。仙台に来てから、故郷にいたときは嫌いだった雪の日が好きになった。

 川に架かった橋が見えると、もう大学も近い。

 粉雪がアスファルトの上で解け、路面をシャーベット状の新雪が路面を覆っていた。雪靴で橋の上をるんるんと歩いている私の横をマウンテンバイクがびゃっと通り過ぎる。

 心臓がひゅんと縮こまるのを感じた。歩道を走っていたマウンテンバイクは、橋を渡り終えた先で盛大に転んでいた。

 私は駆け足で橋の向こうまで行った。

 男の子は体勢を整えようとしているが、上手く起き上がれないようだった。左手の指先には鮮血が滲んでいる。

「大丈夫ですか?指、血出てますよ」

 絆創膏を手渡すと、彼は礼を言って立ち直り、そそくさと去って行った。

 研究室に着くと、友達の双葉ふたばが待っていた。

「おはよう」

「おはよう。今日はちょっと遅かったね」

 壁掛け時計の針は、午前十一時を示している。

「うん、色々あって」

「また道案内とかしてたの?」

「ううん、男の子が転んでたから、絆創膏あげただけ」

なぎさは知らない人にも優しいよね。献身的っていうか」

「ありがとう」

 頬のところが熱を帯びている。

「今日、進捗発表の日だったよね」

「それが、雪降ったから来週に持ち越しだって。先生が言ってた」

「わ、そうだったんだ」

 双葉は、お湯を沸かし、戸棚のなかから私のマグカップを持ってきてくれた。そのまま、紅茶を淹れてくれた。

「今日は先生も来ないみたいだし休もう。乾杯」

「ティータイムに乾杯」

 窓辺から、綿めんみたいに優しい雪が降っていた。風もなく、垂直に舞うそれは映画のエンドロールのようだった。

「雪の日に飲む紅茶はおいしいね」

「私が淹れたからでしょ」

 双葉は、茶化すようににやけている。

「それもそうかもね」

 双葉は百六十七センチメートルの私より一回り以上小さい。百五十センチメートル前半の背丈で、かわいらしい丸顔をしている。とろんと垂れた目尻に、白い肌。それに、胸もある。黒や藍色のような、クレヨンに並んでいたら調和を乱してしまう色味の服ばかり着る私と違って、彼女は繊細なパステルカラーがよく似合う。

 研究室の黒いテーブルを挟んで、透明感のある双葉をぼーっと見ていた。

「なになに、どうしたの」

「別に」

 気にしていないような素振りで紅茶に口をつける。

「なによー」

「言わなきゃだめ?」

「そこまで言ったなら言いなよ」

 彼女はひょうひょうとしていた。

「双葉ってかわいいよね」

「急だね。なんかあったの?」

 双葉は目を丸くしている。

「わたし、かわいくなりたい」

「かわいいかあ、難しいね。渚はかわいいっていうより、綺麗って感じることが多いかも」

 傷ついたらごめんね、と双葉が付言した。

「ううん、嬉しいよ。ありがとう」

 双葉は少し間をおいて考え込んだあとに言った。

「渚の思うかわいい女の子って、どんなの?」

「背が小さくて、華奢で、胸が大きいとか」

「欲求に忠実過ぎない?それ」

 双葉はことこと笑っている。

「わたしは真剣なんだけど」

 冗談交じりにいじらしく、語気を強めてみた。

「ごめんね。でもさあ、背が小さくて、胸が大きくてって、それはもう渚じゃないじゃん」

「たしかに今とは違うけど、にゅーかわいい自分になりたい」

 二人でけたけた笑った。

「コンプレックスだって、思いやりのある渚の心の一部なんでしょ?渚の気持ちも尊重するけど、かわいいは作れても、心に化粧はできないからなー」

 それもそうだよなあ、と双葉の言葉に納得する。私の良さは見た目じゃなくて内面にあるのかもしれない。だとしたら、どうしてかわいくなりたいんだろう。

「双葉の言う通りだね。それに、変わりたいと思うことって、今の自分を好いてくれている人を切り離すことなのかも」

「それは言い過ぎな気もする。変わりたいと思ってる渚のことも好きでいるでしょ。それに、人は案外他人なんて気にしてない。気にかけるのは他人でも、気にするのはいつだって自分だよ」

 私は渚の胸の大きさとか、気になったことないよ、と双葉が微笑む。

 恥ずかしくなって、空になったマグカップを見つめた。

「そういえば、これ。発表会の資料なんだけど」

 まとめられた薄い紙の束を彼女に手渡した。

「いいの?ありがとう。じゃあこれ私から、お礼の気持ち」

 彼女が私にくれたのはバスボムだった。不透明な包み紙越しに確認できる薄紫色の球体からは、ラベンダー畑の景色が淡く浮かぶ。

「バスボムだ」

 口角が自然と上がる。

「渚、こういうの好きでしょ。ほんとは今日の発表終わったら渡そうと思ってたんだけど来週になっちゃったからね」

「ありがとう。嬉しい」

 空腹を感じて時計を見ると、時刻は正午を過ぎていた。

「あ、献血の予約十三時から入ってたんだった」

「今から間に合う?たしかエスパルの近くだっけ」

「そう。多分間に合う」

「雪道、滑らないように気をつけてね」

 お互いに手を振って、私だけ先に研究室を後にした。

 青色のコンビニに入って、手ごろな価格の菓子パンを買って食べながら歩いた。市営の地下鉄に乗って十数分もすると駅ビルの近くに着いた。

 予定の時刻より三十分早く着いた私は、駅隣接の高いビルの頂上から、仙台市を見下ろしていた。遠くに青葉山が見えて、もう反対側からは海が見える。青葉山のほうに、私がさっきまでいた研究室が入っている建物が見えた。

 郷里の秋田よりも、ずっと都会で大きいと思っていたこの街は、簡単に見下ろせるほどに小さいらしい。現に、足元を新幹線が駆け抜けている。

 献血ルームのある階層にエレベーターが着いた。血圧を測り問診を済ませる。今日もまた成分献血だった。血をそのまま抜く全血献血と違って、成分献血は血中の一部の成分だけを抜き、成分を抜いた血を体内に戻す。だから二週間に一回は成分献血ができる。

 就活と研究の二足のわらじで忙しい大学三年生の今も、一年生のころから続けているこの習慣を守っていた。

 普段から献血を続けているせいか、左腕には青紫色の痕が残っている。看護師さんが、その針の痕の近くにある太い血管に向けて、針を刺した。

 ちくり、と多少の痛みを覚えたが、すぐに何ともなくなった。

 一年生のころ、看護師さんに血管の太さを褒められたことがある。血管の太さは才能のようなもので、太くしたりすることはできないらしい。

 健康で血管の太い体に偶然生まれたのだから、率先して献血に行くようにしている。

 献血が終わると、またお腹が減った。献血のあとはいつも、カツオのたたきみたいな、鉄分のたっぷり入ったものを食べたくなる。

 帰り際に、顔なじみの職員さんが、いつもありがとうねと言いながら、赤いポケットティッシュをくれた。私はそれをコートの内側のポケットへ雑に突っ込んだ。

 ペデストリアンデッキの上を歩く人は、粉雪にはしゃいでいた。駅の連絡通路のなかは、色んな人の喋り声がして、郷里のお祭りのときみたいで、何度くぐってもそわそわする。アーバンで、お洒落な東北のニューヨーク、仙台が好きだ。

 駅周辺をぶらついていると日も暮れていた。家に帰るために地下鉄に乗り、最寄り駅の近くにあるスーパーで、カツオのたたきを買った。今日は、頑張った自分へのご馳走だ。

 一人で暮らすようになってから、自分で自分のご機嫌をとるのが上手くなった。二十一歳になっても、腕に針を刺すのは怖いし、ちょっぴり勇気がいる。それに、困っている人に声をかけるのだって、断られたらどうしようかといつも思ってしまう。

 炊き立てご飯にカツオのたたきを乗せて、その上に付属のたれをかけてあげた。菊の花がないのが寂しいけれど、一人暮らしには特上の贅沢だ。

 一人でごはんを食べるとき、話し相手もいないから自然と考え事をする時間が増える。

 双葉は、私のことを献身的だとか、優しいと言ってくれるけれど、私はいつから今みたいな献身的な気質の人間になったんだろう。双葉に出会う前の私は、一人で暮らす前の私は、一体どんな風だったっけ。

 お風呂に入るときに、止血用の絆創膏とテーピングをばりばり剥がした。痛みを感じながら絆創膏の内側を見ると、赤黒い血痕が付着していた。

 双葉から貰ったバスボムを浴室のシャンプーの横に置いた。献血のあとに入浴すると体に負担がかかってしまうから、今日もシャワーだけでお風呂を済ませた。明日東京から帰ってきたら、絶対に湯船に浸かろうと胸に誓った。

 双葉が言ったように、背が高くて胸が痩せているのも、私のアイデンティティの一部なのだろうと思った。華奢な女の子に憧れるのも含めて私だ。

「明日の面接の練習もなあ。今からやっても手遅れだよなあ」

 浴室に私の独り言が反響して、虚しさだけが飽和する。

 でも私、なんのために胸が大きくなりたいんだろう。別に男の子にもてたいわけでも、着たい服があるわけでもない。誰かになりたいわけでもない。

 ああ。

 今の自分が嫌いなんだ。

 湯が温まって、鏡が曇った。裸の私は見えなくなって、ぼんやりとした肌色の靄に変わった。


 翌朝、リクルートスーツを着て、パンプスをブラシで軽く叩いた。メイクもナチュラルに決めて、ラメを瞼に散りばめた。ラメはあまり好きじゃないけれど、かわいいなと思う子はみんなラメをつけている。

 玄関の扉を開けると、朝八時過ぎの外気のにおいと暮らしを感じた。その寒さから、いつもの薄灰色のコートをクローゼットから取り出して羽織った。バッグの中にはポケットティシュにハンカチ。それと筆記用具類が入っている。スマートフォンはスーツのポケットの中に入っているし、とりあえずはなんとかなりそうだ。

 九時発の新幹線に乗ると、私と似たような黒いスーツの大学生が何人かいて、何とも言えない気持ちになった。

 はやぶさの暖色の照明は私の心を落ち着かせてくれた。昨夜(ゆうべ)はあまり眠れなかった。悪あがきみたいに、志望理由や強み弱みについてどう答えるかを考えていたせいだ。面接を受ける繊維系のメーカーの会社について調べるなどして時間を潰した。

 私のご機嫌にかかわらず、新幹線は時間を守り、線形の綺麗なレールの上をまっすぐに走る。そして、私を東京まで連れて行く。

 あっという間に大宮駅に着いて、それから東京駅で降りた。スマートフォンで会社のある駅を調べながら、おろおろと乗り換えをする。最寄り駅に着いても、午後から始まる面接にはまだだいぶ余裕のある時間だった。けれど、東京のおいしいランチなんて知らない。

 青色のコンビニで梅おにぎりを一つ買った。会社の場所を下見してから、適当に街をぶらついた。

「このビル群、仙台何個分かなあ」

 思わず口から出た言葉が、港区の雑踏に埋もれていった。

 秋田県の田舎に住んでいた私は、初めて仙台に行ったとき、見上げるほどの高い建物にびっくりしたの覚えている。同じ日本に住んでいるのに、都市部と田舎では価値観や文化が全然違うのだということを肌で感じた。

 友達との旅行で初めて東京に行ったときは、あまりの人の多さに、どこかでお祭りでもやっているのだと疑わないほどだった。

 それから、学会や就活で何度か東京に来ることはあったけれど、やっぱり東京と私は相容れない。

 東京は、モデルみたいに華奢な女の子がたくさん歩いていて、秋田よりずっとかわいい子が多い。でも、秋田の片田舎の女の子が持っている素朴なかわいさのほうに私は憧れる。東京の女の子は、ひんやりとした、高飛車な美しさやかわいさを持つ女の子が多いような気がする。

 東京の街を歩いていると人の波と情報の海に溺れそうになって、考え事が処理しきれなくなる。面接前に疲れても困るから、会社のビルの入口にある椅子に適当に腰かけてぼーっとしていた。何かが始まる前に、もうその何かの決着はついているような気がしてならなかった。

 面接の十五分前に、会社のオフィスが入っている階層まで上がった。既に待っていた人事の方へ挨拶をした。

「仙台から来ました。東北大学三年の藤田渚です。よろしくお願いします」

「お待ちしておりました。藤田さんですね。よろしくお願いいたします。こちらへどうぞ」

 人事の方と少しお話をした。現在ほかに選考を受けている会社があるかどうかとか、そういう詮索めいたことが多くて、企業側の人も大変なんだろうなと察した。談笑したあと、面接室の前まで案内された。

「今回は、人事部長と、その他部長の方々の計三名の面接官がいます。緊張すると思いますが、応援しています」

「はい、ありがとうございます」

 この会社の志望度は高い。しかし、落ちても何とかなるだろうという諦観めいたきらいがあるせいで、緊張が込み上げてこない。

 ノックを三回した。

「失礼いたします」

「どうぞ」

「こんにちは。東北大学三年の藤田渚です。今日はよろしくお願いいたします」

「うん、じゃあこっち座ってね」

「失礼します」

 それから、志望動機や、工学部を選んだ理由、繊維系のメーカーに興味を持った理由などを話した。

 受け答えは難なくできた。一つ気になったのは東北であることを下に見られているように感じられたということだ。

「藤田さんはさ、東北から来たの?」

「はい。東北地方の仙台から参りました」

「へぇ、遠いねえ。東北だってさ」

「東北ねえ、何があるんだろうね」

「うちの会社はほとんど関東出身の人ばっかりだから、地方のことはわからないなあ」

 面接官同士で楽しそうに話している。地方という言い方にどこか引っかかった。

「藤田さん、仙台はどうですか?」

「はい。仙台は都会で、東北の人たちがたくさん集まっていて、住みやすくて素敵な街です。ふるさとの秋田よりも雪も少なく、便利です」

 面接官はにこにこしている。

「仙台が都会ねえ、まあ、牛タンとかおいしいよね」

「そうですね。私も好きです」

「東京はもっと便利で雪も降らないから、過ごしやすいと思うよ」

 私は、都会の人たちから見られた仙台像に、偏見という名の烙印を押されているような気がしてならなかった。秋田で生まれた私にとって、雪のない冬は寂しい。

 私にとっての仙台は十分便利だ。東京は十二分に便利なせいで、人がごった返し、反って不便になっていると思う。

 多分、あの人たちにとっての東北は、田舎で、過疎地で、寒くて不便なところという印象しかないのだろう。東北はそんなところじゃない。東北は、私にとっての生まれ故郷で、大切な大学の友達もいて、東北に生きる人たちの人生をたくさん目にしてきた。旅行するような通過点ではなくて、そこに身を置く終着点だ。

 もやもやした気持ちで終えた面接の手応えからは、ここで頑張る未来が見えなかった。

 面接後も、人事の方に面談という体で探りを入れられた。合否云々の前に不快感という結果が先走っていた。

 ぼんやりした気持ちで乗り換えて、東京駅で北へ向かうはやぶさに乗った。

 大宮駅を過ぎ、次は仙台、というアナウンスに心が落ち着いた。ほろほろと涙が零れてきた。バッグの中に入れてあるポケットティッシュを開けて、涙を拭いた。

 三十分以上すすり泣いているのに、誰一人声をかけてくれないのが悲しかった。私だったら、絶対にポケットティッシュの一つくらい手渡すから。自分がそういう特性を持った人間だからといってそれを他者に求めるのは違うってわかってる。わかってるけど、理解と感情の動きは連動しない。

 少し綺麗な私が泣いている。車窓の先の闇のなかで、ラメと涙がきらきらしている。

 常闇を薙いでいく新幹線の車窓が反射する私は、やっぱり大人に見える。スーツ姿で泣いているだなんて、ドラマのヒロインみたいだな、なんて思った。

 仙台はまだだろうか。

 私って何者なんだろう。

 どうして、大学を卒業したあとに見合う仕事が東京ばかりに集中していて、若者が東京に集まるんだろう。本当は一人一人に生みの親がいて、それぞれ住みたいところがあるはずなのに、社会的に地位の高い仕事をするとなると必然的に東京の大企業に吸い込まれていくのはどうしてだろう。

 そもそも地位が高くなくてはいけないのだろうか。

 子供に勉強しなさいと、口を酸っぱくして言った先の末路にあるのが就活か。

 藤田渚って、誰なんだろう。本当にやりたいことって、なりたい私って、なんだろう。

 考えても、考えても答えの出ない命題の輪郭が、ふわふわと新幹線を飛び抜けて、日本列島を超えて空に届いた。そのまま突入した大気圏を抜けて、太陽系を超え、宇宙の彼方までぐるぐると悩みの輪郭が広がっていった。

 東北にいたい。地位なんて度外視して東北でちゃんと会社を探そう。涙を拭くティッシュも底をつき、立ち上がって残骸を捨てに行った。席に着いた後、ぼろぼろな顔面の私が夕闇の車窓に映っていた。この涙は、子供のころには知り得なかった味をしていた。


 列車が緩やかなカーブを曲がるころ、車内アナウンスで目が覚めた。

 駅に降りると、街の広告やテールランプが光っていて、ペデストリアンデッキにはたくさんの人が歩いている。

 あの高い建物も街の灯りたちも、誰かの向上心によってできていて、それが東北を動かしているのだと思った。さっきまで私が乗っていたはやぶさも、誰かの向上心が積み重なった英知の結晶だ。

 私は、ただ勉強が大事だと言い聞かされて続けていくうちに、頭のいい大学に受かっただけ。受験生のころはその先に就職があるだなんて想像ができていなかった。仕事のために生きるような人が多いのも知らなかった。みんな価値観がそれぞれだから、色んな仕事があって、それで生活が成り立っている。

 地下鉄で家まで帰ろうとすると、人身事故で電車が止まっていた。

 向上心を持ち過ぎた人は、どこか壁につまずいたときに、理想と感情の乖離に悩んで自分で自分を殺めたりする。競争を加速させるレースみたいな社会が、人の命を追い詰めるくらいなら、全員が諦観していてもいいような気がした。ほどほど便利な生活があれば、それ以上は向上しなくてもいいのではないだろうか。

 工学部で技術の発展に伴う生命倫理は習ったけれど、経済の発展に伴う倫理はシラバスに載っていただろうか。やる場のない悲しみを抱えたまま、私は歩いた。

 ひどく虚しくて泣きたくなったがティッシュはもう使い切ってしまった。かといって、手を拭いたハンカチを顔に当てたくなかった。

 私は、薄灰色のコートの内ポケットのなかに献血で貰ったティッシュが入っていることを思い出し、それを手に取って涙を拭いた。

 自分の優しさに自分が救われているのがおかしくて、泣きながら笑っていた。涙で滲んだ視界から見上げた星の光が綺麗だった。背伸びしたパンプスの踵の痛みも気にならなかった。

 家に着いてすぐにスーツを脱ぎ捨て、洗ったお風呂にお湯を溜めた。三日ぶりくらいに入る湯船にわくわくした。

「お疲れさま、わたし」

 ただいまでも、お帰りでもない挨拶が一人部屋の壁に吸収されていく。

 お湯が溜まったのを確認し、双葉から貰ったバスボムをそっと入れた。

「いいにおい」

 お湯が少しずつラベンダー色に染まっていくように、空元気だった私の笑顔も、双葉のくれたバスボムが本物の元気に変えていく。

 温まったシャワーで靄のかかった鏡を洗い流すと、等身大の女の子が写る。

 充血した目。痩せた胸。すらりとした体。

 メイクも崩れた汚い私がにっこりと、鏡に顔を近づけて笑顔を作った。

 この社会は、どうやら自分を犠牲に身を尽くしても、他者から優しくされるわけではないらしい。

 けれど、私の犠牲的行為は血液みたいに循環している。

 理想の私じゃないけれど、身も心も裸な私が血と心を作り、昨日より誰かに優しくなれる。私はわたしのことが嫌い。でも、だからこそ献身的になれる。

 シャワーで体を洗い流して、ラベンダーの香り漂う湯船に浸かった。温かさと柔らかさに包み込まれていた。足を伸ばせないお風呂の、おくるみのような窮屈さが心地よかった。

「悪くないかも。うん、悪くない」

 鼻声交じりの健気な声が、湯気と一緒に換気扇をくぐった。

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湯気 跡部佐知 @atobesachi

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