李徴転生!~どうしても虎になることを回避できない俺が出会った世界一の女~

虎2025

プロローグ 

 ーーさらば袁傪えんさん、君を忘れない。


 李徴りちょうは心中そうつぶやき、月の残光がまだ残る山中を駆け抜けた。

 暗闇は既に山から消え、残月の光から徐々に陽光に代わりつつあった。

 その大きな黒い瞳には、大粒の涙がこぼれ落ちた。

 

 思えば、どこかで立ち止まることや振り返ることをやめた人生だった。

 後悔はいつまでたっても消えず、しかし自らの体を見つめると、もう立ち戻れないことは明らかであった。

 腕には皮膚が見えないほどに毛が生え、そしてもはや人の物とは思えない手があった。


 袁傪に李徴は言った。

「我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である」と。

 今更。なぜ後戻りもできない状態になってから、こうして冷静に立ち返れるのだろう。

 そして心の底から悔やんだ言葉を袁傪の口から聞いた。

 ーーその声は、我が友、李徴子ではないか?

 自分の性格が災いし、勝手な人生を歩み、そして消えた人間に対して、袁傪は「我が友」と李徴に声を掛けたのだ。

 李徴は自分を恥じた。虎になった日よりも強く悔い、そして自らを恥じた。

 今の方がより虎にでもなっているのではないだろうか…いや規則性があるのか知らないが…。

 李徴はそう思って、鏡になるようなものを探した。少し先に池が見える。李徴はそこにゆっくりと歩き出した。


 李徴は袁傪のことを思った。

 進士の合格同期生であり、その当日に声を掛けてくれた袁傪。李徴はその時、自分が不本意にも官吏になることを心の底から軽蔑していた。本当は詩人として大成したいという気持ちは拭えなかったのだ。

 侮蔑的な表情をして佇んでいた李徴はそこで肩をたたかれた。

「今日から同期だね、よろしく」

 袁傪は柔和な笑顔でそういった。李徴はこうした人の善意にめっぽう弱く、どのように接していいのか分からず、うわの空で、

「ああ」

 と答えるのがやっとだった。

 しかし二人は何かにつけて一緒にいることが多くなった。

 李徴は思う。おそらく温和で優しく忠誠心もあった袁傪の性格が、神経質で峻峭な自分の性格と衝突しなかったためであろうと。


 枯れて涙も出なくなった。池のすぐそばまでやってきていた李徴は、自分の姿がみたいとは既に思わなくなっていた。

 喉が渇いていた。水が飲みたいと思って、池の畔で口に水を含んだ。

 その時だった。

 池の水面がふっと止まり、誰かが李徴を呼んでいる声が聞こえた。

 声はしきりに自分を招く。覚えず李徴は声を追って池に飛び込んだ。

 水中を泳げど泳げど、声はやむどころか強くなっていく。

 自分を呼ぶ声はどこから響いているのか、我を忘れて泳ぎ続ける。

 ーーもしかして、これは袁傪なのか?

 そう思ったとき、自分を呼ぶ声が大きく響き、李徴はそこで大きな水流に飲まれるような感覚に包まれた。

 苦しく、荒波にもまれ、そして李徴は気を失った。


     *


 李徴は自分の頬をたたく音で目覚めた。

 見たこともない服を着た男女と、その後ろに佇む少女の姿。

 そして周囲には、高くそびえる、見たこともない建物群。

「おにーさん、おにーさん」

 だるだるの服を着た、見たところ同世代くらいの男が声をかけてくる。

 李徴はあっけにとられ、左右を見回した。

 石造りのようでいて、それとは違う滑らかな地面。建物はみな縦に伸び、庇のようなものもない。

 …まさか、屋根が……見えないのか…?

 そう思って空を仰ぐと、男が笑いながら後ろの少女に声をかけた。

「本当にこいつが助けてくれたの?」

 少女は小さくうなずき、李徴のほうをじろじろと見て言った。

「うん。空から誰か落ちてきたと思ったら、この人が地面に跳ねて転がってた。なんか叫んでたよ」

「跳ねてた!?」「うん、ぴょいーんって」

「おまえ、それ助けたっていうか、助けられてないんじゃね?」

 そう言いながらも男は李徴の肩を軽く叩き、

「とりあえずさ、濡れてるし……ウチの店で休んでいかない?」と道を指さした。

 李徴はようやく、自分が全身ずぶ濡れであることに気づいた。

 服の感触も、肌に貼りつく素材も、今までのものとはまったく違う。

 

 そして同時に、気づいた。

 自分が人間に戻っているということに。

 そして、袁傪の声を追っていたはずなのに、どこかよく分からない場所にたどり着いてしまったことに。


 既に日は昇り、あの夜は遠くなっていた。

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