第15話 「やすらぎの街にて」
—終わりが始まる、その土地で—
町田の空は、妙に広かった。
それまでLOOPの3階建ての空間に閉じ込められていた身体と心は、視界を遮るもののない空に、戸惑っていた。
引っ越し先のアパートは、静かだった。
隣室から叫び声も怒声も聞こえない。
夜中に人が徘徊する音もない。
なぜかそれが不安になるほど、空気が整っていた。
でもそれは、「正常」に慣れていないだけだった。
町田には、結界文化があった。
古くは多摩丘陵の中に築かれた神域の名残。
神鏡が置かれた小さな祠、道祖神、四つ角にある不自然な石の並び。
それらは「境界」を守るためのものだったという。
ここは外から来る者、傷ついた者の魂を一時的に保護する“仮住まい”の土地だった。
そして私は、どうやら“保護”されたらしい。
「町田って、やばいって言う人もいるけど、本当にヤバいのは、ヤバさに慣れちゃうことだよね」
そう話してくれたのは、近くの神社で出会った老婆だった。
彼女は目が澄んでいた。私のような“ループ難民”を何人も見てきたのかもしれない。
洗濯物を干すたび、風が清らかで、乾くのが早い。
湿気が消えるだけで、心まで軽くなる気がした。
昔、LOOPでは干していた下着を見て「盗られるぞ」と忠告された。
いまは誰もそんなことを言わない。
誰も、見ていない。
町田では、「見られていない」ことが、安心なのだ。
監視も干渉もなく、ただ、生きている。
ただ、暮らしている。
近くの芹が谷公園では、噂される事件の痕跡すら見えなかった。
遊ぶ子ども、静かな池、風に揺れる草花。
それは“日常”そのもので、何も特別ではない。
けれど、特別じゃないということが、何よりの救いだった。
私はまだ、完全に癒えていない。
夢に和田や村岡が出てくることもある。
左入町の声が、風に混じって聞こえることもある。
でも、ここには「やすらぎ」の芽がある。
それだけでいい。
それだけで、充分だ。
そして私は、町田の空の下で小さく笑った。
「ここは、終わりじゃなくて、続きかもしれない」
やっと、始まった気がした。
つづく
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