第26話 ヴァニタス
「安全な場所……」
ガレンは呟いた。
果たして逃げる場所なんてあるのか。
焦燥が募るガレンは暫く考えている様子だった。
食事を摂ったゼフィラはまた再び意識を失うように眠った。
リーファとバルド、フェリックス、ガレンは眠っているゼフィラの様子を見ながら輪になってテーブルを囲み、今後どうするのか考えた。
「ゼフィラさんや我々の身の安全を考えると、ここには長くいられません。真っ先に影牙衆はここにやってくるはず」
「そうですね……どこかに隠れないと」
「すみません、私の独断で行動してしまって……軽率だったと思います」
ガレンは自分を責めるが、この場にいる誰もガレンの事を責めている者はいなかった。
「エルフの里に行きましょう。古くから高度な癒しの魔法を受け継いでいます。もしかしたらゼフィラさんの深い心の傷も癒せるかもしれません」
「しかし、ラーン殿は今回の事に非協力的だったと思いますが大丈夫なのでしょうか」
「確かに積極的に協力はしてくれませんでした。影牙衆とのもめ事を避けたいと考えているようです。でも、きっとラーン様は心では理解してくださっているはずです」
リーファはそう言ってゼフィラの方を見つめる。
「種族間の差別や偏見をずっと続けていくわけにはいきません。その為にはゼフィラさんのような方の力が必要です。もうエルフだけの問題じゃないと思います。ラーン様も頭のどこかでは分かっているはずです」
ゼフィラの身体は依然として弱り切っていた。
しかしガレンはゼフィラを腕に抱き直し、覚悟を決めたような顔で言った。
「厄介ごとにまきこんで申し訳ございません」
「すぐに行きましょう」
ゼフィラはまだ意識が朦朧としていたが時折、恐怖に顔を歪ませライアットの名前を口にした。
その度にガレンは彼女を抱き締め静かにその背を撫でた。
「大丈夫だ。もうあいつは来ない」
そう言い聞かせながらガレンはしっかりとゼフィラを抱きしめた。
***
約1日後、一行は深い森の奥エルフの里の入り口にたどり着いた。
里の衛兵が彼らを出迎える。
「今回はどのようなご用件で?」
衛兵の問いかけにフェリックスは神妙な面持ちで答える。
「事情はラーン殿に直接お話ししたい。どうか面会を願いたい」
衛兵は一旦奥へ引っ込んだ後すぐに戻り、一行を里の長であるラーンの元へ案内した。
白い長衣をまとい、その顔には深い智慧と静謐さが宿るラーンは相変わらず穏やかな雰囲気を纏っていた。
ラーンはガレンの腕に抱かれたゼフィラの姿を見て怪訝な表情をした。
彼の鋭い視線がゼフィラ、そしてガレンとリーファ、バルドとフェリックスの間を往復する。
「大体検討はつくが、一応説明してもらおうか」
ラーンの声は穏やかだがその裏には明確な警戒心と、事態の深刻さを見抜いた戸惑いが込められていた。
彼女がライアットの支配下にあったことを知るラーンにとって、これは里の平穏を脅かす由々しき事態だった。
「ラーン殿。彼女は影牙衆の支配から逃れてきた者です。しかしご覧の通り深く傷ついておりライアットの強固な支配下にあります。どうか、一時的にでも彼女を保護し癒やしていただきたく……」
フェリックスが懇願するように説明する。
彼の言葉の端々にはゼフィラの現状に対する深い憂慮が滲んでいた。
ラーンは腕を組み深く考え込んだ。
エルフの里は中立を保ち争いを避けることを旨としている。
影牙衆の一員のゼフィラを匿えば里に戦火が及ぶ可能性は否定できない。
「その女を匿えば影牙衆がいずれここにやってくる。協力はしないと言ったはずだ」
ラーンの言葉にリーファは身を乗り出した。
「ラーン様! お願いします! ゼフィラさんはこの荒廃した世界を救う力を持っているんです! これからエルフ族が他の種族との調和を実現するために、どうかお願いします!」
ラーンはリーファの必死な訴えをじっと見つめた。
そしてゼフィラの痩せ細った見るにも痛々しい姿に目を向けた。
その顔には無数の暴力の跡がまだ残っている。
ラーンの厳しい表情がほんのわずかだが揺らいだ。
エルフの民は生命を慈しむ心を深く持っている。
目の前の惨状は、彼の心にも少なからず影響を与えたのだ。
「……一時的な滞在ならば許す。ただし、影牙衆の追っ手を招き寄せるような真似は決して許さない。女が回復した暁には速やかにこの里を去ってもらう」
ラーンは重い口調で告げた。
彼の言葉にガレンとフェリックスは安堵の息を漏らした。
それは彼らに与えられたかけがえのない猶予だった。
***
ゼフィラは里の奥にある自然の力が満ちた癒しの空間へと運ばれた。
そこは清らかな泉が湧き、木々の葉擦れが心地よい音を奏でる場所だ。
そこで待っていたのは里の中でも特に癒しの魔法に長けたエルフのイリスだった。
彼女は透き通るような肌と深い森の緑を思わせる瞳を持ち、その表情からは深い慈愛が感じられた。
「酷い有様ですね」
「治せますか?」
「確認します」
イリスはゼフィラの前に静かに座り、その痩せ細った身体にそっと手をかざした。
彼女の指先から清らかな緑色の光が溢れ出し、ゼフィラの身体を優しく包み込む。
その光は肉体的な傷を癒すだけでなく、彼女の精神に深く刻まれた穢れを洗い流すかのようにゆっくりと浸透していった。
イリスの表情は真剣そのものだったが次第に眉間にしわが寄っていく。
数刻後、イリスは静かに手を下ろした。
彼女の顔には疲労の色が滲んでいる。
そしてその瞳には困惑と、ある種の衝撃が宿っていた。
「身体の傷は癒えました。しかし、彼女の精神は……奇妙な物質に汚染されています。これは何らかの薬物の影響です。常習的な摂取により彼女の判断力は著しく歪められています。この薬が抜けるまでは正常な状態には戻れないでしょう」
イリスの説明にガレンとフェリックスは息を飲んだ。
ゼフィラがただ精神的に追い詰められていただけでなく、ライアットによって薬漬けにされていたという事実に改めてライアットの残忍さを思い知った。
「少し手こずると思います。自然界には存在しない合成薬物のようです。禁断症状も出るでしょう」
「分かりました。ありがとうございます」
一先ずはゼフィラの呼吸が安定して苦しそうな表情は改善された。
そのことにガレンたちは深くイリスに感謝した。
***
それから数日、ゼフィラはイリスの言った通り、薬の禁断症状に苦しんだ。
幻覚にうなされ、時に叫び声を上げながらライアットを呼び続ける。
身体が痙攣し冷や汗をかく彼女の姿は、見ていて痛々しいほどだった。
イリスは定期的に治癒魔法をかけ続け、ガレンもまたその傍らでゼフィラの手を握り励まし続けた。
その献身的な治療と寄り添いによって、少しずつ薬の影響は薄れていった。
しばらくしてゼフィラの瞳に光が戻った。
やっと薬が抜けたのだ。
彼女はまだ虚ろな表情ではあったが、以前のようなパニック状態ではない。
フェリックスはゼフィラが落ち着いているのを見て優しく問いかけた。
「ゼフィラ、ライアットのことでもし話せるようでしたら聞かせてもらえませんか? ライアットの目的とか今までのこととか……無理はしないでください」
フェリックスの声は穏やかだった。
ゼフィラはゆっくりと彼の方に顔を向けた。
彼女はぽつりぽつりとライアットのことを話し始めた。
「……ライアットは
「そんなに大量の魔石を何に使うのですか……?」
「分からない……詳しいことは何も教えてくれないから……」
フェリックスは魔石を大量に集めているライアットに、とてつもなく嫌な予感がした。
単純に金が目的とは考えづらい。
ライアットは既にこれ以上ないほどの贅沢な生活や、金でどうにもならない事さえ何もかも自分の思い通りにして生活しているはずだ。
「今でも戻りたいと思っていますか?」
「……戻らないととは思ってる」
暗い表情でゼフィラは言った。
「怖いからっていうのもあるけど……ライアットはあたしの家族だから……」
「その気持ちに横やりを入れたくないですが、家族にする仕打ちとは思えません」
「分かってる。でも……他のやつには容赦ないけど、あたしにはそれなりに力加減もしてくれるし……」
ゼフィラはそれを信じて疑わない。
フェリックスから見れば加害者を庇う心理状態になっているだけで、ライアットの行動のひとつも肯定することはできなかった。
ゼフィラの言葉は途切れ途切れだったが、そこからライアットの異常なまでの独占欲と他者への嫉妬が垣間見えた。
「そうだ……ライアットには特別な力があるって……『ヴァニタス』って言ってた……あたしのキューピットみたいなものなのか……?」
ゼフィラの口から出た「ヴァニタス」という言葉にフェリックスの顔色が一瞬にして変わった。
その瞳には驚愕と深い狼狽の色が浮かぶ。
ヴァニタス。
その名は古文書に記された恐るべき力に他ならない。
それは生命の心を蝕み、存在そのものを虚無へと誘う禁忌の力。
「ヴァニタス……!?」
フェリックスは頭を抱えた。
「嫉妬の精霊ヴァニタスですか……ヴァニタスは愛の精霊キューピットと対なる力を持つ存在です」
彼は呻くように呟いた。
ヴァニタスという存在がライアットの力となっているとすれば、彼の異常なまでの支配欲とゼフィラの精神を深く蝕む能力にも説明がつく。
「嫉妬の精霊に見染められるほど、ライアットの中には深い嫉妬の感情があるのでしょうね」
「最近……平民の女と王子が結婚したのは……ライアットがやったって言ってた」
「!」
フェリックスは更に表情を硬くし、深刻そうに虚空を見つめた。
「なんてことを……ヴァニタスの力はキューピットの力に似ていますが、全く異なるものです。キューピットの力は『真の愛』を導くものですが、ヴァニタスの力によって認知を歪められて『偽りの愛』で一緒になったとしても、必ず破局します。徐々に怒りの感情が制御できなくなり、相手を殺すまでに至ったという記述もあります。いずれ遠くないうちに王子たちは破局するでしょう……」
これだけ劇的に結婚報道がされたものが破局したときのことを考えるとフェリックスは頭を抱えた。
王子と結婚したいという顧客に頭を悩まされていたフェリックスだったが、破局による結婚に対するマイナスのイメージが強く残ればエヴァー・ブロッサムの経営にも響いてくるだろう。
「はぁ……」
頭を抱えているフェリックスが溜め息をついたその時……――――
エルフの里の奥からけたたましい警報の音が鳴り響いた。
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