第34話 子猫の声

 子猫の世話は思った以上に大変だった。夜中も起きてミルクをあげなくてはいけない。先生は忙しいみたいで、リビングで仕事をして、ソファで寝ている。寝室に私と子猫がいるが、子猫は眠れないのか昼夜構わずずっと鳴いていた。だから私はほぼ子猫の入ったゲージの前で横たわっていた。ベッドになんか入ると、そのまま起きなくなってしまいそうだから。伯母さんに子猫の話をして、世話をするために二三日お泊りするというと、言葉を失っていた。私も自分で変な事を言っているという自覚があったが、段ボールの中の猫を見ると、自分がしなければいけない気がした。

 朝、よろよろとリビングに行くと、先生も徹夜しているのか、目の下に深いクマを作っている。

「今日は…詠美とご飯だったかな」と聞いてくる。

「えっと…そうなんですけど。でも…猫の話をして…そしたら空港に行く前に立ち寄ると言ってくれて」

 私も眠くて頭が働かない。

「そっか」

「はい」

 ぼんやりした顔で何となくお互いを見て、酷い顔だなと思ったことが伝わって、同時に吹き出してしまった。

「先生、酷い」

「あぁ、ごめん。いや、僕も相当酷いから」と言いながら、顎に手をやって、伸びた髭を確認していた。

「お腹空いたから…宅配頼もう」

「え? そんなもったいない」

「いや、食べるもの何もなくて」

「お米も?」

「お米なんて買わないよ」

 私は驚いていると、先生は手早くスマホを操作する。よくあるハンバーガーの朝ご飯か、牛丼屋の朝ごはんを選ばせてくれた。牛丼屋の塩じゃけ定食を注文してくれた。

「子猫はどう?」

「元気に鳴いてます」

「知ってる」

 そういう今も鳴いている。私がそっと覗き込むと警戒したような態度を取るから抱き上げることもできなかった。

「…名前つけた?」

「でも…お別れするのに」

「例え数日でも名前があった方がいいよ」

 真っ黒なので、私は適当に「夜」と言った。

「いいね」と先生は言って、台所に立つ。

 インスタントコーヒーを飲もうとして、手が震えたのか、瓶を落として中身をぶちまけた。

「はあ」と深いため息を先生が付いたけれど、私は寝不足でハイになっているのか笑って

「先生、座っててください」と言って片付けることにした。

「じゃあ…ちゃんとしたコーヒー淹れよう」

 私は先生に掃除機を借りて、吸い上げる。吸い込まれていく毎にコーヒーの匂いが当たりに充満した。

「今は二人ともポンコツだから、気を付けないと」と私が言うと、先生が笑った。

「一人ポンコツより、楽しい分、いいな」

 そう言われて、私は思わず先生を見た。

「…楽しいですか?」

「失敗して笑ってくれる人がいるだけで、全然違うよ」

 確かに私は笑った。

「君は思ったより、自分の価値を分ってない」

 褒められると恥ずかしくて、無意識でぼさぼさの髪を手で梳かす。

「コーヒーしかないけど」

 先生はそう言って、キッチンに入っていった。

 人に優しくされるのは嬉しくて、そして恥ずかしい。こそばゆい気持ちになる。

「いる? コーヒー?」

 先生の声が飛んでくる。

「はい」

 返事をすると、隣の寝室からヨルの鳴き声がさらに大きくなった。


 ヨルは私に懐くことはなかったけれど、私がリビングに行くと、声を大きくするようになった。エイミーさんが来て、可愛いと手を出そうとしたけれど、噛みつきそうになっている。

「あらあら。可愛いのに」と言って、手を引っ込めた。

「エイミーさん、お食事行けなくてすみません」

「…残念。でもシンガポールまで来てくれていいし、また私が帰ってきたら、絶対行きましょう。まだ養子縁組という選択もあるし」と言ってくれる。

「…あ、帰国後連絡ください」

 私はこうして気楽に人を愛せるエイミーさんが羨ましくもあり、そしてその優しさが心に沁みる。

「透真には空ちゃんが必要かもね」

 エイミーさんの横顔を思わず見る。

「え?」

 そして小さな声で私の耳の側で言った。

「だって、かわいいから」

 思わず私はエイミーさんの美しい顔を見る。

「ほら、可愛い子がいると、頑張れるタイプじゃない? 一人で何となく何でもできますよーって顔してるけど、生活面では全然だめじゃない? ご飯とかずっと外食か惣菜だし」

 確かに先生は外食、宅配サービスまで使っている。

「この子と一緒」とヨルをまた触ろうとして威嚇されている。

 小さい体なのに、怒る時は起こっているヨルを眺める。

「守るものがあると、人はより良く生きれるのよ」

 エイミーさんの美しい笑顔を見て、本当に不思議になる。どうして二人が別れたのか、やっぱり私は分からない。

「さてと。行かなきゃ、また電話するわね」

「はい」

 先生はずっとリビングで仕事を続けている。元奥さん、元恋人のエイミーさんが来ているというのに、簡単な挨拶だけをして、パソコンに向かっていた。

「じゃあ行ってきます」とその背中にエイミーさんが言葉をかけた。

「あぁ。気を付けて」と言って、立ち上がる。

 本当にお似合いに見えるのに、と私は二人を見比べた。

「空ちゃん、またね」と言って、綺麗なグレーのエナメルの靴に足を滑らせた。

 私はエレベーターホールまで見送ろうとして、ついでにコンビニに向かうことにした。

「何か買うの?」

「えっと、せめて卵とかご飯とか…」

「そうね。せめてね」とエイミーさんは笑う。

 そして予約していたタクシーに乗り込んだ。

 去って行くタクシーを見送ると、なぜか胸がきゅっと詰まった。ほんの僅かの時間だけだったけれど、一緒にいられて本当に温かい愛情を与えてくれたからお別れが淋しくなる。

 愛を与えてもらえないと思っていた自分が誰かに愛されている気がした。そしてそれは気のせいじゃなく。

 コンビニで卵とハムとお米の小さい袋を買う。簡単にできるカップの味噌汁も買った。先生にはたくさんお給料をもらっているから、少しはお返ししようと思った。料理は得意ではないけれど、ハムエッグくらいは誰でも作れる。

 しかし私は先生の部屋について愕然とした。フライパンもなければ、油もなかった。もちろん

炊飯器もない。

「え? ご飯、作るの?」

「…だって、先生、毎食、外食は」

「どうしようかな。えっとレンジはあるから…」

 私は頭を抱えた。

「鍋はあるから。ほら。ラーメンを作ろうとして買ったから」と小さな片手鍋を出す。

「…それでお米炊きましょうか」と私は呟いた。

 そう言うわけで、お皿にハムと生卵を潰して、レンジにかけて、そして小さな片手鍋でご飯を炊いた。

「すごい」と先生は感心しているが、私はため息を吐きたくなった。

「先生、さすがにフライパンは…」

「だって、使わないから」

 私は唖然としてしまう。

「でも…もしあったら、作ってくれる?」

 そう言われて、私は大したものを作るわけでもないので、わざわざ買わせるのも、と思った。それに私が滞在するのは二三日だし、と悩む。

 先生はまだ残っている卵のパックを冷蔵庫にしまいながら

「美味しい目玉焼き、朝に食べたいな」と呟く。

「もう、フライパンと食用油買ってきます」

 また私の声を聞いて、ヨルが鳴いた。

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