無題ノート

真久部 脩

第1話:空白の脚本家


◇シーン1:屈辱のダメ出し◇

***


凍てつく冬の午後、テレビ局の一室。

空気は重く張り詰め、まるで氷点下のようだ。

ソファの前に呆然と立ち尽くしたままの岡山雄大ゆうだいは、顔を蒼白にし、ただひたすらに頭を下げていた。


目の前には、腕を組み仁王立ちするプロデューサー、生瀬なませ譲治じょうじの、怒りに歪んだ顔がある。


「もう一度言ってみろ、岡山!この短い脚本で、一体どう書いたらこんなに話が破綻するんだよ!」


生瀬の声が、怒鳴り声となって部屋に響き渡る。


「こんなもん、そこらへんの中学生の感想文でも恥ずかしいくらいだわ!お前、本当にやる気あんのか?あぁ!?」


雄大の胸ぐらを掴み、生瀬はさらに顔を近づける。

酒とタバコにまみれたその息が、雄大の顔にかかる。


「申し訳ありません…!すみません、本当に…!」


雄大はそれしか言えない。

才能がないと突きつけられる屈辱。

情けなさと、全てを諦めてしまいたい感情が、彼の全身を支配する。


かつてコンクールで入賞し、「天才」と持てはやされた栄光は、今や遠い幻のようだ。

深夜ドラマどころか、打ち切り後の穴埋めに急遽書いた単発ドラマすら、この有様だ。


その時、コンコン、と控えめなノックの音がした。

ガチャリと扉が開き、そこに立っていたのは、爽やかな笑顔を浮かべた売れっ子脚本家、中村しょうだった。

おそらく次クールのゴールデンタイムのドラマの打ち合わせだろう。


「あ、中村先生!お待ちしてました!」


生瀬は雄大を突き放し、すぐさま満面の笑みを中村に向ける。


「いやぁ、ちょうど終わったところです。ささ、どうぞこちらへ」


雄大は顔を上げられない。

中村の靴音が、彼の横を通り過ぎ、ソファに腰を下ろすのがわかる。

彼の脳裏には、ただただ生瀬の怒声と、中村の華やかな存在だけが残る。


「……っ」


雄大は、それ以上そこにいることができなかった。

謝罪の言葉を絞り出し、足早に部屋を出た。

中村が、自分を一瞥したのかどうかも定かではない。


◇シーン2:自暴自棄の夜◇

***


テレビ局の廊下を、雄大はただ歩いた。

どこへ向かうでもなく、足だけが動く。


中村に見られた。

あの惨めな姿を。


彼の輝きと、自分の絶望が、あまりにも対照的だ。

自尊心は粉々に砕かれ、彼の心は乾ききっていた。

もう、書くことなど、何もかもどうでもいい。

ただ酒を飲んで、全てを忘れてしまいたい。


気がつけば、雄大は深夜の居酒屋にいた。

熱気と喧騒が渦巻くカウンター席の片隅で、彼は焼酎のロックを呷っていた。

グラスが空になるたび、ひたすら次のグラスを注文する。


すでに顔は赤を通り越して土気色になり、焦点の定まらない瞳が、空虚に宙を彷徨っている。


「どこで間違えたってんだ……」


低い声で呟く雄大の周りには、使いかけのノートと、ペンが転がっている。

中学生でも使わなそうな地味なそのノートには、走り書きされた殴り書きの文字と、アイデアらしきものが羅列されているが、どれも完成には程遠い。

まるで、行き場のない才能が、掃き溜めのように紙の上に投げ捨てられているかのようだ。


「俺は…俺は一体、何が書きたいんだ……!」


グラスをテーブルに叩きつけるように置いた瞬間、隣に座っていたサラリーマンがギョッとして彼を見た。

雄大はそれに気づくこともなく、再び焼酎を流し込む。

彼の胸には、わずかな栄光と、その後の長い転落の記憶が、濁った酒のように渦巻いていた。

全てを諦めてしまいたい。そう願う気持ちだけが、彼の体を支配している。


◇シーン3:交通事故◇

***


居酒屋を出た雄大は、冬の夜風に煽られながらも、真っ直ぐに歩くことができない。

千鳥足でふらふらと、人通りの少ない道をあてもなく進んでいく。

脳裏には、生瀬の怒声だけがこだまする。


「全部、無意味だ……」


その時、一筋のヘッドライトが、雄大の網膜を焼き焦がした。

甲高いブレーキ音が耳をつんざく。

彼が何かを認識する間もなく、巨大な鉄の塊が、鈍い衝撃と共に彼の体を弾き飛ばした。


「ああ、こんなありきたりな展開、また怒鳴られるなぁ…」


そんなことが頭をよぎったと同時に、体が宙を舞い、アスファルトに叩きつけられる。

視界が急速に暗闇に飲まれていく中、彼の意識はプツリと途絶えた。


◇シーン4:病院の目覚め◇

***


…白い天井。

消毒液の匂い。

かすかに聞こえる機械音。


雄大はゆっくりと目を開けた。

そこは病院のベッドの上だった。

体中が軋み、頭には鈍い痛みがある。


「あ、目が覚めた」


優しい女性の声が聞こえ、視線を向ける。


そこにいたのは、見慣れない二人の女性だった。

一人は黒髪を横に束ねた儚げな印象の女性。

もう一人は、さらりとしたショートヘアが知的な雰囲気を醸し出す、白衣の女性だ。


「ご心配おかけしました、白石美琴みことです。こちらは岡山さんの担当の臨床心理士、加藤明奈あきなさん」


黒髪のほうの女性、白石美琴が、柔らかな笑顔で話しかけてくる。

美琴の隣に立つ、知的な雰囲気の女性、加藤明奈は、雄大のカルテに目を落とした後、静かに彼を見つめた。


雄大は、彼女たちの顔を懸命に見つめるが、何も思い出せない。

自分の名前すら、曖昧だった。


「あの……すみません。あなたは、誰ですか?」


絞り出すような雄大の声に、美琴は少し驚いたような顔をするが、すぐに微笑んだ。


「覚えていなくても、大丈夫ですよ。ゆっくり思い出していけばいいんですから」


明奈は雄大の問いには直接答えず、ただ静かに彼の瞳の奥を探るように見つめているだけだった。

その視線に、雄大は何か複雑な感情が宿っているように感じたが、それが何なのかは分からなかった。


◇シーン5:見慣れない日常◇

***


数日の検査ののち、雄大は退院することになった。

幸いにも身体に大きな問題はなく、あとは定期的な通院で良いとの判断だった。


だが、記憶は一向に戻っていなかった。

不安がないと言えば嘘になるが、入院費も掛かるだろうし、これまでの日常を取り戻せば何か思い出すかもしれない。


それに美琴と明奈の二人は、その後も頻繁に顔を出してくれて、あれこれ面倒を見てくれた。

退院の際にも付き添って、そのまま雄大をタクシーに乗せ、彼の『家』だと告げられた場所まで連れてきてくれたほどだ。


しかし、マンションのエントランスから、オートロックを解除して入る部屋まで、雄大には全く見覚えがなかった。


「鍵はここにありますよ。何か困ったことがあったら、連絡くださいね」


美琴が、鍵の束と、彼女たちの連絡先が書かれたメモを雄大の手に握らせる。


「しばらくは無理せず、ゆっくりしてください。脚本は落ち着いてから、いくらでも書けますから」


明奈は表情を変えず、ただ雄大の様子を観察するように見つめている。

自分が脚本家を生業にしていたことは二人から入院中に聞かされていた。

その実感はまるでないが、なんとなく文章を書くことは好きだったような気がする。


そして二人は、雄大が部屋に入るのを見届け、静かにエレベーターへと消えていった。


ドアが閉まり、一人になった部屋は、静まり返っていた。


カーテンが引かれたままで薄暗い室内。

埃を被った家具と、無造作に積み重ねられた本や資料の山。

どれも雄大には馴染みがない。

本当にここが自分の家なのか?


雄大は、リビングの中央に置かれた机に目をやった。

散らばった紙くずや、書きかけの原稿用紙の山。


その中に、なぜか気になる一冊のノートがあった。

表紙には何の装飾もなく、ただ黒いマジックで「無題」とだけ書かれている。

まるで、その中身も、書いた本人も『無題』であるかのように、今の雄大には感じられた。


雄大は、引き寄せられるようにそのノートを手に取った。

分厚いノートのページをめくる。


そこには、びっしりと手書きの文字で、簡潔なタイトルと、なぜか『袋綴じ』にされた内容と思しき原稿がいくつか綴じられてあった。


『ウソつきの恋人はホントを知らない』

『キスの数だけ観覧車は回る』

『盗作サークルの密約』

『生徒と教師と小説と』


書かれているタイトルは様々だが、なんとなくドラマになりそうな雰囲気だ。

あいにく雄大は、そのどれにも心当たりこそなかったが、なぜか胸の奥がざわつくのを感じた。


これが、一体誰のノートなのか。

そして、なぜ自分の机の中にあるのか。


「考えたってしょうがないか。今はゆっくりするしかないよな」


明奈の指導もあったことだし、ここは部屋でのんびり過ごすことにした。


◇シーン6:再起への誘い◇

***


そんな穏和な時間を断ち切るように、けたたましい着信音が部屋に響いた。

目の前のスマートフォンが震えている。


画面を見ると、「生瀬P」の文字が表示されていた。

雄大は一瞬躊躇するが、意を決して通話ボタンを押した。


「…もしもし、岡山です」


「おお、岡山か!やっと連絡がついたな!」


病院では聞くことのなかった陽気な声が響く。


「退院したって聞いたぞ。いやあ、大変だったな。しかし、俺も心配でな。それで、もう大丈夫なのか?」


「はい、おかげさまで…」


雄大は言葉を選ぶ。


「まだ記憶が曖昧ですが、体はもう…」


「そうかそうか、それなら良かった!」


生瀬は雄大の言葉を遮るように言い放った。


「実はな、お前に頼みたい仕事があるんだ」


雄大は耳を疑った。

この人はまだ記憶も定かではない自分に仕事をしろというのか?


「今、中村先生がメインで手掛けてる配信ドラマがあるだろう?そのスピンオフなんだけど、ちょっと手を貸してくれないか?中村先生も忙しいからな。お前なら書けるさ」


「スピンオフ、ですか…?」


雄大は困惑した。

だいたい記憶のない自分に、脚本など書けるはずがない。


「ああ、もちろん無理は言わないよ。だが、お前の才能は、俺が一番よく知ってる。それに、せっかく復帰したんだ。また書いてみたくはないか?……なあ、もう一度、ペンを取ってみろよ」


生瀬の言葉は、雄大の乾ききった心に、ほんのわずかな波紋を広げた。

書く、ということ。

それが、かつての自分の全てだったはずだ。


「数日、時間もらえますか?」


雄大は自然とそう答えていた。


「おお、楽しみにしてるからな。メインドラマのほうの脚本はメールしとくから、あとはよろしく!」


そう言って電話は切れた。


◇シーン7:無題ノートのデビュー◇

***


雄大は生瀬との電話を終え、再び先ほどの「無題ノート」に目をやった。

今の自分には、書くべきものがわからない。

そもそも書けるかどうかすら分からない。

どうすればいいのか。


「…さっき、中村先生って言ってたな…」


雄大は、とっさにケータイから中村の連絡先を探し、電話をかけた。

呼び出し音が続く。


「もしもし、中村です」


中村の声は明るく、淀みがなかった。

雄大は、生瀬からスピンオフの話が来たこと、そして自分に記憶がないことを率直に話した。


「そうか、記憶がないのか。それは大変だったな」


中村の声には、かすかな同情と、どこか探るような響きがあった。


「だが、脚本の話は受けてみたらどうだ?書けない、なんてことはないだろう。お前は才能があるんだから」


「でも、何をどう書けばいいのか…」


「書けないなら、書けばいい。それが俺たちの仕事だろう?それに、お前にはまだ時間がある。ゆっくりと、自分と向き合って書けばいい」


中村の言葉は、まるでどこか遠い場所から響くように、雄大の耳に届いた。

励ましなのか、それとも何か別の意図があるのか、今の雄大には判別できなかった。


だが、その言葉が、わずかながら彼の背中を押したのも事実だった。


電話を切った雄大は、再び机に戻った。

目の前には、まだ見ぬ自分自身の物語が眠る「無題ノート」がある。


彼は内心、忘れている自分がその中に潜んでいるような興奮を覚えながら、震える手でノートを広げた。


そして、最初に目に飛び込んできたプロットの『封』を開く。


『ウソつきの恋人はホントを知らない』


雄大は、それが一体何なのかも分からぬまま、ペンを握った。

空白になった記憶の代わりに、ノートの文字だけが、彼の新しい物語を紡ぎ始める。


(第1話 終)

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