花天月地【第27話 暁】

七海ポルカ

第1話




 朝早く起きることはいいことだ。



 これは競争みたいなもので、

 早く起きれば起きるほど、他の起きてない連中よりも先手を打って行動しているということなので、得をしているのだと思うようにしている。

 

 賈詡かくは人が活動していない時間に活動するのが好きだった。

 長安ちょうあんにやってきた時、街にも王宮にも人がたくさんいるのが楽しすぎて、夜な夜な彷徨い歩いて完全に夜行性になったことがあったのだが、日中の軍議で居眠りばかりすることを荀彧じゅんいくに「子供じゃないんだからいい加減にしなさい」と静かに叱責されてからは、そうだ俺は子供じゃないんだから軍議で寝てる場合じゃないと反省し、それでも人が寝ている時間のこの、しんとした空気がどうしても好きなので、夜行性人間は卒業し、早朝起きる人間になることにしたのである。

 

 軍では荀彧に叱られた時は決して楯突かず各々猛省するように、という暗黙の了解がある。

 荀彧は普段、そんなに怒らないからである。

 気に障ったことがあっても彼は弁が立つので的確に注意して大抵は終わる。

 それに全く、正論だからだ。

 荀彧は理不尽なことで他人を怒ったりしない人間だった。

 その荀彧が声を荒げて怒るなどとなると、もはや相手の方が何も言わずとも悪いので、反省すべしという認識が魏軍の末端まで共通に行き届いていた。


 起きてまずやることは散策だ。


 気のむくままぷらぷらしていると、意外なものが見れたりして楽しいのである。

 ぷらぷらその日も楽な平服姿で歩いていると、せいっ! とか はっ! とか元気いっぱいの声が聞こえてきた。


(これは別に全然意外なものじゃないけど、見ると楽しいものかな?)


 こんな早朝の修練場にすでに人影がある。

 

 楽文謙がくぶんけんだ。


 彼も早朝練習を旨とする武将である。

 賈詡は趣味だが楽進がくしんの場合、己に課した日課なので朝からでも全力でやる。


 前に早朝遭遇した時「賈詡どの! どうですか少しご一緒に!」などと笑顔で誘われて安易にああ少しなら構わんよ、と修練に付き合ったら長安宮ちょうあんきゅうの広大な建物の周りを全力で何周も回らされて、朝からとんでもない目にあった。


 許都きょとの王宮の周囲まで何周も回らされるわけにはいかないので、あいつに見つかっては絶対にいけない。


 ――しかし、と賈詡かくは剣をこんな時間から真剣な表情で振っている楽進の様子を、庭先から伺った。


 楽進のいいところは、ああいう酔狂な修練をちゃんと一人でやることだ。

 そして一人でやっていても、上達出来るところにあいつの才能がある。

 目指すべき頂や、敵の姿が分かっているのだと思う。

 ああいうのは一人でなんとなくやっていても上達はしない。

 しかし楽進は魏軍の武将の方でもまだ若い二十代前半の武将だったが、ここ数年の上達は著しかった。



呂奉先りょほうせんを見たことがあります!』



 楽進が前に話していた。

 魏の武将たちで集まって、飲んでいる時だ。


 聞けばまだ幼い頃、故郷の兗州えんしゅう陽平ようへいにいた時、下邳かひへ侵攻する呂布軍を見かけたことがあったらしい。

 楽進は小さい頃から軍人になりたくて地元の私兵団や、駐留部隊に少年時代から関わり過ごしてきている。

 その時もこちらに侵攻して来ないか偵察に向かった部隊についていって、途中、北から追撃に出て来た反董卓とうたく連合軍と呂布りょふ軍が戦闘になるのを見たことがあるという。


『危ないなあ』


 聞いたとき、顔を顰めていたのは李典りてんだ。


『侵攻しないか見に行ったって侵攻してきたらどーすんだよ。

 あいつ軍とはいえ気紛れな肉食獣みたいな侵略もしてたから、危なかったぞお前。

 あんなもん興味本位で見に行ったりすんな』


『でも……凄かったです!』


 楽進はその時に、呂奉先りょほうせんの戦いぶりを見ている。

 敵を寄せ付けず、戦場を縦横無尽に駆け回り、圧倒的な武で殺していく様を。

『今でも思い出すと身震いするほどでした。

 確かに、彼は残虐に人を殺す。

 でもそれだけではないないかを感じました。

 凶暴さの中にも、優れた武芸の身のこなしがちゃんとあって……。

 すみません、身内を殺されてる李典りてん殿には不快な話なのは分かるのですが』


『……いーよ。お前が別に呂布を手放しで誉め讃えてるわけじゃないのは分かってる』


『はい……。ですが、尚更私は思うのです。呂布にあれで正しい心があったら、きっと全く彼は違う武将になったのではないかと。

 董卓とうたくなどの許にいたから、全てを敵に回して、死んでいった。あんな見事な武人が。

 それは、間違っていると私は思うんです。

 彼を見てから尚更、武芸だけではなく心も磨かなくてはあれ以上の武人になれないのだと思い知りました』


 楽進は純真なところがあって、少年のような素直さで何か一つを見れば、十も二十も他の人間が学ばないことを学ぶことがあった。


『呂布を見てそんな学びにしてるの、お前だけだ』


 呆れたように李典が言ったが、彼の身内の仇である呂布について目を輝かせて話しても、李典を怒らせないのは恐らく楽進だけだろうと思う。


 その少年時代の邂逅から楽進の武の頂点には呂奉先が存在し、その男がああいう最期を迎えたからこそ、最強の武とは、心もまた伴わなければならないのだと、そのことまで分かって楽進は日々己を鍛えている。


『御立派だが、ちょっと不健全じゃないかねえ』

楽進がくしんですか?』


 荀彧じゅんいくが大演習を行う眼下の様子を見ながら、返してくる。


『そう。まあ呂布りょふについての考察にブレはないがね。

 ただ、あいつが呂布を見たのは子供のころの話だろう。

 あれから随分立経って、色んな武将も色んな戦いもあって、あいつはそれを見てきたのに、未だにああやって呂布の幻影に取り憑かれて休むことも気を抜くことも知らんっていうのは、俺は不健全だと思うがね』


『楽進殿がお嫌いですか』


『ううん。全然。むしろ好きよ。あいつはいいヤツさ。

 生真面目で先輩に言われたこと絶対断んないし。ただ、戦場で使いにくいんだよな』


『おや。私は夏侯惇かこうとん将軍から全く反対の意見を聞いたことがありますが』


『あの人は俺と違って豪毅な人だから、うじゃうじゃとあれやこれや考えてないんだよ。だから物の見方も違う。

 あの人は楽進を戦場のどこでも使える、元気いっぱいの若手ぐらいにしか考えてないでしょうよ』


『つまり貴方はそうではない?』


 賈詡かくはこめかみのあたりを指先で軽く掻いた。


『俺からすると危なかしいんだよ。あいつは。

 それにあの休むことを知らないとこも、遠征なんかじゃ他の部隊にまで変な影響を与えかねない。

 もう少し、遊ぶってことを覚えて欲しいんだがね。

 あいつといると俺の部隊の雰囲気まで、ちょっとおかしくなることがある。

 いわゆる……引っ張られるんだよ』



『それは多少なりともどんな部隊にもあることだ。何も楽進だけじゃないよ』



 足音が聞こえてきて、上の回廊から階段を降りてくる姿を振り返った。



『こっそり立ち聞きしたりしないでよ』

『君たちの話は聞くのが楽しいから』


 郭嘉かくかは優雅な足取りで降りてくる。


『やあ、大演習はやはりいいね。華やかで』

『体調はいかがですか、奉孝ほうこうどの。

 先だっての祝祭にいらっしゃらなかったこと、殿が随分心配なさっていました。

 久しぶりに郭嘉に会えるとはしゃいでおられたので』


『うん。もう大丈夫だよ。

 殿には近々長安ちょうあんにお会いに行くと伝えておいてくれ』


『そうですか。よかった、これで殿も安心なさいます』


賈詡かく、貴方は悪しき性質をしてるけど美しい女に惹かれたことはない?』


『え?』


 隣にやってきた郭嘉が突然何を言ったのかと思った。


『性根が悪女だけど、とても美しい女に惹かれたこと』

『……そりゃ、何回はあるけど。何のはなし?』

『強さとか美しさに惹かれるとかは、人間にとってどうにもならない衝動なんだよ。

 だから惹かれることを否定するのは無意味だ。

 でもそこで惹かれるからといって、手を出して悪い女を妻にしたり溺れていったりしてはいけない』



『……んーと……。

 俺のどの悪行があんたの耳に入ったのかな?』



 吹き出す音がした。

 荀彧が笑っている。


『あなたのことじゃなくて、楽進ですよ』


『楽進は確かに呂布りょふの武に惹かれてる。

 でもきっぱりと心は、一線を引いてるよ。

 ああ見えて彼は純真だけど頑強だ。悪い女にのめり込んでいく性質じゃない』


『下らねえこと気にしてねえでもっと楽進を使えよっていうお説教?』


 賈詡かくは腕を組んで首を少し捻る。


楽進がくしんのような人間は戦場で最も学べる。

 連れ出してどんどん学ばせて、鍛え上げてくれなければ。

 躊躇ってる場合じゃない。

 ついに劉備は国を持った。蜀に涼州が加勢したら相当手強くなる。

 楽進を城に置いていたって何の意味もないよ。

 それにね、貴方ほど優秀な指揮官に率いられれば部隊の精神も頑強だ。

 他から変な影響を受けたりはしない』


『楽進の気迫に乗っ取られるほどお前の部隊軟弱なのかよって今、嫌味を吐かれましたよね。郭嘉大先生』


『うん。そうなんだ』

『否定しろよ。なに微笑んでんだ』

『私からもお願いしますよ。もっと楽進を使って彼を鍛え上げて下さい。文和ぶんか殿。

 曹丕そうひ殿下にも、殿の夏侯従兄弟かこうきょうだいのように頑強な支えになる武将が欲しい。

 貴方には人を見る目があります。

 そして私も奉孝ほうこう殿も楽進のことは買ってる。

 貴方がそんなことを言って楽進を使わないと、私達は不安になります』


 左右を見遣ると、荀彧じゅんいく郭嘉かくかがそれぞれ微笑んで賈詡かくを見ていて彼は半眼になった。


『あのなあ……。

 あんたらのどこがそれ不安になってる顔なんだよ!

 常に自信満々のクセに嘘つくな!

 お二人さんが楽進買ってるなら多数決二対一だとか思うなよ!

 そらもう二百万対百くらいの圧倒的俺の劣勢だろ!

 あー分かった分かった! 使いますよ使えばいいんでしょ!』


『賈詡って意外とやさしいよね』


『うるせえな! 今言ったのどっちだ! 二人とも手をあげるんじゃねーよ!』


『いえ私も今偶然そう思いましたので』



 金属音が響き、賈詡は思索から醒めた。


 楽進がくしんは常から明るく大らかな性格をしているが、早朝修練の時は一人の世界に没頭できるようで、今は真剣な表情だ。

 時折見せる苦しげな横顔は、確かに追ってはいけない悪しき美しい女の姿を追い続けてる。

 それでも楽進は、幼い頃からの悪しき幻想に全く籠絡されていない。

 そういうものがあるから、純真な男が危機感を持って自分を鍛え続けることが出来るのだろう。

 

 つまり、楽進は呂布になろうとしているのではなく、

 呂布りょふにならないように己を戒め、その蛮勇を越えていこうとしている。



 ――次は涼州りょうしゅう遠征だ。


 

 賈詡は司馬懿しばいに、今回の遠征軍の総指揮を執るように命じられた。

 今、連れて行く部隊を吟味しているところなのだ。

 楽進は確か、まだ涼州の騎馬軍団と戦ったことはない。

 向上心の強い男だ。見知らぬ強敵相手に、きっとまた色々学ぶところはあるだろう。

 

 生きて帰りさえすればいいのだ。

 楽進の課題はそれだけだった。


 楽進の側に李典りてんがいる。

 いると言っても彼は調練する気はなく、側の階段の途中に寝そべって仰向けで爆睡していた。

 なら部屋で寝ていればいいのにと思うのだが、あれでいて李典は面倒見がいい。

 戦場で突っ走る傾向がある楽進を、どうも放っておけないのだろう。

 李典は李典で時折ムラ気を出すところがある。

 あまり戦場が好きなたちではないようで、心が戦場から離れることがあるのだ。

 自分には武芸以外にない、と心に決めている楽進とは丁度真逆な感じだ。


 李典は最初の頃、楽進がくしんと共に出陣するのを嫌がっていた。

 理由は賈詡が時折感じるものと同じで、

「あいつと一緒に出陣するとなんだか引っ張られる」

 と感じるかららしい。

 賈詡かくは何度か相談を受けたので、そうかそうかよく分かるよと頷きながら、思いっきり李典と楽進を一緒に出陣させてやった。

 李典のような男は、甘やかしても精進しない。

 それでいて我慢させてやらせれば、意外な力を発揮する。

 そのことを正当に評価してやれば案外本人もまんざらではない表情は浮かべるものだ。

 

 楽進は「李典殿とは出陣がよく重なりますので!」などという単純明快な理由で、普段からお互いをよく知っていなければならないと思っているらしく、何かと李典殿共に修練をしませんか! 李典殿遠駆けをしませんか! 李典殿は何がお好きですか! 街へ食べに行きませんか! お酒はお好きですか! などと積極的に声を掛けていた。


 李典は楽進のそういう性格を最初面倒臭がって逃げ回っていたが、最近はどれだけ逃げ回ってもあいつは最終的に家まで追って来る、ということに諦めたのか「ハイハイ……」と言いながら引きずりまわされているのを見るようになった。


 生真面目な楽進がいると、李典の注意が脇に逸れた時に呼び戻す役割を果たしてくれる。

 李典りてんは戦場に立てば冷静な男なので、楽進に足りない視野の広さを補えるだろう。


(この二人の組み合わせは、まずは候補の一つだな)


 賈詡かくはまた歩き出す。

 しばらく歩くと、立ち入る者を制限された奥庭の池のほとりに胡座を搔き、目を閉じている姿を見つけた。

 

 張遼ちょうりょうだ。

 

(おや。いつの間にか戻ってたんだねえ)


 張遼は軍でも名高い武将だが、華美に自らを飾り立てることを好まず、帰還のたびに仰々しく出迎えられることを嫌い、城に戻ってくる時もまるで小隊が帰還するように夜のうちに戻ってきたりするので、こうして到着を後日、ふと知ることがある。

 戦場にいる時は苛烈な男だが、城にいる時はああして人気のない時間に毎日早朝、同じ場所で瞑想している姿を見るのだった。


 賈詡は涼州りょうしゅうという土地、そして涼州騎馬軍を知っているため、正直最も今回連れて行きたいのは張遼と張郃ちょうこうの二軍だった。

 張郃はまだ長安にいる。

 この二人の軍は魏軍でも優れた機動力で名高い。

 統制が取れており、不慣れな土地での合戦でも隙を見せない。

 同じく機動力に優れた涼州騎馬軍は、東の人間からすると信じられない場所を信じられない速度で進軍する。

 奇襲も想定出来るため軍として早く、強固なこの二軍ならば、いかなる事態にも対応出来るはずだった。

 

 賈詡は司馬懿しばいとまだあまり組んだことがない。

 しかし司馬懿は曹丕そうひの信任を得たので、これからの魏軍の最高位には司馬仲達しばちゅうたつが就くのは明白だ。

 つまり、今回の涼州遠征を任された以上賈詡は結果を出さなければならない。

 使えることを証明し、司馬懿の信頼を得なければ魏軍の軍師としての未来はない。


 そのあたりが、楽進がくしんと李典の若い組み合わせを今回あまり使いたくない理由の一つだ。

 

 司馬懿は曹操そうそうに毛嫌いされていて、若い頃から秀才の誉れが高かったのに、長安ちょうあんにも許都きょとにも呼ばれず、各地を転戦させられていた。

 それに不満も示さず淡々とこなしていたのが、司馬懿の変わっているところなのだが、司馬懿は曹操に信任されたからと言って惰性で曹操軍の武将をそのまま使うようなことは一切なかった。


 自分の目で見て、全てを新しく選び出そうとしている。


 魏軍には郭嘉かくかがいる。


 曹操に評価された才能だが、郭嘉の才能は誰が見ても分かる類いのものだから、現時点でも司馬懿が郭嘉を評価していることは明らかで、賈詡は自分の力を示さなければならなかった。


 張遼ちょうりょうは目を閉じた静かな表情でそこに佇んでいる。

 側に白い水鳥が、じっとしていた。


(俺もあんな境地に早く辿りつきたいもんだね)


 何があろうと揺らがず、

 自分の力を信じ切る。


 あいつに悩みなどあるのだろうかと思いながら歩き出す。




 曹仁そうじん赤壁せきへきで戦闘不能にされたことは痛い。


(無論、孫伯符そんはくふ周公瑾しゅうこうきん黃公覆こうこうふくを失ったは痛いどころの騒ぎじゃないと思うが)


 曹仁が任されていた西の戦線には曹休そうきゅうが送られるようだが、仕方がないとはいえ役不足は当分否めないだろう。

 

(曹休が【定軍山ていぐんざん】あたりに入ろうもんなら、しょくに合流したっていう涼州りょうしゅうの騎馬隊が今こそ好機だなんて喜び勇んで飛び出してきそうだ)


 賈詡かくは腕を組む。


(しかし問題は、呉蜀同盟が決裂しているということだ。

 折角勝ったんだからあとのことはあとのこととして、結んだままにしとけば魏軍の動きを牽制出来たのにねえ)


 赤壁せきへきで連合軍の総指揮を執った周公瑾しゅうこうきんは、噂通りの優れた軍師だったわけだが、何をそんなに生き急いで蜀と手を切ったのかと思わせたものの――赤壁後、病死したと聞いてああ、生き急いだように見えていたのは、そうかまさに生き急いでいたのだなと理解した。


 賈詡は周瑜しゅうゆの病死を、郭嘉かくかに伝えられなかった。

 

 当時涼州方面にいた帰りに故郷の穎川えいせんで静養中の郭嘉に伝えてくれと荀彧じゅんいくに随分依頼されたのだが、色々忙しいとウソをつき、逃げ回りつづけた。

 結局荀彧が伝えに行ったという。


(そういうところはあいつは文官のくせに豪気だ)


 郭嘉は赤壁の時、病気はよくなりつつあったが数年に及ぶ闘病生活で、すっかり身体は弱りまだ起き上がれない状態だった。長江ちょうこう出陣が決まるとそれからは毎日のように戦況の様子を病床でも聞きたがっていたという。

 そういう場合、這っていけるなら這ってでも長江に行った男だろうから、まだ相当身体は悪かったのだと思う。


 赤壁の敗戦を聞いた時の様子を賈詡かく荀攸じゅんゆうに尋ねたことがある。

 

『まず、……殿の身を案じられていました。

 ご無事だということに安堵されておられました』


 荀攸は優れた文官だが、

 荀彧と違い、もう少し感情が漏れ伝わってくることがある。

 空気や、些細な言い回しにそれが出る。


 だがあの男の場合敢えてそういうものを、聞きたがってる相手に見せてくることもあった。あの時はそうだったのだろうと思う。


 要するに郭嘉かくかは事実を冷静に、静かに受け止めたと荀攸は言ったが、実際はその真逆だったということだ。


 賈詡は全く別のところから赤壁の敗戦を聞いた時、郭嘉が激怒し、自分の部屋も滅茶苦茶にし暴れ回って、倒れて動けなくなるまで、家の者も誰も近づけないほど激昂していたという話を聞いている。


 彼は南伐なんばつをすべきではないと言っていたから、その結果の敗戦に激怒したのだろうと夏侯惇かこうとんが言っていたが、賈詡は違うと思っている。



(自分に対しての怒りだろうよ)


 

 南伐を止められず、

 その場で曹操そうそうと一緒に戦うことも出来なかった。

 そういう『役立たずな自分』に対しての怒りだ。

 だからそういう時に身体が危ないからそんなに暴れないで気を鎮めて下さい、などと言われて郭嘉かくかが分かりましたなどと止まるはずがない。


 あんな優雅な風体をしていても、あれはとんでもない闘争心と矜持を持った男だ。


 周瑜しゅうゆの病死を伝えた時、


 郭嘉がかつて一度も見たことのない顔を見せたと、荀彧じゅんいくが言っていた。




『……郭嘉殿が心配です』




 二人の間にどんな遣り取りがあったかは分からないし、荀彧に嫌な仕事を押しつけておいて言うことではないと分かっているが、せめてついていけば良かったと賈詡かくはそれだけは後悔した。


 病の床にあり、赤壁せきへきを戦えなかった男と、

 赤壁を戦い、勝って、病死した男。


 郭嘉は優れた軍師だが、何故かまだ心のどこかに少年のようなところが残っていて、それがいつだって後者の方でありたいと望むような所があった。


 曹操そうそうに郭嘉が深く愛されたのは、稀な才能を持ち、強い意志と、武将のような闘争心を持ちながらも――時折そういう純朴な感性で泣いたりすることがあるからだと思う。


 曹操は曹丕そうひを嫌っていたが理由は多分、そういうところが曹丕に無いからなのだ。


 赤壁の敗戦と、追って知らされた周公瑾しゅうこうきんの病死に郭嘉が受けた衝撃は凄まじく、後に荀彧じゅんいくが「死んでしまうのではないかと思った」と、郭嘉の長安ちょうあん帰還を知らされた日、それを祝って仲間内で飲んでいた時に吐露している。


 郭嘉は戻って来た。

 何故戻ってこ来れたのかは分からない。

 しかし戻って来た彼は以前の覇気や優雅さをすっかり取り戻していて、

 賈詡が思ったのは、ただひたすらに



(強い男だな)



 ということだけだった。


 そういえばそういうことを赤壁後、郭嘉かくかとは話していない。


 死ぬほどの絶望を味わったのだろうから、彼が話したくないと言えばそれまでなのだが、何か話していいと思うことがあるならば、聞きたいとは思った。


 そういう意味では郭嘉の思惑は違うところにあるようだが、賈詡かく自身は郭嘉の今回の出陣要請には、応えてもいい気はしている。


 司馬懿しばいにはお前は郭嘉を副官にするとは度胸と軍師としての矜持がないのかなどと思われそうだが、まあそれはこの際どうでもいい。

 郭嘉は見事な男だ。

 共に戦線に立てる機会は貴重だし、

 この世のほとんどの軍師が郭嘉の才気には負けている。

 別に自分だけが劣ってるわけではないのだから、そう気にしなくてもいいだろうと賈詡はもはや開き直っていた。



(俺は勉強熱心だからね)



 つらつら考えながら王宮の端から端までやって来る。

 城壁にのぼると、丁度朝日が射し込む所だった。


 許都きょとの巨大な城下町、それを母の腕のように包み込む城壁、その向こうに平原が続く。 そして更にその向こうに見える、山陰。


 涼州りょうしゅうはあれよりも更に遠くの西である。


 戦場などに出ていれば、いつも死ぬ覚悟はしている。

 死ぬのは一瞬だ。


 自分でさえ、何故今ここで生きているのか分からないほどの一瞬を重ねて、ここにいる。


 

(戦場に誰を連れて行くかということは)



 ある意味、死なせる誰かを選ぶことだ。


 死なせる誰かを選び、

 死なせない為の方策を考える。

 大敗して尚、勝つなどということは有り得ない。

 より多く将兵を死なせた者が敗者だ。


 それが軍師としての賈詡かくの心得である。



 ――朝日が射し込む。



 死者に明日は来ない。


 永遠の闇の中だ。


 朝日を浴びるたび、賈詡は自分が今日もまた生き延びて生きていることを実感した。





【終】

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