第4話 愛の精霊




 『エヴァー・ブロッサム』の喧騒から離れた、所長室の奥。

 そこには普段の穏やかな雰囲気とは一線を画す、無機質な空気が漂っていた。


 中央に置かれたのは水晶と金属で構成された複雑な構造を持つ装置。

 魔力が微かに脈動している。


 フェリックスはその傍らに立つゼフィラに穏やかな視線を向けた。


「ゼフィラ、少しこの装置を使わせてもらえないでしょうか?」

「あ? なんだよそれ。まさか身体検査とかいうやつか? やらしいことでもするつもりかよ、所長」


 ゼフィラは視線を装置に向け、怪訝な表情をした。

 警戒心とわずかな好奇心が入り混じった表情だった。


「まさか。貴女の恩返しを受け入れるにあたって貴女の能力を正しく把握しておきたいだけです」

「ふーん……まあ、いいけどよ。別に隠すモンなんてねーし」


 ゼフィラは無造作に装置へと近づいた。

 彼女は腕を組み自信に満ちた不敵な笑みを浮かべている。

 フェリックスは彼女のその言葉に小さく頷くと、装置の側面に刻まれた紋様を指先でなぞった。

 紋様が淡く光り、中心の水晶がゆっくりと回転を始める。


「その中央に手をかざしてみてくれ」


 言われるがままにゼフィラが右手をかざすと、装置から放たれる光が彼女の全身を包み込んだ。

 それは肌を透過し、身体の奥底までを解析しているかのような感覚だった。

 ゼフィラは一瞬だけぴくりと身体を動かしたが、すぐに慣れた様子で平然と立ち尽くした。


 数秒後、光が収束し水晶の表面に幾つかの数値と紋様が浮かび上がった。


 フェリックスは表示されたデータを確認すると驚きに目を見開いた。

 その穏やかな表情がみるみるうちに興奮の色に染まっていく。


「な、なんですかこれは……!」

「おいおい、なんだってんだよ。そんなに驚くことなのか?」


 フェリックスの普段見せない動揺にゼフィラは訝しげな目を向けた。


「これは……こんなことが……! 信じられない……」


 フェリックスは装置のデータを食い入るように見つめ、何度も目を擦った。

 そして信じられないものを見るかのように、ゼフィラと装置を交互に見比べる。


「ゼフィラ……貴女は……貴女には“愛の精霊キューピット”の加護がある!」


 その言葉はまるで長年の謎が解けたかのように、フェリックスの口から喜びと興奮が入り混じった声で発せられた。


 ゼフィラは何を言っているのか分からず、ポカンとした。


「……は? きゅーぴっと? なんだそりゃ。食えんのか?」

「食べものじゃない! 愛の精霊だよ! 愛の感情を司る、この世界の根源的な存在だ!」

「へぇ。ま、あたしには関係ねーけど」


 ゼフィラは興味なさそうに返事をした。


 彼女にとって「愛」や「精霊」といった概念は、裏社会で生きてきた中で無縁なものだった。

 むしろ「愛は弱さ」と教えられてきた彼女にとって、それは忌避すべきものですらあった。


 フェリックスはそんなゼフィラの反応に構わず、興奮した面持ちで言葉を続けた。


「関係あります! 加護者なのですから! キューピットは愛情や絆を育むこの世界で最も尊い精霊です。しかし……」


 彼の表情から興奮が消え、一転して深い悲しみが宿る。


「……しかし今、キューピットは激減しています。加護者はこの数十年もの間ほとんどいないと言っても過言ではありません。愛の感情が希薄になり、人々が互いを信じられなくなったのは、この精霊そのものや加護者の数が減ったせいだと私は考えています……」


 フェリックスは水晶に映るデータを指差した。

 そこにはゼフィラの体内に宿る、極めて稀少なキューピットのエネルギーの痕跡が示されていた。

 彼の瞳の奥には遠い過去の痛ましい光景が蘇っているようだった。


「……へぇ。難しい事はわかんねーけど、あたしにはその精霊の加護があるってこったな」

「そうです。だから貴女の縁結びの力は本物です。愛の精霊の寵愛ちょうあいを受けた者の力がある」


 彼女にとって目の前のフェリックスが語る話は、あまりにもスケールが大きすぎて現実感がなかった。

 愛の精霊がどうした、世界がどうしたと言われても、貧困と暴力の中で生きてきた彼女には、遠いおとぎ話のようにしか聞こえない。


 フェリックスは真剣な眼差しでゼフィラを見つめた。


「貴女は、この愛が失われつつある世界を救うことができる力があるんです」


 その言葉は、ゼフィラの耳にはあまりにも突飛に響いた。


「あたしが……世界を救う?」


 ゼフィラは困惑に顔を歪めた。

 世界を救うなんて、そんな大それた話は彼女の頭には全くなかった。


 これまで生きてきたのはただ今日を生き抜くため、そして自分の「筋」を通すためだけだった。


「どうしたらいいってんだよ……愛とか急に言われても、あたしにはさっぱり分かんねーし……」


 ゼフィラは頭を抱え途方に暮れた表情を浮かべた。


 フェリックスは、そんなゼフィラの困惑を静かに見つめていた。

 彼の表情には微かな安堵と希望が宿っていた。


 彼は知っていた。

 彼女の「規格外の縁結び」が、既にその「力」を無意識に発揮し始めていることを。


 そしてその力こそが、この世界に再び「愛」を取り戻すための唯一の希望であることを。



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