【微百合ファッション短編小説】シフォンの過去(きのう)とオーガンジーの未来(あした)(約26,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
序章『時を纏う少女』
朝の光が、レースのカーテン越しに柔らかく室内を満たしていく。その光を受けて、
トルソーが纏うのは、1950年代のクリスチャン・ディオールを彷彿とさせるAラインのワンピース。上質なウールクレープで仕立てられたその一着は、戦後復興期の女性たちの希望と憧れを、今なお静かに語り続けている。
紬は指先でそっと布地に触れた。半世紀以上の歳月を経てもなお、その繊維の一本一本には、作り手の息遣いと、それを愛用した祖母の体温が宿っているように感じられる。織り目を辿る指先から伝わってくるのは、単なる布地の手触りではない。それは、時間という名の糸で紡がれた、無数の記憶と物語だった。
二十歳になった今も、紬のスタイルは変わらない。
この朝、大学へ着ていくのは、ミントグリーンのブロードクロスで仕立てられたシャツワンピース。共布のベルトをきゅっと締めると、ウエストの細さが際立ち、ふわりと広がるスカートが優雅なシルエットを描く。ブロードクロスの程よい張り感が、彼女の凛とした佇まいをより一層引き立てていた。袖口に施された繊細なピンタックは、手仕事の丁寧さを物語り、控えめながらも確かな美意識を感じさせる。
手に取るのは、母から譲り受けた黒い革のハンドバッグ。イタリア製のカーフレザーは、長年の愛用で独特の艶を帯び、フラップのゴールドの留め具が「カチン」と鳴る音は、一日の始まりを告げる、紬にとっての神聖な合図だった。
東京の喧騒の中を歩きながら、紬は自分の纏う服に込められた物語に思いを馳せる。
ミントグリーンという色彩は、1950年代のアメリカで流行した「ミント・ジュリップ・グリーン」に由来する。戦争の記憶が薄れつつあった当時、人々は明るく希望に満ちた色を求めた。このワンピースのシルエットもまた、戦時中の質素で機能的な服装から解放された女性たちの、美しさへの切ない憧れを体現している。
文学部で服飾史も専攻する紬にとって、古い服は生きたテキストそのものだった。襟の形ひとつとっても、そこには時代の美意識が反映されている。ピーターパンカラーの丸みを帯びた可愛らしさは、戦後の明るい未来への憧憬を。ショールカラーの優雅な流れは、大人の女性の成熟した魅力を。スタンドカラーの凛とした佇まいは、女性の社会進出への意志を。それぞれが、その時代を生きた人々の内なる声を、今に伝える貴重な証言者だった。
ボタンひとつとっても、そこには物語がある。貝ボタンの自然な輝きは、海への憧れと純粋さの象徴。べっ甲風の樹脂ボタンは、贅沢への憧憬と実用性の折衷案。金属ボタンの冷たい光沢は、機能美への追求。紬はそうした細部に宿る、人々の想いを読み解くことに、無上の喜びを感じていた。
だからこそ、現代のファストファッションには心の底から失望していた。
数週間で消費され、何の物語も紡がれることなく廃棄されていく服たち。SNSで拡散される画一的なトレンド。次のシーズンには見向きもされなくなる刹那的な流行。
そこには、服と人との深い絆も、時間をかけて育まれる愛着も、何もない。あるのはただ、空虚な記号の羅列だけ。それは紬にとって、ファッションという文化に対する冒涜以外の何物でもなかった。
大学の最寄り駅へ向かう道すがら、ショーウィンドウに映る自分の姿を見つめる。ミントグリーンのワンピースは、めまぐるしく変化する東京の街並みの中で、まるでそこだけ時間が止まっているかのように、静かに、しかし確固たる存在感を放っている。これでいい、と紬は思う。流行遅れと笑う人がいても、これが自分の信じる「美しさ」なのだから。これが、自分なりの「抵抗」なのだから。
彼女はまだ知らない。
その静寂な世界に、まばゆいほどの光と、耳をつんざくような不協和音を奏でる闖入者が、間もなく現れることを。
過去の糸を大切に手繰る彼女の指が、未来から伸びてくる、まったく異質な繊維に触れることになるのを。時には絡み合い、時には弾き合う、そんな二つの糸が織りなすであろう、複雑で美しいタペストリーの存在を。
物語は、そんな運命的な出会いを、静かに待っていた。
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