第33話 ライアットの過去




 ライアットの「もう手遅れなんだよ」という言葉が、薄暗い倉庫に重く響いた。


 その虚無的な響きがゼフィラの胸を深く締め付ける。

 彼女の懇願するような瞳は、彼の表情の奥に隠された真実を求めていた。


「手遅れなんてことねぇよ! 今からでも変えられることはある!!」


 それがどれほどライアットの心に響いたかゼフィラは分からない。

 ライアットは「本当にそうなら良かったのに」と思った。


「あたしを信じて話してくれよ!」


 ゼフィラは彼の孤独を埋めたいという切実な願いを持って声をかけ続けた。

 ライアットの瞳の奥で、ヴァニタスの支配とかすかな人間性がせめぎ合う光が揺らめいた。


 その揺らぎは、ゼフィラが彼の唯一の『家族』であるという事実を裏付けていた。


 ライアットはゆっくりとゼフィラを見つめ返した。

 その視線は遠い過去を辿るかのように、彼女の向こう側を見ているようだった。


「……教えても、お前には何もできねぇよ。けど……そうだな、お前には話してもいいのかもしれねぇな。少なくとも俺が何に『うんざりしてる』のか、くらいは」


 彼の声は諦めと微かな哀愁を含んでいる。

 ライアットはゼフィラを突き放しながらも、心のどこかで理解を求めていた。


「俺はな……正の王家の子供だったんだよ」

「え……どういうこと……?」


 ゼフィラは一瞬で混乱してライアットの目を見つめ返す。


「まぁ聞けよ。俺は正の王家の血筋だったが、めかけの子として母親と一緒にこの裏社会に捨てられた」


 ライアットの口から語られる衝撃的な事実に、ゼフィラは息をのんだ。

 目の前のライアットが、あのきらびやかな王都を支配していた王族の血を引いているというのか。

 ライアットからは今も昔もそんな事は感じ取れない。


 信じられない思いで、ゼフィラは彼の顔を見つめる。


「俺の母親は、俺に何度もこう言い聞かせた。『本当は王都で暖かい寝床と食事があるはずだったのに……』ってな。来る日も来る日も、そう聞かされ続けた」


 ライアットの声には幼い頃の憎しみが滲んでいた。

 王都の城壁の向こうで自分と同じ血を持つ者たちが何不自由なく暮らしている。


 その想像が幼いライアットの心に深く根を張り、強い羨望と激しい嫉妬の感情を燃え上がらせていった。


「母親は俺をしょっちゅう殴った。俺の顔が日に日に親父の顔に似てきて辛かったんだろうよ。散々暴力を振るった後に罪悪感があったのか、俺を死ぬほど甘やかした。俺がいつもお前にしてたみたいにな……俺はこれしか知らねぇんだ」


 それはライアットも罪悪感を感じているような言い方だった。

 ゼフィラは自分の服の裾をギュッと掴んで聞いているしかできなかった。


「結局身体を壊して病気で死んだ。この裏社会じゃ、売春婦なんて使い捨てだ。誰も見向きもしねぇ」


 彼の言葉には完全な諦めが含まれていた。


 その瞬間、ゼフィラの脳裏に彼が過去に見せた冷酷な笑みと、無慈悲な行動の数々が壮絶な生い立ちと結びついていく。


 彼の心の闇は生まれながらにして背負わされた運命と、理不尽な死によって育まれたのだ。


「母親が死んだあの頃からだったな。俺は嫉妬の精霊ヴァニタスの加護を得た」


 人々の心の闇を増幅させ、世界を混沌に陥れる精霊ヴァニタス。

 その精霊が、まだ幼かったライアットに嫉妬の加護を与えたのは、彼の境遇を考えれば必然だったのかもしれない。


「ヴァニタスは俺に囁いた。『愛のない世界こそが真の平穏をもたらす』ってな。愛なんて訳の分からないもんなんざ俺は初めからないと思ってるけどなぁ……俺はヴァニタスの思想に強く共感した」


 ライアットの瞳の奥に、遠い過去の記憶が映し出されているようだった。

 彼の心には王都への憎悪と「愛」という言葉に対する深い嫌悪だけが残されていた。


「そして、俺はたった10歳で王家の分家に取り入った。分家の連中は正の王家を疎ましく思ってたからな。奴らに『正の王家を滅ぼして王座に就かせてやる。その代わり俺を優遇しろ』と条件を提示した」


 ライアットの頭脳とヴァニタスの力が、いかに恐ろしいものだったのかを思い知らされる。


「俺は愛の精霊キューピットの加護者をぶっ殺しまくった。愛の力が弱まった世界でヴァニタスの力で大衆を操り魔石戦争を起こさせ、王家を破滅させた……! 沢山の種族と人間が死んだが、俺には関係ねぇ。あれは俺から全てを奪った王家への、当然の復讐だった」


 ライアットは王家を滅ぼしたことを言うときに恍惚とした表情をしていた。

 しかし、その虚ろな瞳の奥には彼がどれほどの絶望と憎悪を抱えていたのかが垣間見える。


「王座に就いた分家からは、たんまり報酬をもらった。それから、俺はヴァニタスの力で裏社会を牛耳る影牙衆を作り上げた。全ては俺の望んだ通りになった……はずだった……」


 ライアットはそこで言葉を区切った。

 彼の視線は再びゼフィラへと向けられた。

 その目は少しだけ過去の影を宿している。


「俺はすべてを手に入れた。復讐も果たした。だがな、ゼフィラ……」


 ライアットの顔にあの寂しそうな笑顔が浮かんだ。

 全ての憎悪を消化しきった後の虚無感と疲労に満ちたような笑顔だった。


「誰も信用できなくなった。ヴァニタスの力で人は操れるが、それは本当の信頼じゃねぇ。どんなに力を手に入れても俺は孤独だった。満たされることなんて何一つなかった」

「ライアット……」


 涙ぐみながらゼフィラはライアットを見つめた。

 そんなゼフィラの頭をライアットは優しく撫でる。


「そんな時だ。19の俺はお前と出会った。俺が王家を滅ぼしたときと同じ10歳のお前と」


 ライアットの指先がそっとゼフィラの頬に触れる。

 その指先は冷たいはずなのに、どこか熱を帯びているように感じられた。


「お前は他の奴らとは違った。俺を恐れず、真っ直ぐに接してくる。喧嘩っぱやくてよ……全然体格も違う俺にも恐れず殴りかかってきたよな」

「…………」

「お前は俺の口のピアスがカッコイイとか言って真似してソレあけたんだよな……針刺してるとき今みたいに泣きそうなツラしてた。刺青いれるときもそうやってずっと泣きそうなツラしてたよなぁ……」

「……してない……っ……」


 もう涙が溢れそうになっているゼフィラは必死に堪えている。

 それを見たライアットは残念そうに目を細めた。


「お前だけだったんだ……ヴァニタスの力を使わなくても、俺が『家族』みてぇな信頼関係を築けたのは」


 それが、ライアットがゼフィラに執着する理由。

 彼の人生において唯一の光であり、彼に残された人間性の最後の砦。


 彼の感情がヴァニタスの力によって完全に支配されても、ゼフィラだけはその支配から外れた存在だったのだ。


「そんなお前がキューピットの加護を得るなんてな……何度も殺そうかと思ったぜ? 愛の精霊はヴァニタスの力を弱める邪魔な存在だ。でもお前だけは殺せなかった」

「………………」

「お前は、評議会の企みを俺に伝えに来た。昔からお前は変わらねぇよなぁ……馬鹿みたいに真っ直ぐだ。だから俺は甘やかしてやったんだ。お前だけは特別だからな」


 ライアットの声には甘さと、どこか歪んだ所有欲が混じっていた。


「特別なお前だけに教えてやるよ」


 彼はゼフィラの長い髪にゆっくりと指を通していく。


「俺はこのクソみてぇな世界に神を創造する。実体のない『ヴァニタス』を大量の魔石を使って顕現けんげんさせ、世界中を戦禍に叩き落してこの世を滅ぼし、終わらせるんだ」


 ライアットの表情が再び冷徹なものへと戻っていく。

 彼の瞳には、目的達成への狂気的な執念が燃え上がっていた。


「俺は安穏あんのんと暮らしてる連中が妬ましい、視界に入ると吐き気が止まらねぇ。俺はガキの頃からクソみてぇな生活を強いられてたのになんであいつらは無邪気に笑っていられるんだ? まるでこの世の汚いことなんて何もないみてぇな顔して……! 堂々と道の真ん中歩きやがる……俺はそれが許せねぇ」


 ゼフィラに触れる手に力が入り、ライアットは爪を立てた。


「見せつけてやるんだよ……! この世はとっくに終わってんだ! いつになっても可視化されない愛なんてもんは存在しねぇってなぁ! 無常な現実を叩きつけてやるのさ!! いつまでも眠てぇこと言ってる連中の目を覚まさせるんだよ!」


 興奮した様子でライアットは狂気の笑みを浮かべながらライアットはそう言い放った。

 爪を立てたままゼフィラの首を引っ掻いた為、ゼフィラの首には赤い爪痕がつく。


「分かっただろ、ゼフィラ? 俺はもう、戻れねぇんだ……嫉妬の感情が抑えられねぇんだよ……笑えるだろ?」


 ライアットの言葉は彼の悲しい過去と、ヴァニタスの支配から逃れられない現在の苦悩、そして彼がゼフィラに対して抱く唯一の情が、複雑に絡み合っていることを示していた。


 彼の「うんざり」は復讐を果たしても満たされない虚無感と、ヴァニタスに囚われた自身の運命に対する深い絶望から来ている。


「……だから、手遅れなんだよ。俺は今からやり直しなんてできねぇ。それともお前が俺を殺して止めてくれるのか……?」


 ライアットの声は薄暗い倉庫に虚しく響き渡る。

 ゼフィラはライアットの過去と今の全てを知り、彼の行動の根源を理解した。


 同時に、その深い闇に彼女は沈黙するしかなかった。



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