第5話 ランチ

 大学の近くのお店だったのと、ランチタイムということで、先生を知っている学生も教員も来ていた。

「樫木先生、デートしてるの?」と気楽に声をかけてくる学生もいれば、先生同士、軽く仕事の話をしたりする。

 でもどちらにしても私の方に視線が向けられた。

「アルバイトしてもらってる佐々木さん」と紹介してくれるから、私も頭を下げる。

 その度に相手の反応も様々だった。

「教員の特権をつかって、顔で選んだな」と樫木先生と仲が良い先生から軽口を叩かれたりすると、私は困ってしまう。

 軽口だと分かっていても、樫木先生も

「顔だけじゃないよ。しっかり働いてくれるから」と言うから、ますます反応に困った。

 チンジャオロースが運ばれてくるまで、その先生は居座ったから、気疲れしてしまった。

「温かい内にどうぞ」と樫木先生に言われる。

「でも…。先生のも…すぐに来ると思うので」と私は待つことにした。

「ほら、食べづらいから、自分の席に戻って」と樫木先生が相手の先生を追い出してくれた。

「良かったら、僕のところでもアルバイトして」と笑顔で去って行った。

 どこまでが本気か分からず、困った。あまり人と過ごしてこなかった私はどう反応するのが普通か分からない。

『普通が良かった』

 母の声が、もう母の声なのか記憶に自信が持てないけれど、女性の悲痛な叫びのような声が聞こえる。

「佐々木さん?」

 樫木先生の心配する声がした。

「あ、すみません。緊張してしまって」と素直に言うと、柔らかい笑顔で笑った。

「ごめん。こんなに知り合いも来てるなんて思ってなかったよ。僕一人だと、誰も声をかけてこないのに」

「そうなんですか?」

 改めて樫木先生を見ると、すでに酢豚は運ばれていた。

「美人といたから、気になったのかな。頂こうか」と言いながら、割りばしを割った。

「私…」と唇だけを動かしたものの、否定した方がいいのか、その言葉に感謝した方がいいのか迷って、結局、聞こえないふりをした。

「いただきます」と言って、手を合わせる。

 伯母さん以外の人と向かい合って食べる食事は緊張する。

「佐々木さんって兄妹いるの?」

「あ、いません。…伯母と住んでて」

 言わなくていいことを思わず言ってしまう。理由を聞かれるかもしれないと身構えた。でも樫木先生は全く違うことを話し始めた。

「僕に弟がいたんだけどね」

 過去形だった。

 先生の弟は勉強はできなかったらしいが、行動力がある人間だった。些細なことで先生と喧嘩した後、弟は家を出て行ったと言う。

「もうその原因も忘れたんだけど」

 何年か経った後、エアメールが届いたと言う。スペインで料理人として働いているという内容と、レストランの仲間と店の前で撮った写真が入っていたと言う。

 酢豚を食べながら、ゆっくり話してくれる。

「返事を出さなかったんだ。許せなくてとかじゃなくて…。頑張ってる人間に何を書いたらいいのか分からなくてね」

 そしてそれから数年後、弟さんはヨルダンで亡くなったと連絡が来たらしい。

「え? スペインじゃなくて?」

「うん。どうして彼がそこに行って、亡くなったのかは分からないけれど」

「原因は?」

「強盗…。抵抗したみたいだ」

 一瞬、あの黒さが思い出される。目の前に真っ暗なカーテンが降りた。

「佐々木さん」

 私を呼ぶ声が遠くなる。

『大丈夫だよ。空ちゃん』

 そしてあの声が聞こえる。

『僕が』

(僕が?)

 その言葉の先を聞こうとした時、体が温かくなった。

「佐々木さん、大丈夫?」

 私は椅子から倒れかけていて、樫木先生に抱きとめられていた。

「あ、すみません。大丈夫です」

「ごめん。変な話をして」

「いいえ…。私の方こそ」

 ゆっくり体を椅子に戻された。店はざわざわしていたので、意外と周りの人にしか気づかれていなかった。

「もう大丈夫です。御心配おかけしました」と周りの人にも言う。

「今日は体調悪かった?」

「あ、いいえ。でも…緊張してしまってたから…かも」と私は先生のせいにしたくなかった。

 それから先生は軽くて面白い話をしてくれたから、私も笑顔で聞くことができた。

 それでも私の心の底で、自分に何が起きたのか怖くなっていた。今まで何も弊害がなく暮らしていたのは、人との接触がなかったからだ。

 人と繋がればそれだけ、トリガーになりうることに遭遇する可能性も増える。

 ただ試験があるおかげで、しばらく先生に会うことはない。

「ごめんね。本当に変な話して」

 お店を出ても謝ってくれた。

「いいえ。あの…それで…先生は大丈夫ですか?」

 どうしてそんなことを聞いたのか、自分でも分からない。先生は

「分からない」と答えた。

 その「分からない」はすごく正直な言葉だということだけ分った。

 晴れた空は真っ青で綺麗なのに、湿度のある暑さは息苦しかった。ただ先生ですら何かを抱えて生きていることが、自分には関係ないのに、何だか自分が許されるような気がした。

「先生」

 誰がそんなことを言う権利があるだろう。

「辛さは消えませんか」

 少し驚いたように眉が片方上がった。

「毎日、常日頃…感じることはないけど…消えはしないかな」

 それはそうだ。それなのに願わずにはいられない。

「少しでも…薄まったらいいですね」

 先生が辛い思いを抱えているのなら、少しでもその思いが消えたらいいのに、と思った。それは多分、自分にとっても同じ思いだから。

 叶わない願いを口にした私に先生は感謝してくれた。

「ありがとう」

 遠くに白い雲がもくもくと育っているのが見える。雷雨になって欲しいと思った。雨は私の代わりに泣いてくれる気がしたから。

 でもその日、雨は降らなかった。

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