第36話 聞こえない声

 エイミーさんも帰ってしまった。ヨルもいない。心太もいなくなる。私は不貞腐れて、一日中寝ていた。高校まで誰とも一緒じゃなかった時、私は何をしていたんだろう。一人で映画を見たり、本を読んでいた気がするが、どちらも今はする気がしない。かといって、先生に甘えるのも違う気がする。夕方になって、諦めてベッドから出た。一階に降りると、テーブルの上に伯母さんが朝ごはんを用意してくれていた。そしてその横に古いノートがある。何気なく手にすると、それはつたない字で書かれた彰吾君の日記だった。

 私は彰吾君が随分、お兄さんに思えていたけれど、まだ小学生だった彰吾君だからこんな字なんだ、と改めて驚いた。

『いとこの空ちゃんは小さくて、でもにぎやかで、そしてたくさんわがままを言います。でもそのわがままが楽しい』

 その後に続く内容は私が宿題をしている彰吾君に遊ぼうと話しかけたり、鉛筆を持って逃げたりしていると書かれていた。自分で記憶にはないが、そんな迷惑なことをしていたらしい。鉛筆を持って逃げても彰吾君は新しい鉛筆で宿題をしたらしいが、それを見て、私が大泣きしたとまで書かれてある。読んでいると、恥ずかしくて、穴があったら入りたいと思った。

『そして大泣きしながら、「彰ちゃんと遊びたい、大好き」と言うので、本当に困るのですが、そのおかげで宿題を早く終わらせることができます』

 どれだけ迷惑をかけても、彰吾君は少し困ったような顔をするだけで、結局、私に付き合ってくれたのは覚えている。私は彰吾君と一緒にいたくて、その気持ちだけで、行動していたから、本当にわがままだったと思う。

『ぼくは学校で上手く話せません。でも空ちゃんの前ではふしぎと声がでます。空ちゃんが泣いたり、笑ったりするのが楽しいからかもしれません』

 鉛筆で書かれたつたない文字を指で辿ると、涙が零れた。私にとって、彰吾君は王子様だった。優しくて、温かくて、賢い王子様だった。それなのに、今の私から見ると、とても幼い子どもだ。そんな彼が命を投げうって私を救ってくれた。

 ページを捲って行くと、だんだん彰吾君の日記は文字が減っていった。

『朝だけお腹が痛くなる。昼になると良くなる。嘘じゃない』

 小さな彰吾君が必死に文字にした言葉を辿る。

『いなくなってもだれも困らない』

 そう書いて、二重線で消されている。そして私の名前が書かれていた。

『空ちゃん、泣くかな』

 事件の後、彼を忘れていた私は今ようやく涙を零した。あの頃の辛い気持ちを少しも知らずに私は毎日のように彰吾君の家に遊びに来た。いつか伯母さんが言っていた。

 私が彰吾君の生きる力になっていたということ。

 そうだろうか、とふと思った。

 事件があって、目撃した時、普通ならきっと怖くなっただろう。命を顧みずというのは、無謀だったのでは? 彰吾君はわざと自分の命を終わらせるために?

 ノートを閉じて、私は椅子に座った。

 目の前に冷えきった目玉焼きと少し湿気たトーストがある。


 翌日、先生からメッセージが届いた。

「フライパンが邪魔です。引き取りに来てください」

 私は慌てて、先生の家まで行った。私が何か作ってあげるから、と言う理由で買ったフライパンだが、あれ以来、先生の家に行っていない。

 電車に乗り込み、ドアの前に立って、もたれかかるように外の街を眺めた。マンションや家が流れていく。見慣れた風景ではあるが、そこに住んでる人と挨拶を交わすこともないまま過ぎ去っていく。どんな人がどんな人生を送って行くのだろう、と私はため息をついてから、ふと気が付いた。

 たまに聞こえていた声が今は全然聞こえないということ。

 彰吾君の声だったと思うけれど、今は全く聞こえない。

 私が作り上げた声だったかもしれないが、彰吾君の記憶がないときにずっと聞こえていた。彰吾君を思い出してから、全くと言っていいほど聞こえない。私が作り上げたのものなら、彰吾君を思い出してからだと、まだ理解はできる。

(あの声は何だったんだろう)

 私は電車に揺られながらぼんやりと考える。

 彰吾君がすぐ傍にいた? 

 ドアのガラスに薄っすら映る自分の顔を見ながら、死んだ人がメッセージを送ってくることがあるのだろか、と思った。

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