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夕暮れを控えても、熱暑はとどまるところを知らなかった。
寄木は東西線で栗岐坂駅から上根駅まで移動し、南北線に乗り換え、二駅ほど南下し
目的のマンションはここから徒歩十分の場所にあるようだ。
寄木が街並みの裏手に回っていくと、道幅が狭まり、背の低い軒並みが次第に目につき始めた。
カンカンカン、と踏切の遮断機がゆっくり降りる。焼きついたアスファルトに規則的な重低のリズムを轟かせ、
昼間は旅客用の地上線として利用され、誰もが寝静まる深夜になると、貨物用の列車が代わりに目を光らせる。貨物列車の運用が始まったのは、ここ十年ほどの話だ。ここから南西には倉端市に繋がり、市街の郊外には『特異精神医療機構』という名称のいかにも
そのなかには、精神を病み、結果として罪を犯してしまった者への激しい風当たりを含んだ問い合わせもあり、なかなか対応が難しいのだと以前、彼の知人が愚痴をこぼしていたことがあった。
しばらく黙々と道を進むと、淡いブラウンの窯業調の建物がドラッグストアの角を曲がった先に聳えていた。背が高く、横幅も広い。一層に六つの部屋が並び、十階分の横穴がジェンガのように積み上がっていた。地方都市の町中によく見かける型の集合住宅だ。
出入り口までおよそ十メートルほどの距離まで近寄ると、微かながらも異様な臭気が寄木の鼻腔を掠めた。ねっとりと粘膜に絡みつくような、黒く澱んだ液状の臭み。
「これは、腐敗臭か……?」
寄木は眉を顰めつつ、マンションのエントランスを目指す。
腐敗臭はますます強まる。
郵便受けの先の出入り口は、住人が鍵を差し込んで開けるタイプの自動ドアになっていた。寄木は近くの掲示板に足を向け、管理会社の連絡先を探している最中、ある簡素な掲示物が目に留まった。内容は異臭騒ぎの件に関しての事務的な報告、またそれに対応済みであることと、さりげない熱中症の注意喚起が記載され、右下には管理会社への連絡先も載っていた。
寄木はすかさず問い合わせを入れた。
数秒のコールで通話が繋がる。
「お忙しいところすみません。探偵の寄木という者です。家庭裁判所からの依頼で、そちらが管理しているマンションの件でお伺いしたいことがあるのですが──」
コールスタッフに手短に用件を伝える。無論、家庭裁判所からの直接の依頼ではなく、あくまで弁護士独自の判断を介した依頼なのだが、行政絡みの話にしておけば、多少は話の通りもよくなる。そう踏んでの建前だった。
最初、向こうは戸惑いを覚えたようで、上司に確認を求めにいくと一言残し、寄木はしばし待たされることになった。通話の保留音を耳元に、温水に浸かるような熱気の中、寄木は残留している腐臭の正体を漠然と思い描き、相手が戻ってくる音を聞きつけ、すぐさま嫌な予感を振り払った。
コールスタッフによると、現場の管理人へ繋いでもらえるとのことだ。そこで現在地を問われたので答えると、
『その場でお待ちください。管理の方がそちらに向かいますので』
寄木は言われた通り、掲示板の前で待機した。すると程なくして、ドアの開く音が小さくこだまし、管理人のアルバイトをしているという高齢の男性が奥から姿を見せた。一目に人柄の明るく、柔和な顔をしていた。
異臭騒ぎが起きたのは七月二十六日の早朝。隣室に住む奥さんが朝のゴミ出しのためにベランダの窓を開けたところ、凄まじい異臭がするとのことで警察に通報し、その後、腐敗死体が発見された。
遺体の発見場所は五〇四号室。奇しくも調査対象が住んでいたとされる親戚宅であり、寄木の嫌な予感は的中した形となった。
遺体はリビングの床に放置されていたようで、警察の話によれば、脱水症状で倒れてしまい、誰にも発見されないまま放置され、衰弱死を迎えたとのこと。夏場ではあったが、エアコンが稼働した状態であったために腐敗の進行に多少遅れが出ていたらしく、二十六日時点では、死亡からおよそ三日が経過していたという。
「ま、私も別の方から報告を受けただけなので、これ以上詳しいことはわかりませんがね」
「それは、どういう?」
「私は午後の
なるほど、と寄木は頷き返した。
「しかし、刑事みたいなことをされていますが、寄木さんは探偵をされている方なんですよね?」
「ええ、そうです」寄木は当たり障りなく首肯する。「でも、事件解決を目的にしているわけではないんです。家庭裁判所のほうから身元調査の依頼が入りまして、それでその方が住んでいた部屋がちょうど異臭騒ぎのあった部屋だったので」
ははぁ、と管理人の男は感心するように息をついた。
「なら、こちらからお手伝いできることはまだありますかね?」
管理人の男はあからさまに寄木の職務に興味を見せる。協力的なことに越したことはないが、それも度を越せば危ない橋渡りになりかねない。寄木は慎重に言葉を選ぶことにした。
「お聞きたいしたいことがあります。もちろん覚えている範囲で構いません。六月上旬から七月の中旬にかけて、なにか変わったことはありませんでしたか? 例えば、普段あまり見かけない人の出入りや、物の運び入れなど」
寄木がそう問いかけると、「うーん、こちらから意気込んでおいて申し訳ないんですがね。基本、私は
「あれは確か、七月の初め頃だったかな。大学生くらいの若い子が、えらく憔悴しきった顔で出ていったんですよ。ああ、もうこの歳なもんで、細かい特徴までは覚えてません。最近の若い子はみんな、どこも似たり寄ったりでねぇ」
なかなか違いがわからない、と管理人の男は快活に笑んでみせる。
ようするに、似顔絵などは描けないとの遠回しな断りだった。
客観的にあまりにも曖昧模糊とした情報ではあったが、しかし、寄木には心当たりがあった。同時に、なぜ幅目が数ある探偵社のなかでも寄木へ依頼を寄越したのか、知り合ったばかりにしては重要な案件を持ってきた事に少なからず疑問を覚えていたのだが、なんとなく想像もついてしまった。
「ちなみに、その大学生の性別を聞いても?」
「ああ、男でした」
疑念は確信へと一歩近づいた。
///
日差しが手を引っ込める頃には、女の子も帰ってしまった。
また明日も来るから、と女の子は言い残していったけど、ぼくにはいっそう、これから訪れる夜の孤独がいつも以上に耐えがたいものとなった。
そのいつもさえ、とっくにぼくの中にはなかったのに。
なんだか、ひどく滑稽に思えた。
ありえないものを秤に乗せて、傾いた心に傷痕をつけている。
それは幻覚だ。
殻のなかで落とし所がないと喚き散らしているだけ。
顔を覆い隠した子供そのもの。
ああ──そうか。
いまのぼくは、不安に囚われている。
漠然としたカタチのない鼓動を胸に抱いて。
それが、ゆっくりとひとりでに停止する時を待っている。
でも、それこそありえない夢想。
取り留めのない実感の外に空想を重ね着したら、透明な膜を張る。
自我と非我は剥離され。
そして、自分の時間だけがその場で空転する。
いつかのきみは、それを一途に望んでいたようだったけど。
実のところ、そんなのは欺瞞に過ぎないと、ぼくには初めからわかっていたんだ。
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