第五章 暗幕⑤
幽霊がきた。復讐するために甦ったのだ。
頭から布団を被り、志穂はがくがくと震えた。
割れた額が痛い。骨折した足も。なにより、孤立無援だというのに歩くことさえできないこの状況が恐ろしい。
「ママ、誰にも私がこの病院に入院していることを知らせないで。先生にも駄目よ」
不可解なお願いを母は聞き届けてくれたし、無理を言って個室を用意してくれた。
それなのに、あいつはやってきた。
病室に入ってくるなり、悪魔は薄ら笑いを浮かべた。
「かわいそうにね、志穂」
分厚い眼鏡、長い前髪。陰気な昔の姿で悪魔、立花月葉はそう言った。
憐みと恨みの篭った暗い声。
ああ、やっぱりさとこサマは罪人に罰を下そうとしているのだと、志穂は絶望した。
月葉が壁の電気を消す。夕闇に包まれた部屋は牢獄のように薄暗い。
月葉はゆっくりとこちらに近付いてくると、握ろうとしていたナースコールを手から取り上げた。
「痛い? 志穂」
「やめて、近付かないでよ」
「やめてって言っても、やめてもらえない。知ってるよね」
奈落のような双眸がじっと志穂を見る。志穂は唇を震わせた。
「知らない、知らないわ」
「やめてと泣き叫ぶあたしを志穂は笑った。ねえ、なにをしたか覚えている?」
月葉が志穂とまりえの悪行をとうとうと語り出す。無機質で冷たい月葉の声を聞きながら、志穂はまざまざと自らの行いを思い出した。
月葉が学校に持ってきていた推しキャラのグッズをゴミ箱に捨てた。水泳の授業中に月葉のパンツを盗んで男子のロッカーに放り込んだ。放課後、月葉を掃除ロッカーに押し込んで閉じこめた。トイレの便器に顔を突っ込ませた。
数々の行いを思い出し、志穂は蒼ざめた。
「罪を悔いろ、悔いねば罰を与えん。悔いても罪は消えん」
目の前にいるのは復讐鬼。さとこサマにのりうつられた憐れな亡骸だ。
「消えなさい、悪霊め!」
「あたしは幽霊じゃない。足はあるし、透けてもないでしょ」
「騙されないわよ」
「疑り深いね、あたしが幽霊だって証拠は?」
「見たのよ。夏休み、貴方が首を吊っているのを見たわ」
月葉はきょとんとした顔をしたあと、クスクスと笑い出した。その笑い声は次第に大きく、けたたましくなる。
「そう。あたしは死んだ。あなたたちのせい」
「ち、違う。私のせいじゃないわ」
「言い訳は聞きたくない。あなたはあたしを殺した」
鈴を転がすような美しく高い声がとてつもなく恐ろしかった。月葉の姿に、陰気なさとこサマの石像の顔が重なって見える。
やっぱり目の前にいるのはさとこサマだ。
「ごめんなさい、本当にごめんなさい」
自然と謝罪が口から零れた。心からの謝罪だったが、月葉は納得できないという顔をしていた。
「謝罪だけじゃ許さない。ねえ、どうやって償ってくれる?」
月葉がじわじわとこちらに手を伸ばす。
ナースコールを月葉に握られていてスマホも手元にないから助けは呼べない。足を固定されていて自力での脱出も不可能だ。
月葉の指先が喉に触れた。ひんやりと冷たい指先は死を強く想起させた。
ガチガチと歯の根が鳴り、目尻から自然と涙が零れた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
「言ったでしょ、謝るだけじゃだめ」
「許して。私はただ、愛や由貴子に逆らえなかっただけなのよ」
「それにしては、嬉々として嫌がらせをしてくれたよね」
「愛や由貴子が月葉は陰口を叩く嫌な奴だって言うから。だから、いじめられてもしょうがないって、そう思ったのよ」
「そもそも、愛たちにわたしが嫌な奴だって吹き込んだのは志穂でしょ」
「ち、違うわ。私じゃない」
「じゃあ、まりえ? そうなら、まりえの嘘を正さなかった親友のあなたにも責任がある」
「まりえでもないわ」
「じゃあ誰? 愛たちに対して発言権がある人なんて、限られている」
氷のような眼差しに見詰められて、志穂はひれ伏す。
「立花月葉の悪口を吹聴したのは―…」
志穂はある一人のクラスメイトの名前を口にした。
嘘じゃない、少なくとも志穂は彼女から月葉の悪事を聞かされた。
その名を耳にした月葉の顔に、なんらかの感情が浮かんだ。憤怒、失望、喜悦。いったいそれがどの感情なのかわからない、なんともいえない表情だった。
その顔はまるでさとこサマの像そのもので、身の毛がよだった。
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