昔日の音 あなたの声
かにりよ
第1話 声しか知らない
こぽこぽ
耳の奥で音がする。人の声が歪む。でもあの人の声だけはクリアだ。
『
その声は温かくて、懐かしい。その声に触れることができたら、私は幸せなのに…。
小さい頃、私は事件に巻き込まれた。詳しい内容は記憶にないし、教えてもらっていない。でもそれ以来、母が不安定になり、私は突発性難聴になった。そのせいで母の様子がさらにおかしくなり、両親は離婚をして、私は父方の伯母に預けられることになった。
伯母さんは何も言わない私に何も言わなかった。静かでぽこぽこする音だけが鳴る世界で、でも少しずつその世界が壊れて、私の聴力は戻った。
「空ちゃん。音が聞こえてよかったんかね」
伯母さんはそう言って、アイスティを出してくれた。レモンの甘い粉のアイスティだ。私はこの飲み物が大好きで、氷がからんからんと綺麗な音がクリアになるのが嬉しくて、頷いた。
そうして物静かな伯母と暮らして、私は育った。父親は滅多に会いに来なかった。それで良かった。私のせいで家族が壊れたのだから、会いになんか来てもらえなくてちょうどいい。
暑い夏のプールの中に入る。音が伝わりにくいから、あの人の声が聞こえる気がする。プールの水の中でも音は伝わるけど…、あの人の声はもう聞こえてこなかった。
私の耳が聞こえだしてすぐに聞くことはできなくなった。きっと私も頭がおかしくなっていたのだろうと思う。
あの日の事件を私は調べたことはなかった。
水が私の体にまとわりつく。
「空」と言われて、腰を引き揚げられた。
「あ」
「相変わらず水にもぐるのが好きだな」
水から出ると、明るい太陽の日差しがそこかしこに反射して、日曜の夏のプールを楽しむ人達で溢れていた。
「だって…、気持ちいいから」
私は目の前にいる友達とも恋人とも呼べない
心太は大学で一人でいる私に声をかけてきた。何かの勧誘かと思って断ろうとしたら、私の鞄に付いているキャラクターを指さして、自分の鞄からそのキャラクターのペンケースを取り出してきた。
「あ…」
「好きなの?」と聞かれた。
そう聞くと言うことはきっと相手が好きなんだろうな、と思って私は頷いた。本当は鞄のチャックの開け閉めが便利になるように、何かのおまけについてたものをつけただけだった。
「俺は妹がプレゼントしてくれて、仕方なく使ってるんだけど…」と言うから驚いた。
わざわざ声をかけてくるくらいだからファンなのかと思ったが、とんだ勘違いだった。
「あいつの誕生日にこのキャラクターの何かあげなきゃいけないから…。どこで売ってるか聞きたくて」
「あ…。えっと…これは買ってなくて」と私はすぐに嘘がばれてしまった。
それ以上、ごまかすのも面倒になって、心太には説明した。
「あ、そっか。そりゃ…警戒するよね。ごめん」と明るく笑ってくれた。
そしてグッズを買う場所を教えたが、一人で行くのは恥ずかしいからついて来て欲しい、と言う。
「いいけど…。ナンパ?」と私は聞いた。
「ナンパ? かなぁ。彼氏いるの?」
「いないけど、私、好きな人がいるから」
「え? そうなんだ」
「声だけの人」
驚いたような顔で私を見る心太を見て、変な人だと思って欲しいと思った。そして私に構わないで欲しいと願った。
「遠距離とか?」
私は首を横に振る。それでも心太は買い物に付き合って欲しいと言う。こんな変なことを言う女と出かけて楽しいと思えるのだろか、と思いながら、私は首を縦に振った。
結局、心太は遠くに好きな人がいるという設定の私と一緒に買い物に出かけた。私はその設定を心掛けて、心太には話すことにしている。
「その人の名前は?」
「名前?」
名前も知らない。声だけの人。
「音…。おとさん」
「へ?」
「篠原音さん」
篠原は中学の担任の名前を借りた。
「音さんはね…。私が孤独な時に、ずっと『大丈夫』って言ってくれた人だから」
それは本当だった。私の妄想の中の人物であれ、音さんがいたからこそ耐えられた。音さんのことを勝手に想像して、背は百八十だの、有名大学を出ていて、芸能人に似ているだのと適当に言った。
適当な言葉が段々現実実を帯びて、私の中で「音さん」は出来上がってきた。
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