第25話 深き闇




 ガレンがゼフィラを抱えて廃屋に身を隠してから、どれほどの時間が経っただろうか。


 薄暗い小屋の中は重い沈黙に包まれていた。

 意識を失っていたゼフィラは先ほど目を覚ましたものの、その瞳は恐怖と混乱に満ちていた。


「大丈夫です。ゼフィラさんは俺が守りますから」


 ガレンは何度もそう繰り返したが、その言葉は彼女の心に届かない。

 ゼフィラはまるで壊れてしまったかのように、支離滅裂な言葉を繰り返した。


「戻らないと……あたしがいないと、あいつは駄目なんだ……あんなやつだけど、根は良い奴なんだよ……! 分かってない……ライアットがどれだけ恐ろしいのか……あたしが戻らないと……あんたも所長も皆殺しにされる……!」


 絶望的なまでにライアットに支配されきったその錯乱ぶりに、ガレンは言葉を失った。


 ゼフィラは「根は良い奴」と言うが、根は良い奴は皆殺しなんて行動にない。

 その簡単な矛盾にすらゼフィラは気づいていない。


 彼女の心は恐怖と洗脳の闇に深く囚われている。

 長年にわたる支配と恐怖は、そう簡単に拭い去れるものではない。

 目の前のゼフィラの姿はガレンにとって途方もなく重くのしかかった。


 ゼフィラがガレンの制止を逃れようとするたび、一時的に塞がった身体の傷が再び開いていく。

 しかし、その抵抗も次第に弱々しくなっていった。


「ゼフィラさん……?」


 ガレンの声に何の反応も返ってこない。

 顔を覗き込むとその瞳は虚ろで呼吸はさらに浅くなっている。


 疲労困憊の状態での錯乱、そして何よりも空腹が彼女の身体から最後の力を奪っていたのだ。

 ゼフィラはそのままガレンの腕の中で再び意識を失った。


 この場に留まることはできない。

 このままでは本当にゼフィラの命が危ない。


 ガレンは迷うことなくゼフィラを抱き上げ、周囲の状況を確認しながら再び森の中を駆け出した。

 目指すは信頼できる唯一の場所――……


 エヴァー・ブロッサムだ。




 ***




 息を切らし、ようやくエヴァー・ブロッサムの隠された入り口にたどり着いた時、ガレンの身体は限界を超えていた。


「フェリックス所長!」


 ガレンが扉が開くと驚きと心配の表情を浮かべたリーファとバルド、そしてフェリックスがいた。


「ガレン殿! ゼフィラ……!」


 フェリックスはガレンの腕の中でぐったりとしているゼフィラの姿を見て、すぐに状況を察した。

 彼の顔から血の気が引く。


「酷い状況です……診せてください!」


 フェリックスは指示を出すとゼフィラの身体を優しく受け取った。

 奥の部屋に運び込まれたゼフィラは服を脱がされると、その全身に刻まれた無数の傷跡と痩せ細った体が露わになった。


 殴打痕、鞭の跡、そして浮いた骨の皮膚と栄養失調。

 そのどれもが、彼女がどれほど過酷な環境にいたかを物語っていた。


 ガレンはその光景に奥歯を噛み締め、拳を握りしめる。

 ライアットへの憎悪が心の奥底で煮えたぎるようだった。


 フェリックスは静かに治療を進めた。

 魔法を発動すると徐々にゼフィラの傷は癒えていく。

 栄養剤の点滴をしているがその吸収率がかんばしくない。

 しかしゼフィラの元々の体力が持たずに治療は途中で断念された。


「体力が持ちませんね」


 消毒、包帯、そして栄養剤……最大限の処置はしたがそれでもゼフィラは弱り切っていた。

 いつも誰に対しても強気で出ていた彼女からは想像できない姿だった。


 ガレンはただゼフィラの傍らで彼女の細い指を握りしめることしかできなかった。


「ガレン殿、貴方の傷も酷いです。治します」


 フェリックスは多少疲労感が見えたが、それでも手負いのガレンの治療をした。

 ゼフィラとは対照的に治癒魔法をかけたらガレンの身体の傷は殆ど綺麗に塞がって治った。


 ゼフィラの応急処置終わりようやく落ち着いた頃、やっとゼフィラは目を覚ました。


「……」


 そこがエヴァー・ブロッサムだと気づいたゼフィラは安堵の表情を見せる。

 しかし次の瞬間、彼女の瞳に恐怖の色が宿った。


「ライアット……? どこだ……? 戻らないと……殺される……殺される……!」


 ゼフィラはなだめるガレンとフェリックスに抵抗を始める。

 ベッドの上で身体をよじりフェリックスの手を振り払おうとする。

 そのパニックぶりを見てフェリックスは苦い表情をした。


「落ち着きなさい、ゼフィラ。ここは安全です。誰もあなたを傷つけません」


 フェリックスは穏やかな声で語りかけながら、手のひらをゼフィラの額にそっと当てた。

 じんわりと温かい光が放たれゼフィラの身体を包み込む。


 光に包まれるとゼフィラの暴れる動きは徐々に収まり、その瞳に微かな理性の光が戻る。

 彼女の震えは止まり息も落ち着いてきた。

 その状態を冷静に判断したフェリックスがゆっくりと語りかける。


「ゼフィラさん。あなたはもうあの男の支配下にはいません。落ち着いて。戻らなくてもいいのです」


 フェリックスはまるで幼子に言い聞かせるように穏やかな口調で続けた。

 しかし、その言葉はゼフィラの表情を強張らせた。


「そんなこと……ない……!」


 ゼフィラはか細い声で反論する。


「ライアットは……確かに乱暴だけど、あれはあたしのためを思ってやってくれたんだ……あたしが、ちゃんと一人前になるように……」


 混乱しているゼフィラは自分に言い聞かせるようにそう言った。


「彼の行動はあなた自身を精神的に追い詰めている。それは愛情でも指導でもありません」

「違う! 分かってない! あたしが失敗するとライアットはいつも怒鳴るけど、ちゃんと後で……優しくしてくれるんだ……! あたしがいないと、あいつは……あいつはダメなんだ……」


 ゼフィラの声は必死だった。

 その言葉の裏にはライアットからの「優しさ」という名の洗脳と、彼に依存することでしか自己を保てないかのような歪んだ精神状態が垣間見えた。


 それは虐待を受けた者が加害者を擁護する心理状態に酷似していた。

 フェリックスはその痛々しいほどの支配の深さに愕然とする。


 ――ここまでゼフィラの精神を深く支配しているとは……


「ゼフィラさん、少しでも何か食べないと。食事を用意しましたからあちらで食べましょう」


 リーファが優しくゼフィラに語り掛けると、忘れていた空腹感に気づいた彼女は食事をするためにバルドに支えられながら部屋を出て行った。


 フェリックスは苦渋の表情でガレンに視線を向ける。


「残念ながら癒しの魔法は、深い心の傷には効きません。ライアットによる精神的な支配が彼女の魂の奥深くまで根を張っています」


 フェリックスは静かに言葉を続けた。


「彼女がここにいることが連中に知られれば、ここも安全ではなくなります。影牙衆えいがしゅうは間違いなく彼女を追ってきますし、このままここにいるのは非常に危険です」


 ガレンはゼフィラの痛ましい姿とフェリックスの言葉を聞き、厳しい現実に直面した。

 ゼフィラを助けるためにはこの場所を離れ、誰にも見つからないより安全な隠れ家を探さなければならない。


 しかし、そんな場所が存在するのだろうか。

 


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