【お仕事短編恋愛小説】君の言葉に、肌触りを~インクと恋と活版印刷~(約27,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第1話:失くしたものを探して

 半年前まで、私の世界は光の速さで動いていた。


 日の出前の薄闇の中、スマートフォンのアラームよりも先にクライアントからの催促メッセージが鳴り響く。ピクセル単位で完璧に整列させたはずのデザインデータに、感覚的な一言で修正指示が入る。『もっとこう、シュッとした感じで』。その「シュッ」の正体を探してマウスを握りしめているうちに、窓の外は再び闇に沈んでいる。それが日常だった。


 クリック数、コンバージョン率、エンゲージメント。


 実体のない空虚な数字の羅列が私の評価となり、次の仕事を決める。深夜のオフィスで、コンビニのサンドイッチを胃に流し込みながら、モニターに映る無数の言葉と格闘した。より短く、より刺激的に、より刹那的に人の目を惹きつける言葉を。思考はすり減り、言葉はただの記号になっていく。


 創作への憧れを抱いて飛び込んだ広告の世界は、私の想像とは全く違っていた。


 クライアントの要求は日を追うごとに理不尽になり、深夜の修正作業は当たり前。「もっとバズるように」「もっとキャッチーに」――そんな言葉が飛び交う中で、私は自分が何を作りたかったのか、何を伝えたかったのか、全てを見失っていた。


 そんな目まぐるしい日々が、プロとして働くということなのだと、自分に固く言い聞かせながら。


 けれど、心の奥底では、いつも空虚感が渦巻いていた。私の作るものは、本当に誰かの心に届いているのだろうか。それとも、ただ消費されて忘れられていくだけなのだろうか。


 糸はある日、何の前触れもなく、ぷつりと切れた。朝、どうしてもベッドから起き上がることができなかった。


 身体が鉛のように重く、頭の中は白いノイズで満たされている。会社に休職を告げた電話の声は、自分でも驚くほどか細く、他人事のように聞こえた。


 そうして目まぐるしさからドロップアウトして三ヶ月。


 私は今、時間の流れそのものが止まってしまったかのような場所に、一人でぽつんと立っていた。


 東京の下町。


 私鉄の駅から続く活気ある商店街を抜け、さらに幾筋も枝分かれした先の、車一台がようやく通れるほどの路地裏。


 そこに、結城活版所はあった。


 祖父が亡くなって以来、半年ぶりに足を踏み入れる場所。錆びついたブリキの庇の下で、年季の入った木製の引き戸に手をかける。ギィ、と長い溜息のような軋みを立てて戸が開くと、むわりと、凝縮された空気が流れ出してきた。


 インクと油、古い紙、そして微かに甘い木の匂いが混じり合った、独特の香り。それは、記憶の奥底にしまい込んでいた、祖父の匂いそのものだった。私が幼い頃、この工房で遊んでいると、いつも祖父の厚い胸からこの匂いがした。懐かしさに胸が締め付けられ、同時に、逃げ出したくなるような衝動に駆られた。


「……やっぱり、片付いてないなあ」


 独りごちた声が、がらんとした空間に虚しく響いて消える。


 工房は、時が止まったというよりは、持ち主の不在を嘆くように、静かに崩れ始めているように見えた。


 壁一面を威圧するように埋め尽くすのは、無数の活字が眠る「ウマ」と呼ばれる木製の棚。版を組む際に活字を固定するために使用する道具だ。具体的には活字を組んだ後に、版全体を安定させるために活字の間や周囲に詰め物として使用する。


 その一つひとつに、明朝、ゴシック、楷書といった書体名と、号数を示す札が貼られているが、いくつかの引き出しは半開きのまま、中身が乱雑に溢れている。


 そして、工房の中央。


 この場所の主とも言うべき巨大な鋳物の塊――ハイデルベルグ社製の活版印刷機が、緑青の浮いたその体躯を沈黙させていた。主を失い、埃をかぶって鎮座するその姿は、まるで打ち捨てられた古代生物の骨格標本のようだ。その昔、リズミカルな音を立てて動いていたこの機械の記憶が、幻のように蘇っては消える。


 私は、この機械を「テフキン」と呼んでいた。


 なぜなら祖父がそれを「テフキン」と呼んでいたからだ。


 私が幼い頃、なぜそう呼ぶのか尋ねたことがある。祖父はインクで汚れた太い指で頭を掻きながら、こう教えてくれた。


『本当はテフートって呼ぶんだが、栞。よく見てみろ。この機械、まるでお手々を合わせて拝むようにして、紙を一枚一枚、大切に大切に印刷するだろう。だからな、じいちゃんは愛と畏敬を込めて、お手々の印刷機、テフキンって呼んでるんだ』


 当時は意味もわからず、ただその面白い響きを真似して「てふきん、てふきん」と呼んでいた。それから私にとってはこれはずっとテフキンだった。


 祖父は、几帳面な人だった。


 けれど今、作業台の上にはインクがべったりと固着したパレット、使い込まれて柄の艶が失われた道具類、そして赤インクで修正指示の入った校正刷りの紙が、乱雑に散らかったままだ。祖父が急逝する、その日の朝まで、ここで作業をしていた証だった。


 私は、その作業台に


 祖父が、この場所で、どんな思いで最後の一日を過ごしたのか。それを思うと、胸が苦しくなる。私が最後に祖父と電話で話したのはいつだったか。


『仕事が忙しいから、また今度ね』。


 それが、最後の会話だった。


 祖父は、いつも私を気にかけてくれていた。


 会社の激務で疲れ果てた私を心配して、何度も「たまには顔を見せておくれよ」と連絡をくれた。でも私は、その度に仕事を理由に断り続けた。本当は、祖父のゆったりとした時間が、自分の切羽詰まった日常と対照的で、なんだか居心地が悪かったのだ。祖父の優しさが、逆に自分の心の荒廃を浮き彫りにしてしまうような気がして、逃げていたのだ。


 後悔と自己嫌悪が、冷たい霧のように心を覆う。


 私が相手にしていたのは、画面の向こうの不特定多数の顔のない人々。そのために、たった一人の、大切な祖父との時間を疎かにしてしまった。このことは、悔やんでも悔やみきれない。


 


 一つのものを、時間をかけて、慈しむように作り上げていた祖父の姿が、この工房の隅々に染み付いている。それは、効率とスピードの名の下に、全てを使い捨ててきた自分自身の空虚さを、容赦なく突きつけてくるようだった。


 だから、早く手放してしまいたかった。

 この場所も。

 ここに染み付いた記憶も。

 全て。


 ポケットからスマートフォンを取り出す。この三ヶ月、私と社会を繋ぐ唯一の細い糸だ。不動産屋の担当者からのメッセージが、冷たい光を放っている。


『査定額の件ですが、中の機械類の専門的な処分費用を鑑みますと、このあたりが限界かと存じます……』


 提示された金額は、この土地の相場から考えても、驚くほど低い。


 足元を見られているのは明らかだった。けれど、もうどうでもよかった。この重荷から解放されるのであれば。私は乾いた指先で、『その金額で結構です。手続きをお願いします』と返信を打ち込んだ。送信ボタンを押す。クリック一つで、祖父が生涯を捧げた場所の運命が決まった。なんて、あっけないんだろう。


 これで、すべてが終わる。

 


 その日の午後、不動産屋の担当者が、契約書を携えてやってきた。小太りで、人の良さそうな笑みを常に浮かべているが、目の奥は鋭く光っているタイプの男だ。


「いやあ、結城さん。本当によろしいんですか? おじい様の思い出が詰まった場所でしょうに」


 言葉とは裏腹に、早く契約書にサインさせたいという空気が滲み出ている。


「思い出だけじゃ、固定資産税は払えませんから」


 私は、自分でも驚くほど乾いた声で答えた。会社を休職し、貯金を切り崩すだけの生活。それは、嘘偽りのない事実だった。


「まあ、それもそうですなあ。この機械も、今となっては鉄の塊同然ですしねえ」


 担当者がテフキンの巨体を軽く叩く。コン、と鈍い音が響いた。その無神経な仕草に、私の胸の奥がチリッと痛んだ。


 鉄の塊なんかじゃない。

 これは、祖父の相棒だったのに。

 そう言い返せない自分が、歯がゆかった。


 担当者がメジャーを取り出し、形式的に工房の寸法を測っている、その時だった。


 ギィ、と古びた引き戸が、今日一番の大きな軋みを立てて開いた。


 私と担当者が同時にそちらを向く。そこに立っていたのは、私とさほど年齢の変わらない、一人の男だった。痩身で、少し色素の薄い癖のある髪が、すっきりとした額にかかっている。黒い縁の眼鏡の奥で、静かな、けれど強い光を宿した瞳が、ゆっくりと工房の中を見渡した。まるで、初めて見るのに、ずっと探し続けていた場所にたどり着いた、というような顔をしていた。


「……あの、何か御用でしょうか?」


 私が尋ねると、男は初めて私たちの存在に気づいたかのように、少し驚いた表情を見せた。その視線は、私と担当者を通り過ぎ、再び工房の奥へと吸い寄せられていく。


「すみません。開いていたものですから……。ここは……」


「ええ、活版印刷所です。もう廃業しましたが」


「……そう、ですか」


 男は心から残念そうに呟くと、許しを得るでもなく、工房の中に一歩、足を踏み入れた。その目は、不動産屋の査定するような目とは明らかに違っていた。彼は埃をかぶったテフキンに近づき、値踏みするのではなく、まるで畏敬の念を抱いているかのように、そっとその鋳物の肌に触れた。そして、壁一面の活字棚を見上げ、恍惚としたため息を漏らす。


 その姿はまるで、教会で聖遺物を前にした巡礼者のようだった。


「……すごい。まだ、こんな場所が、東京の真ん中に残っていたなんて」


 男の呟きに、私はいらだちを覚えた。

 感傷でこの場所の価値を語らないでほしい。

 部外者に、一体この場所の何がわかるというのだろう。


「申し訳ありませんが、もうすぐここも更地になりますので」


 わざと、少し突き放すような言い方をした。


「更地に?」


「ええ。売却が決まったんです。そちらの、不動産屋さんに」


 私の言葉に、男は弾かれたようにこちらを振り向いた。彼の静かだった瞳が、にわかに動揺の色を帯びる。


「本気ですか? この場所を? このテフートも、ウマも、活字も、すべて?」


「当然でしょう。持っていても仕方ありませんから」


「仕方ないですって……?」


 男の声に、わずかに熱がこもった。彼は私にまっすぐ向き直ると、まるで信じられないものを説き伏せるかのように、言葉を続けた。


「ここは、ただの古い作業場じゃない。ここは、。それを……なくすだなんて、正気じゃない」


「言葉の、魂?」


 思わず、馬鹿にしたような声が出た。隣で不動産屋の担当者が、「面倒なのが来たぞ」とあからさまに顔に書いている。


「そんな非科学的な話、信じません。言葉なんて、今やただのデータですよ。0と1の羅列。画面の上を流れて、すぐに消費されて消えていくだけの、儚いものです」


「だからこそでしょう!」


 男の声が、工房の埃っぽい空気を震わせた。


「だからこそ、この場所が必要なんだ! 刹那的に消費される言葉じゃない、重さと、手触りと、痛みのある言葉を生み出すために! あなたは、!?」


 その言葉は、鋭利な刃物のように私の胸に、深く、深く突き刺さった。


 クリック数。

 コンバージョン率。

 バズるデザイン。

 キャッチーなコピー。


 上司やクライアントから、何度となく投げつけられた言葉が、脳内でフラッシュバックする。私は、何のために働いていたのだろう。何のために、夜中まで机にかじりついていたのだろう。


 思考を重ねて生み出したデザインも、言葉も、一瞬で消費され、忘れられていく。


 心を込めて作ったものが、翌日には新しい情報に押し流されて、誰の記憶にも残らない。


 虚しい。


 ずっとそう感じていた。


 その、一番見たくなかった、心の最も柔らかい部分を、見ず知らずのこの男に、無慈悲に暴かれた気がした。


「あなたに……あなたに私の何がわかるんですか!」


 私は、ほとんど叫んでいた。


 男はふっと視線を落とし、すうっと息を吸い込んだ。そして、もう一度私を見ると、先ほどまでの熱を抑えた、静かだが芯のある声で言った。


「お願いします。この場所で、


 あまりに唐突な、しかし切実な響きを持った申し出に、私は言葉を失った。

 不動産屋の担当者も、呆気にとられている。


「……無理です。だいたい、私に印刷の技術なんてありませんから」


「僕がやります。使い方は、独学ですが少しはわかります。このハイデルベルグは、僕にとって憧れの機械なんです」


「お話になりません。お引き取りください」


 私がそう突き放しても、男は諦めなかった。彼はしばらく何かを考え込むように黙り込み、やがて顔を上げると、一つの提案を持ちかけてきた。


「では、こうしてはどうでしょう。僕が、この工房の整理を無償で手伝います。機械や何万本という活字の運び出しは、業者に頼むにしても大変な作業でしょう? その代わり、空いた時間で、少しだけこの場所を使わせてほしい。この機械に、もう一度だけ、インクの匂いをまとわせてやりたいんです」


「……は?」


「あなたがこの場所を処分したい気持ちはわかりました。でも、僕はまだ、。どうか、お願いします」


 そう言って、男は深く、深く頭を下げた。その細い身体から、尋常ではない執念のようなものが伝わってくる。


 そのあまりの真剣さに、私は圧倒されていた。早くこの場所を整理してしまいたい。そのためなら、労働力はいくらあっても足りないのは事実だ。それに、この男をこのまま追い返しても、また明日、同じようにやってきそうな、そんな妙な気迫を感じた。


 なにより、「インクの匂いを過去にしたくない」という言葉が、私の心のどこかに引っかかっていた。その言葉には、私自身が感じていた、でも言葉にできなかった何かが込められているような気がした。


「……最終的な引き渡しまでは、まだ一ヶ月ほど時間があります。その間だけですよ」


 気づけば、私はそう口走っていた。渋々といった体で。不動産屋の担当者が、またあからさまに迷惑そうな顔をするのが視界の端に入った。


 顔を上げた男の瞳に、安堵と、そして確かな光が宿ったのを、私は見ないふりをした。


「ありがとうございます。僕は、月島つきしまみなと。詩を、書いています」


 それが、私、結城栞と、この古びた活版印刷所の止まっていた時間を再び動かすことになる男――月島湊との、奇妙で、そして運命的な出会いだった。

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